13

 ポストを覗き込み、郵便物を受け取るとナマエは二階の玄関に向かった。買い物袋を片手にもち、カバンの中からキーケースを取り出そうと漁る。冷えた指先は悴み、なかなかうまく動かない。
 ナマエの胸中を右往左往するのは、今日のご飯の献立の算段と荷物を送ってきた相手のことだった。肉じゃがでも作ろうかと思ったナマエの脳裏には人参が浮かび上がっている。
 そういえば、彼はあれが嫌いだった。思い出して、ナマエは自然と苦笑をこぼしていた。

 思えば、聞きたいことを結局最後まで聞くことができなかった。
 ナマエの胸中を占めるのはそのことだった。さまざまな疑問を相手に抱きながらも、結局自分の弱さに負けて、逃げてしまった。

(香代ちゃんのように、聞けるように、なりたい)

 数日友人と共に寝食を過ごし、ナマエの気持ちはそう考えるようになっていた。

(いつか、誠二くんにも、あの時は、って…聞いて、)

 心の中で決めたことに、ナマエは僅かに鼻の奥が痛んだが、気にしないふりをして鍵を差し込んだ。

 開けた扉の隙間に体を滑り込ませると、一緒に冷たい風が部屋の中へと入ってきた。下駄箱の上に鍵を置いて、壁の照明スイッチを探すと明かりをつけた。
 明かりのついた部屋の上がり框に、買ってきた荷物を置く。ナマエは慣れた手つきで後ろを振り向くと玄関の鍵をかけた。

「ただいま」
「おかえり」

 返ってくるはずのない声に思わず息を飲み込む。季節はずれの汗が浮き出たナマエは、一瞬身を硬くした。
 鍵はしっかり閉めて行った。今朝方慌てていたが、それはしっかりと、きっちりと。

 そうじゃない、この声は。

 心臓がドクドクと激しく鳴り出す。なかなか振り向けないでいると、後ろの部屋で動く気配がして、ナマエの背筋は寒さとは関係なくぶるりと震えた。

「あれ? ナマエ?」

 数日ぶりに聞く声に、ナマエは驚きのあまり扉の前で立ち尽くした。
 頭の中で声と浮かんだ顔とを照らし合わせる。――藤代誠二だ。
 振り向けないでいたナマエだったが、気配が近づいて来たことを悟ると、意を決してくるりと上半身だけ捻った。
 Vネックのニットにジーンズ姿の藤代が、ナマエが置いた買い物袋の手前で立ち止まっていた。
 その容姿は、最後に藤代の家で見た時となんら変わりはなかった。その目も、左腕につけているそのブレスレットも――その姿にナマエの心は酷く動揺した。何を私は恋しいだなんて。
 我に返り、ナマエはやっと体が動かせた。捻っていた上半身を元に戻し、かけた鍵を解除してドアノブを捻る。

「なにしてんの、自分の家でしょ」

 後ろから、太い腕が伸びてきてナマエの腕を掴んだ。そのまま勢いよく引っ張り家の中へと引きずり戻した。半分まで開いていた扉は、無情にも勢いそのままにバタンと閉じた。

「防犯防犯っと」

 後ろからもう片方の手が伸びてきて、鍵を締められる。己の顔の横を通り過ぎた腕を、ナマエはただじっと見つめることしかできなかった。ただただ心臓が、破裂しそうで痛い。
 触れられている右手が、熱くて切ないほどに苦しい。すぐ後ろに感じる相手の気配に、ナマエは声が出なかった。今から、何をされるのだろうかという恐怖がナマエの脳裏を過る。後ろで相手が息を吸ったのがわかった。自然と身構える。

「俺、絶対別れないから」

 彼らしくない、酷く硬い声だった。

 そう言うなり藤代は掴んでいたナマエの手をパッと離した。そのまま部屋の奥へと向かっていく。

(いま、誠二くんは…なんて…)

