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(香代ちゃんは、勇気を出したんだ)

 それから三日後、ナマエは居候していた香代に家に帰ると伝えた。もう少しいてもいいという優しい言葉に思わず甘えて頷きそうになった。が、ぐっと堪えナマエは首を振った。

「ありがとう。でも、私も、きちんと家に帰る」

(香代ちゃんのお話、聞いたから)

 心の中でそっと呟いた。
 そう言えば、香代の目は少し潤んだ。見えない言葉が香代に届いたのかもしれない。緩く上弦を描いた眼で見つめられた。僅かに唇が開く。

「そっか」

 肩を竦めた香代は、柔和な笑みを堪え手を伸ばしてナマエの頭を優しく一撫でした。胸の奥を擽られたようで自然とナマエは微笑んでいた。
 パンパンに膨れた旅行カバンを肩に携え、ナマエは香代の家を出た。

 外は寒くなりはじめていた。空は透き通り、綺麗なうろこ雲を浮かべている。
 大判のストールを肩に巻きつけ、香代の家からまっすぐ自分の家へと向かった。
 頬を冷たい風が撫でていく。秋風が吹き抜ける夜空はひんやりとしていたが、ナマエは緊張のせいで体が熱かった。

(家に、誠二くんがいたらどうしよう)

 香代にああ言うまでに三日間かかったのだ。本人と対峙するかもしれないと考えれば考えるほど、自然と足が重たくなる。会ったら、と想像すれば胸の音が妙に大きく届く。ただの帰路なのに、一歩進むだけで勇気が必要だった。

 緊張する中、ナマエは下宿先の玄関に立った。ポストを見れば不在の間のちらしや広告がぎゅうぎゅうに詰まっていた。就活のためにとっておいた日経新聞は山盛りである。肩にかけてある鞄を開く。ポストから抜いた紙切れを自棄になりながら突っ込むと、二階の自分の戸へ向かった。

 心を落ち着かせながら階段をのぼりきり、顔を上げる。目の前の廊下には誰もいなかった。
 ナマエは心が萎んだのに気がついた。

(誠二くんが来ることを期待してるなんて、自分から逃げておいて、本当に私はばかだ)

 安堵できるはずなのに、却って気持ちが不安定に揺れた。しょんぼりしながら玄関扉の前に立った。
 静かに扉を開くと、三和土に長方形の紙切れが一枚落ちていた。上がり框に荷物を入れて扉をしめ、なんだろう、とそれを拾うと表を向けた。それは不在配達届けであった。

「だれ…?」

 送り主を見ると、藤代セイジと書かれていた。詳細には雑貨その他と書かれている。
 荷物を送られてきてしまった。――ナマエはその藤代の行動に落胆した。漏れた息とともに肩が下がる。

 もしも、もしも自分が特別だったら――そう思っていた。

 自分から電話やメールが届かない状態にしておきながらよく言えたものだ。
 ナマエは落ち込んでいる己に可笑しく思いながら、冷静な部分で落ち込んでいる自分自身にそう言い聞かせた。
 気だるげに紙に目を通せば、不在配達通知は昨夜の日付になっていた。
 扉の鍵をかけ、靴を脱いで鞄を中へと運び入れる。ベッドに腰を落ち着かせたナマエは、記載されている配達会社へと連絡するべく携帯を持った。

「あっしたー」

 翌朝、荷物を受け取るとナマエはすぐに扉をしめ鍵をチェーンまでした。真夜中の件もあってから、男性を見ればそうするように自然と警戒心が身についていた。配達員から受け取った腕の中のものを見下ろす。届いたダンボールは、小さく軽い箱だった。

 部屋の真ん中のテーブルに持っていき、鋏でテープラインを切っていく。切りながら、ナマエの心の中は何が送られてきたのかという興味とは裏腹の恐怖心で一杯だった。送られてきたものの内容によってはそれ相応の覚悟が必要な気がする。
 こんなに軽いのならば、以前相手にプレゼントしたブレスレットやストールかもしれない。

