10

「ただいまーナマエあけてー」

 カメラの前で手を振る相手に、ナマエは画面越しに微笑んだ。
「おかえりなさい。ちょっと待ってね、すぐ解除するから」

 スピーカーを通して伝えると、ロビーの扉を解除するボタンを押した。

(誠二くんが、帰ってきた)

 久しぶりの帰還に心が自然と躍ってしまう。ナマエは彼が玄関口の扉へやってくるのをただただ玄関に立ちながら待った。

「つっかれたー」

 玄関口にキャリーケースを放置してそのまま上がり込んだ本来の家の主を追いかけるようにナマエは後をついていった。
 歩きながら着ていた服を器用に脱ぎ、床に落としていく彼のそれを律儀に拾うとナマエは口を開いた。

「試合、勝ったね」
「ナマエちゃんと見た? 録画は?!」

 頷くナマエを見てますます笑顔を深めた彼は寝室へ向かおうとしていた体を反転させてナマエに向かってきた。
 既に上の服を脱いでしまい上半身裸の彼を見て、ナマエは久しぶりに見た彼の素肌に少し頬を赤くした。

「俺、二点目入れたじゃん? あの時水野からのクロスが上がったとき、なんか周りがすっげーゆっくりに見えて、いけるって確信したんだよな」

 嬉しそうに試合の状況を報告する藤代に応えるようにナマエは相槌を打つ。藤代は話しながら服を脱ぐことを止めなかった。気づけばほぼ下着姿になった相手を見て、ナマエはズボンを受け取り玄関口の洗面所に向かうと洗濯機横に置いているかごにそれをいれた。

「誠二くん、キャリーケースの中の服も洗うよ?」
「うん」

 恐らく寝室で服を探しているのか、少し遠く方から発せられた返事を聞きながらナマエはキャリーケースを開いた。中はジャージとインナーが大きなナップサックのような袋の中にひとまとめにされている。引っ張り出した服は丁寧に畳まれていた。

(ユニフォームって持って帰らないって知らなかった。考えればわかるけど)

 両手に抱えた服を洗面所に持っていき、ネットに入れるものを分別する。洗濯機を起動させ洗剤を入れていると、ナマエは後ろに気配を感じた。振り向くと彼が先ほどと同じ下着姿のまま立っていた。

「あれ、誠二くん着替えたんじゃなかったの?」
「なんで?」

 不思議そうに首を傾げた彼にナマエは洗濯機の蓋を閉めながら横目にお風呂場を見た。

「あ、お風呂入る? ご飯はもう食べれるようにしたんだけど」
「マジで!? 夕飯なに?」
「ハンバーグ…」
「わー嬉しい!」

 そう言って彼はナマエに飛びついた。素肌の彼の胸が顔にあたり、ナマエは思わずドキドキと胸を高鳴らせてしまった。

「せ、誠二くんお風呂」

 引っ付いた胸を離そうと手を必死に前に持ってこようとするが、なかなかうまく離れない。

「あ」
「え?」

 急にピタリと動きを止めた彼をナマエは不思議そうに見上げた。が、下腹部に感じる感触に自然と頬を赤くした。

「ちょ、っと待って誠二くん」

 離れようと胸板を押そうとした手を掴まれて引き寄せられる。

「だめ、いいでしょ、だってこないだしてないし」
「私、お風呂、まだ」
「気にしない気にしない、あとでシーツ洗えばいいじゃん」

(今日帰ってくるからって干したてなのに)

 ナマエが反論しようと開いた口は、彼に塞がれてしまった。

 大幅に遅れた食事を終え、ナマエは洗い物をつけたまま洗濯機へと向かった。洗濯物を籠の中に取り出しながら、ジンジンと痛む腰をさする。
 ベランダへ向かい洗濯物を干していると秋の風がナマエの体をすり抜けて部屋の中へと入っていった。空は薄雲が途切れ途切れに浮かんでいる。今日の月は下弦である。

「ナマエー、フロはいろー」

 寝室から出てきた彼はナマエがベランダで洗濯物を干していることに気がつくとスタスタとナマエの元へとやってきた。

「干してくれてるの?」
「うん」
「ありがと」

 藤代はそう言って屈みながらナマエの額に口づけを落とした。嬉しさから顔をそらすとナマエは最後の一枚を物干しに干した。

「終わり?」
「うん、終わりだよ」
「じゃあフロ!」
「ちょっと待って、食器洗ってないの」

 手を引っ張って風呂場へ連れて行こうとした彼をナマエは引き止めた。

「じゃあ先入ってるから入ってきて」
「……うん」

 そういうなり彼は踵を返すとそのまま風呂場へ向かった。
 ナマエは気だるい体をキッチンへ向けると、かごをそろそろと置いたまま食器を洗いに向かった。
 キッチンの中へ入ろうとしたとき、後ろから機械音がしてナマエは振り向いた。ローテーブルの上の携帯が揺れている。

(あ、メール)

 近づいて携帯を確認すると、千鶴から内定をもらえたという報告のメールであった。ナマエはおめでとう、と早速返信を打つと携帯を閉じた。――どうやらナマエと同じ企業の管理栄養士としてのようだ。
 ふいに、傍に見えた黒いそれを見た。――藤代の携帯。

(だめなのはわかってる)

 耳をそばだてると、向こうからシャワーを浴びる音が聞こえた。
 ナマエはおそるおそる、黒い携帯に手を伸ばした。手に取ると、季節はずれの汗がじわりと浮かんだ。
 閉じているそれを開くと、携帯の待受画面にはサッカーボールと背番号が9のユニフォームの後ろ姿が写っていた。
 いけないことだとわかっていつつも、ナマエは手を止められなかった。恐る恐るメールボタンを押す。新着の受信メールはなにもなかった。
 受信メールを開くと、知らない名前が出てきた。“たっつん”“キャプ”“黒川”あだ名で登録されているものや、フルネームで登録されているもの。
 内容を見るつもりはなかった。けれど、明らかに女性の名前のものを見つけ、ナマエは決定ボタンを押した。

『今日はごちそうさまでしたぁ、皆さんとの合コン、とぉっても楽しかったです~』

 最初の一文で、ナマエは胸を何かで刺されたような痛みを感じた。見ないほうがいい、わかってはいてもナマエの目は文字を追っていた。

『次もまた楽しみにしてますね、誠二クン』

 ハートの絵文字が所々に撒き散らされているメールに、溢れてきた涙を堪えた。
 脳裏にあの日見かけたビルの光景や、千鶴から見せてもらったパソコンの画面が現れる。自分ではない女性と肩を並べて歩く彼を思い浮かべる――そうして、先程まで自分たちが行っていた情事を思い出すと、ナマエの中に巡っていたなにかがぽたぽたと嫌な音を立てながら落ちていった。

(わからない、本当に、わからないんだもの。どうしてこんな事ができるの)

 裏切られた怒りとショックで目の前が赤く染まる。落ち着かせようと目を閉じるとナマエは壁紙に戻すと携帯をテーブルの上に戻した。

「なんで入ってこなかったの?」
「え?」

 タオルで髪を拭きながら出てきた藤代はナマエに尋ねた。

(聞かなきゃ、ちゃんと、聞かなきゃ)

 ナマエは胸に感じた痛みを思い、手をぎゅっと握った。

「……シーツ、洗っちゃおうと思って」

 自分の口から出てきた言葉に、ナマエは失望した。

 2013年7月31日