 ただ茫然と、ナマエは立ち竦んだ。言われた言葉をもう一度自分の中で反芻する。

 意味を理解すると、ナマエの胸の中に何か温かいものが広がった。先程までもっとひどい罵声でも浴びせられると思っていたのだ。まさか――聞けるなんて思っていなかった言葉に慌てて前を向くと靴を脱いで部屋へと上がり込む。買い物した袋に足が触れてがさりと音を立てた。
 足を上げてそれらを跨ぐ――その少しの間に、ナマエは再び冷静に考えた。
 ミクシィに載っていた写真、行為を終えたらすぐに帰ってしまうクセ、あの自分ではない女性との合コンメール。以前就職活動をしていた時に見た、女性の背中に触れた藤代の姿。あの、眼から焼きついて離れなかった光景。

――他にナマエと同じような人がいるかもしれない、という疑問を払拭することが出来なかったこと。なぜこうなったかを思い出せば、浮かれられるはずがない。

 すぅっと、何かが冷えていくようだった。
 先程浮かんだ気持ちはシャボン玉のように割れてちりぢりに散ってしまった。

「誠二くん、何してるの」

 ナマエは握った拳に力を込めて、声を振り絞った。力みすぎて、ナマエの声は震えてしまっていた。

「なにって、見てわかるでしょ」

 藤代は、先日ナマエが藤代の家から帰ってきてしまおうとしておいた服の山を持っていた。あの時使っていた旅行鞄に再び詰め込もうとしているのが見て取れる。

「わかるって…でもこれ、私の…やめて」

 旅行かばんの中に無理やり詰め込もうとしている藤代を止めようとナマエは近づいた。躊躇いがちに手を伸ばす。その手を通り越して伸びてきた藤代の手がナマエの肩を強く掴んだ。思わずびくりと震える。

「ねえ、なんであんなことしたの」

 藤代は強い眼差しで彼女の瞳を捉えた。引きずり込まれるように藤代から目を離せなくなったナマエは、ごくりと唾を飲み込んだ。

「遠征先から電話かけたら繋がらないし、メールの返事は来ない。家帰ったら鍵が玄関に落ちてて荷物はなくて置き手紙……おまけに箸は捨てられてるし」

 ナマエはぐるぐると胸の中に渦巻く痛みやら緊張で、言葉が浮かばなかった。戸惑っていると、言葉を切った藤代が顔を俯かせた。

「された身になってよ、辛くないと思う?」

 藤代らしくない、不安と憂いを含んだ声音。俯いた藤代の顔はナマエには見えない。一体彼はどんな顔で話しているのだろうか。

「ねえ、なんで。何がダメだった? 一緒に暮らして俺のことヤになった?」

 顔を上げた藤代の切実な表情に、ナマエは言葉を詰まらせた。鼻腔の奥を擽られ、ナマエは潤んだ彼の瞳に胸の奥からこそばゆい感情が込み上げてきた。

「ナマエ、お願い。別れるなんて言わないで」

 ここまで言われてしまえば、何も言わないわけにはいかない。ナマエはそう確信した。
 しかし、いつもこういった場面に直面しても、ナマエは自分の気持ちを言うことができなかった。言えない――そのことがさらにナマエの唇を上手く動かせなかった。

(香代ちゃんだって、勇気をだして言ったって。私も、言わなきゃ)

 ナマエは震える体を叱咤する。腹の中心に揺れる不安や恐怖心がナマエの精神を揺るがす。
 嫌われたらどうしよう、傷つくようなことを返されるかもしれない――知らない方がいいかもしれない。

――そうだよ、ナマエのために話してあげたんだよ。だから最後まで聞いて。

 弱気になったナマエの脳裏を香代の声が過ぎる。
 ダメだ、負けちゃ、ダメ。
 その声に、恐怖心に勝る勇気がナマエの心の中を占めた。じわりと再び侵食し始める恐怖を払拭するように口を開いた。

「私以外、付き合ってる人、いない…?」
「…え?」

――言えた。

 ナマエは息を切らすように声を震わせながら尋ねた。言えたことに安堵し、はあはあと口で呼吸する。
 そんなナマエとは打って変わり、藤代は切なそうな表情をくるりと一変し不可解そうに眉間を寄せた。
 なんと返ってくるのだろうかとナマエは身構えた。そんなナマエの肩を掴んでいた藤代の手の力が抜ける。