 恐る恐るダンボールを開くと、中には梱包材に包まれたお菓子が詰め込まれていた。先日相手が遠征に行くと言っていた地域の名前の書かれたお菓子がわんさかと埋まっている。

(雑貨その他って書いてあったのに、その他の方が多いじゃない)

 自分自身の荷物を送られてきたわけではなかったことに安堵した。その反面、こんな形であれお土産を送られてくるとは思っていなかった。藤代のことを思えば、ナマエの良心が疼いた。
 箱からそれらを取り出すと、お菓子の隙間に入っていた何かが転がる音がした。持ち上げたお菓子の隙間から覗き込む。人形が転がっていた。

「うさぎ…?」

 転がった拍子にカラン、と音がした。手に取るとそれはビビッドカラーで描かれたうさぎのマトリョーシカだった。手のひらサイズのそれは上下に外れるようになっており、ナマエが蓋を取るように引っ張ると中から色違いの小さなうさぎが出てきた。
 こんな可愛いものを買ってきていたのかと思うと、ナマエは胸の奥がこそばゆくなった。

(これが、誠二くんからの最後のプレゼント)

 ナマエの胸の奥をツキンと痛みが走る。もう一つ開き、中から小さいうさぎを取り出すと玄関口に三つ並べて飾った。プレゼントに罪はない。
 ふいに着信メールの音がして、ナマエは我に返ると時計を見た。時刻は間もなく2限の始まりを指している。――そろそろ大学へ行かなければいけない。

 お菓子を再び箱の中に入れてそのままに、ナマエは旅行鞄の中から必要なものだけを取り出した。取り出したものを別の鞄にうつすと、大学へと向かった。

「千鶴ちゃん、内定おめでとう」
「ありがとー!」

 フリースペースで勉強している千鶴を見つけると、ナマエは挨拶代わりに祝いの言葉をかけた。千鶴は笑顔でそれに応えるとカーディガンを羽織り直した。机に置いていたシャープペンを拾うと、力強く握り締めた。

「こうなると、絶対国家試験受からなきゃって思うわね」
「うん、私も頑張る」
「香代は?」
「香代ちゃんは実験中。千鶴ちゃんは卒論大丈夫なの?」
「私はみんなが実験体だからね……。アンケートの集計に必死だよ」
「千鶴ちゃんなんだったっけ…?」
「大学生におけるストレスによる食行動への影響。ナマエは確か」
「食事のタイミングと運動能力の向上についてだよ」

 ナマエの言葉を聞いて、静かに千鶴は頷いた。

「そうだったね」

 その仕草にナマエは少し悲しい気持ちになった。しかし、顔に出すことなく素直に頷いた。
 ナマエの卒論には藤代の影がちらついている。千鶴はそのことを思い出したのだろう。

『わかった。私はナマエと藤代についてもう何も言わない』

 あれ以来、千鶴はナマエに藤代の事を言及することはなかった。ナマエから言わなければ触れても来ない。言われたくなかったはずなのに、なんだか千鶴に距離を置かれたような気がしてナマエの心は悲しかったのだ。

 あれは、仕方のないことだったのだ。
 気を取り直して、ナマエは普段通り千鶴の顔を覗き込んだ。

「千鶴ちゃん、図書館行かない? いろいろ調べたいし」
「うん、行こっか! よーし頑張らなくちゃ」

 大学での卒論のレポートを推敲する作業も、日が暮れてきたので切り上げた。
 久方ぶりの自宅での夕飯である。恐らく冷蔵庫の中のものは殆どがゴミ箱行きだろう。随分と扉の向こう側を覗いていないが、想像通りだと思い、ナマエは大学から近いスーパーに立ち寄ることにした。

 帰路、買い物袋を手に持ちながらナマエは暗くなった町を歩いた。
 季節はそろそろ冬へと変わりゆく。光の薄い夕日に染まる空と、ぽつりぽつりと灯りはじめた街灯を細めた目で見つめる。痺れてきた指を動かしながら、ナマエはぐらぐらと不安定な心根で思った。

(落ち着いたら、誠二くんとの思い出のもの、整頓しよう)

 2013年7月31日(2014年6月25日 修正