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「千鶴ちゃん、私本当にバカっだった」

 学校に来たナマエが開口一番に言った言葉に千鶴とそばにいた香代は目を丸くした。互いに視線を投げると、首を傾げた。

「なにナマエ、急に」
「朝から辛気臭い顔しない」
「私ね、誠二くんに聞けなかった。なんで聞けなかったのか、わかったの」

 溢れそうになった涙を堪えながらナマエが言葉を続けたので千鶴は慌てた。

「一体急に何? 浮気でもされたの?」
「わかんない。でも、私はそれを聞くことができなかった。千鶴ちゃんたちよりも私のほうが誠二くんのこと、信じてなかった」

 語尾が震え、ナマエがぎゅっと目を閉じたのと同時に二粒の雫が宙を舞った。香代はそっとナマエの肩に手を乗せた。

「どうしたの」
「私、誠二くんに今まで不安に思ったこと聞いてもきっと答えは裏切られるんだって、そう思ってた。だから、怖くて聞けなかった」
「ナマエ、」
「聞いたら、もう関係が終わるんだって思って、怖くて聞けなかった」
「ちゃんと聞いてから別れたら?」
「怖くて聞けない、もうこのまま別れる」

 ナマエの言葉に二人は息を飲んだ。

「じゃ俺行くから、暫く戸締りよろしく」
「うん」

 扉の前でナマエは彼を見送ろうとした。

「あ、ちょっと待って」
「ん?」

 そっと藤代の左手に手を伸ばすと手首のミサンガを掴んだ。丁寧に結んでいると、彼が右手でナマエの手を掴んだ。

「ありがと」
「気をつけて」

 藤代はナマエに口付けるとそっと耳元に唇を寄せた。

「ねえ、お土産楽しみにしてて」

 耳元でリップ音が聞こえ、ナマエはこそばゆさに震えると彼は首元に唇を寄せた。

「ねえ、行く前にいっかい」
「誠二くん、時間ないよ」
「うあー…いってきまーす」

 耳が垂れた犬のような後ろ姿で彼は扉の向こう側へ消えた。
 それを見送ったナマエは微笑んでいた表情をやめると、扉の鍵をしめて部屋へ急いで戻った。

 きた時と同じように鞄の中に服を詰め込んでいく。教科書や貴重品は小さめの鞄の中に放り込むと残しているものはないか確認に回った。
 洗面所に二つ並ぶ歯ブラシを見つけると、ナマエの胸は痛みに疼いた。そっとそれを取ると中に置いておいたスキンケア品も取る。

(あ、お箸だ)

『これ、ナマエ使ってよ』

 彼と色違いの箸を渡されたのを思い出す。手にとった箸を持って、しばらくするとナマエはゴミ箱の中にそれを放り込んだ。

(涙が止まらない)

 袖で涙を拭いながら、ナマエは身の回りの物をすべて鞄の中に詰め込んだ。
 彼はこんなことをしてもきっと追いかけてこないだろう。
 テーブルの上に紙を一枚用意すると、そこに震える手で字を書いた。

(ダンボールで、送られてきてほしくない)

 “私のものがあれば捨ててください ナマエ”

 鞄を両肩にかけ、扉の鍵をかけるとポストを開いてその中に鍵を放り込んだ。
 この家に持ち主が帰ってくるのは三日後。
 ナマエはオートロックの自動扉を抜けた。

 三日間、扉の鍵を厳重にし、窓もしっかりと閉めてナマエは過ごした。
 変質者が来ることはなかった。藤代から連絡がきても届かないようにメールは迷惑メールに、電話は通話拒否にした。
 三日目の朝、ナマエは旅行用のカバンに荷物を詰めて大学に向かった。

「香代ちゃんお願い、泊めて」

 思いつめた表情のナマエを見た香代は静かに頷いてくれた。

「今日、藤代が帰ってくるんだね」

 四角いテーブルに教科書を広げているナマエに、香代は優しく尋ねた。顔をあげたナマエは香代を見ると静かに頷いた。何かを思い出したのか、ナマエの瞳が潤んでいる。香代は棚の上に置いていた
 ティッシュを掴むとそれをナマエに差し出した。

「香代ちゃん、ありがとう」

 ナマエは受け取ると一枚引き抜き目元にそうっとあてた。ティッシュに二つの半円状の染みができた。

「私にはさ、ナマエが逃げたようにしか見えない」

 香代がそういうと、ナマエは怯えたような表情をした。ナマエの顔を見て怖がらせてしまったと思った香代は落ち着いてもらおうと軽い調子の声を出した。

「ナマエを責めたいわけじゃないの、そうじゃなくて」

 言葉を濁した香代にナマエは流れる涙を拭うのを止めた。そんな彼女の様子に気がついた香代は苦く笑うと、数年前に経験した自分の話を口にした。

「誰にも言ったことないんだけど…私もさ、好きすぎて聞くのが怖くて不安になったことがあるんだよ」
「香代ちゃん、も?」
「そう、私も」

 たどたどしい言葉のナマエに香代は目を合わせて頷いた。

「相手の行動がわからなくて、理解できなくて一人で空回りしてさ…でも怖くて聞けなかった。気になるのに、答えが自分の想像通りだったらと思うと怖くてずっと聞けなかったの」

 数年前を思いだし、香代は胸に感じる痛みに笑った。今、思い出しても痛いとは、自分も相当傷が深いようだ。しかしあの頃の傷がほかの人の役に立つのなら――そう思い疼いた傷に目を背け再び口を開いた。

「私さ、最後の最後に、勇気出して聞いたの。他に付き合ってる人、いる? って」
「……うん」
「そうしたらさ、“ごめん、ずっと言えなくて”だって。私が浮気相手だってさ」
「香代ちゃん」

 香代は笑いながらナマエを見た。彼女は涙を流していた。そっと手を伸ばしてナマエの頬を拭った。

「なにアンタが泣いてるの」
「だって、香代ちゃんが、話してくれたから」
「そうだよ、ナマエのために話してあげたんだよ。だから最後まで聞いて」
「うん、うん」

 涙を指で拭ったナマエは泣きそうな顔のまま香代を見た。

「私さ、それ聞いてやっぱり傷ついた。そりゃあ好きで好きで自分の心が弱くなるくらいの人だもの。…だけど、心がスッキリもしたのよ」
「そう、なの?」
「そりゃもう。ずっと不安で溜め込んでると病んじゃうものなのかもしれないわね。だから言いたいことを言えたから、未練もなく終わったの。で、こうやって笑える」

 そう言うと香代は口角を持ち上げた。

「ね、私笑ってるでしょ」
「口を無理やり、あげてるように」
「千鶴みたいなこと言わない」
「った!」

 思わずナマエにチョップを食らわせると、思いの外気が抜けて笑ってしまった。
 香代に釣られたナマエも一緒に笑い出した。

「私は、ナマエにも同じように逃げないでいて欲しかったのかな」

 香代は独り言のようにそう呟いた。それを聞いたナマエは悲しそうに笑った。

 2013年7月31日