「いるわけないじゃん。なんでそんなこと聞くの」
「じゃあ、じゃあ、なんで、夜中に来て帰ってたの?」
「なんでって…そりゃ駐禁」

 藤代の言葉にナマエは目を点にした。思わず聞き間違いかと思い、もう一度ナマエは藤代に尋ねた。

「えっと、いま、ちゅうきんって言った?」
「そ、駐禁。ナマエんちの近く駐車場ないだろ? 前路肩に停めてたら駐禁の張り紙されててさ、多分俺の車覚えられてるよ、警察に」
「そう、なの?」
「うん。しかもW杯後で結構マスコミが騒いでんの。ここんトコパパラッチに気をつけろって皆にも言われてたからさ、普通の時間に出歩きにくくて」

 ナマエは拍子抜けした。急に足の力が抜けていくのを感じる。膝が笑い、思わずその場に座り込みかけたところを、咄嗟に伸びてきた藤代の腕に寸でのところで腰を支えられた。
 未だ呆然とした表情のままのナマエに、藤代は戸惑うような声音を漏らした。

「え、もしかして、不安に思ってたの?」
「……誠二くん、終わったら帰っちゃうから…ってっきり、それだけの関係なのかなって」
「ばっか! なに言ってんの!」

 藤代は鬼のような形相になった。まるで信じられない、と言いたげな顔だ。腰を掴んでいた片手だけを離す。その手はナマエの頬を摘むと外側へとぐいぐい引っ張った。

「なんでそーなるかな!?」
「ひゃっへ…みひゃんだもん」

 藤代に頬を引っ張られながらナマエは声を出した。それからは、あんなに口に出すのを躊躇っていたのが嘘のように、すらすらと聞きたいと思っていた事が口から出た。
 女性と二人で道を歩く藤代を見たこと、千鶴から聞いた高校生時代のこと、失礼を承知で携帯のメールを見てしまったことまでをナマエは伝えた。
 今まで溜めていたものが洗われていくようだ。ナマエの胸の中で閊えていた痼りが、小さくなっていくのに気がついた。

 最初はどこか恐る恐る話を聞いていた藤代だったが、徐々にその姿勢を崩していくと最終的には俯きなにかを堪えるように肩を震わせた。
 不思議に思いナマエが顔を覗くと、藤代はこらえきれなくなったらしく口に出して笑い出した。

「なんで、笑ってるの…?」

 ひーひーと笑う藤代を見て、ナマエは泣きそうに顔を歪めた。そんなナマエに慌てた藤代は先程まで頬を引っ張っていた手を離すと、優しくナマエの頭を撫でた。髪を一房掬うと丁寧に解いていく。

「俺がさー、ナマエ以外はありえないって思ってるのに、ナマエが一人で悩んでたから」

 ひとしきり笑うと、藤代は急に改まるように真面目な顔をした。

「一人で抱え込まないでよ。俺はナマエの彼氏、だろ? 一人で恋愛はできないよ」

 諭されるような言葉に、静かに頷く。
 確かに、一人で思い煩うのであればそれは片想いとなんら変わらない。

「ナマエが見た人は確かに昔付き合ってた人だけど…何年も前だかんね!」

 藤代は信じてもらえるようにとナマエに念を押す。必死さが伝わってきてナマエは静かに頷いた。それを確認すると、藤代はその時のことを説明した。

「知り合いから聞いたんだけど、その人、ネットになんか俺のことで嘘八百書いてるって」

『前に言ってた藤代に騙されてたって人。まぁ2、3年前の話だけどこの人が日記に散々書いてたから女子のあいだでは有名』――千鶴の言葉がナマエの脳裏に浮かんだ。

「あーいうの、困るから消してって交渉しにいったの。嘘じゃないよ、それに会ったのはそれ一回こっきりだからね!」

 なんとか信じて欲しい、という藤代の思いが言葉の端々から伝わって来るようだ。脳裏に浮かんだあの後ろ姿を思い出し、背中に手を伸ばした藤代の姿に胸がちくりと痛んだ。

「でも、背中に、こう、手を」
「へ? そんなことしたっけ?」
「……してた」
「エスコート、エスコート以外にない! 絶対!」

 ナマエの腰を支えている藤代の腕に力が込められる。首を大きく左右に振る藤代に、ナマエは渋々頷くも、まだ払拭しないことを口に出した。

「……合コン」
「ゴメン! 先輩に言われて行った、けど」
「…」
「でも先輩に言われて渋々で、ほんっとうに、行きたくなかったの! でも社会のルールってやつと常識とかマナーとか、ほらメール交換しとかないと」

 眼前で両手を合掌して必死に謝る藤代に、ナマエは悲しんでいた気持ちがいつのまにか消えていることに気がついた。

「でも、でも、俺はナマエしかいないから」

 何とかわかってもらいたい、と必死に縋り付く藤代の様子に、ナマエはじわじわと込み上げてきた笑みを思わず零してしまった。
 彼と付き合って必死になっているのは、自分だけだと思っていた。自分の一方的な強い思いだと思っていた。こんなに彼が自分のことを大事に思っているだなんてナマエはこれっぽっちも思ったことなどなかった。
 くすくすと笑うナマエに藤代は目を丸くする。

「私こそ、誠二くんになにも言えなくてごめんね」
「…別れるなんてもう言わない?」
「うん…誠二くんがすき」

 ナマエが言い切る前に藤代は強く抱きしめた。ナマエの首筋に顔を埋めると、軽く唇を落とした。小さなリップ音が何度も鳴る度に、ナマエはくすぐったい感触に身を捩った。
 脳裏には友人の顔が浮かぶ。彼女たちの言うとおりだった。二人にきちんと伝えよう。
 香代にはお礼を。そして、あれから少し気まずさの漂う千鶴にはきちんと謝ろう。二人に感謝していると、伝えよう。ナマエが思案に耽っていると、いつの間にか後頭部の髪を優しく掬われた。

「ナマエ」

 顔を上げて甘い声を囁く藤代に応えるように、ナマエも目を閉じる。優しくナマエの唇に触れるような口づけが与えられる。それを皮切りに何度も角度を変えて、啄むような口づけが落とされた。
 このまま甘い空気に流されるように抱かれてしまうのか、――ナマエが思った矢先、ゆっくりと藤代が顔を離した。不思議に思い顔を見れば、どこか熱のこもった目を抑えるように、藤代が触れていたナマエの体をそっと離した。

「…ナマエ、お土産見た?」
「うん、お菓子届いてたよ、ありがとう」
「マトリョーシカは?」
「あのうさぎの? 可愛かったから飾ってるよ」

 嬉しそうな藤代にナマエがそう答えると、彼はきょとんとした。

「え、中見てないの?」
「中って、同じ人形でしょ? 玄関に飾ってるけど」
「……」

 思わず言葉を失った藤代に疑問を抱き、ナマエはそばから離れるとそろそろと玄関口へ向かった。
 靴箱の上には今朝方置いた、うさぎの絵の施されたマトリョーシカが三つ、大中小と並べてある。

「ナマエとは一緒に居て楽だし、喧嘩もしないし、順調に進んでるなって。…ま、思ってたの俺だけだったみたいだけど」

 左から順に中を覗いていく。大中小となかを開けていけば、小のマトリョーシカには更に小さな人形が入っていた。小さなそれを取り出そうと試みると、その小さなマトリョーシカからカラン、と何かが転がる音が指に響いた。

「ナマエは、俺に鍵を返しても俺から鍵を受け取らないでいたり、鈍臭いところがあるでしょ」

 そのさらに小さな人形の上の蓋をそっと開ける。中には銀色に輝く環がキラリと光を放ち転がっていた。

「そういうとこも含めて好き。こんなタイミングになっちゃったけど――俺にナマエを守らせて?」

 気付けば真後ろから声が聞こえ、ナマエはゆっくりと振り向いた。すぐそばに藤代が立っていた。優しさと愛しさに満ちた藤代の目に見つめられて、ナマエは胸の奥がかぁっと熱くなるのを感じた。苦しさの中の歓喜に、じわりと目に涙が込み上げてくる。
 ナマエの冷えた手から銀の環を取ると、藤代は彼女の左手を握った。環の中心には煌びやかなダイヤの結晶が輝き満ちている。薬指を掴まれて、ナマエはハッと顔をあげた。

「誠二、くん」

 ナマエはうまく言葉が見つからず、ただただ感極まって潤んだ瞳で藤代を見た。視線を返すように、藤代はナマエを優しく見ると口を開いた。

 答えはイエスかハイで

 

  *** 完 ***

 2013年8月1日(2014年7月13日 修正
 title by fynch