09

 オートロックの扉を鍵で解除して中に入る。毎日手入れされているロビーを抜け、エレベーターホールの前でエレベーターが来るのを待っているあいだ、ナマエは沈んだ表情で階下してくるエレベーターを見ていた。

 先日、変質者が現れた件で藤代の家で暫く暮らすことになった。状況が状況なだけに、香代は納得し、千鶴は渋々ながらもそのことには賛成してくれた。
 しかしその前に、千鶴に言われた言葉が脳裏にこびりついて離れない。

「藤代に確認してないの!?」

 怒鳴るような声にナマエはびくりと一瞬震えた。千鶴の目は充血したように赤く、睨むような目をナマエに向けた。そばにいた香代はそんな千鶴の肩を叩いて抑えようと努めた。

「まあまあ千鶴、落ち着いて」
「だって一緒に住む前に、きちんと確認しなきゃ」
「ナマエにも考えがあるんじゃないの?」

 香代の言葉にナマエはきゅっと閉じていた唇を開いた。

「暫く一緒に暮らすって誠二くんから言ってくれたってことは、怪しいことはないんじゃないかなって」
「それはそうだけどさぁ……そうじゃなくて、藤代に女関係が全くないかどうか白黒ハッキリさせなくてナマエはいいわけ?!」

 千鶴の熱の篭った言葉に、ナマエは思わず口を閉ざした。
 見かねた香代は鼻息荒い千鶴を脇にどかすとナマエに静かに口を開いた。

「まあ千鶴、ナマエ自身がその事について曖昧なままでも大丈夫だって言うんなら別に構わないじゃない。ナマエだってそれだけ藤代に信頼持ってるから聞かなくても大丈夫だって思ったんでしょ」
「でもバカだよ」
「千鶴」

 悔しそうに歯がゆそうな顔をした千鶴は手を伸ばしてナマエの頭を一度軽く叩いた。その手を香代が掴む。掴まれた手から逃れようとした千鶴はハイハイ、そういって何もしないことを示した。

「わかった。私はナマエと藤代についてもう何も言わない」

 一人エレベーターに乗り込むとナマエは静かにため息をこぼした。

 高層マンションの17階で降りると静かに廊下を歩く。内廊下になっているここは、確かに外から誰かに見られることもないのでとても安心できる。
 持ったままの鍵を鍵穴に差し込むと、ナマエは扉の施錠を解除して中に入った。

「ただいま」

『中に誰もいなくても言って』

 合宿前に彼と約束した言葉である。どんなに安全そうに思えても言うこと、そう念押しされた。静かに扉を閉め、二重の鍵をかける。靴を脱ぎ、未だに慣れない廊下を歩くと奥の扉を開く。真正面に大きなガラス窓があるリビングが広がる。そこは左に革張りのソファとローテーブル、その奥に大型のテレビが壁にかけられている。右側は寝室として使用している部屋が一つ。そこは扉が閉じてある。
 レースのカーテンが張られている窓の向こう側を夕日が悲しそうに沈んでいる。
 ソファの手前に奥に入り込むようにできたキッチンにナマエは買ってきた食材を置きに向かった。

(千鶴ちゃんの言うとおり、聞くべきだったのかな)

 食材を冷蔵庫にしまい終えたナマエは洗濯物を取り込むべくベランダへと向かった。サッシを静かに滑る窓を明け、物干しに干しているものを取り込む。ベランダの隅に、枯れた観葉植物がナマエの視界に移り込む。ナマエが藤代の家に来たとき、リビングの一角に置いたまま放置されていたものだ。

『え、これ? なんかいつの間にか枯れちゃった』

 水あげてたんだけどなー、と言った彼を置いてナマエは来た当時を思い出す。

(誠二くんの部屋、片付いてた)

『最近三上さんとか来てさー、すっげ怒りながら片付けてんの』

 不思議に思い尋ねたナマエに、彼はさらっと言った。それが真実かどうか、ナマエは信じるしかないのはわかってはいつつも疑いの眼差しをやめることはできなかった。理由は簡単である。ナマエはあの女性の件以来、藤代の女性関係を未だに疑っているからで。
 その彼は今、ここにいない。

 秋独特のうろこ雲に目を細め、胸の中のフツフツとした複雑な気持ちを押し込めながら、ナマエは取り込んだ洗濯物をソファの上に置いた。

「ナマエは体のいい留守番犬か!」

 荒々しく白衣を脱ぎながら千鶴は一人ぶつぶつと文句を言った。その声を聞いた香代は悪態をつく千鶴を宥めるように声をかける。

「そうは言ってないじゃない。ナマエと一緒に住む予定がまずなかった訳でしょ?」
「けどさー」
「藤代が悪いんじゃない」

 すっぱりと言い切った香代に千鶴は顔をあげた。

「悪いのはナマエの根性のなさ。千鶴だってわかってるんでしょ。攻めるなら藤代じゃなくてナマエよ」

 脱いだ白衣を掴んだまま、千鶴は香代をじっと見つめた。香代は脱いだ白衣を淡々と畳むと鞄の中に詰めた。

「私が今まで千鶴と聞いてきた情報で藤代は別になにも悪いことをしているようには思えなかった。そりゃあ彼女の家に真夜中に来るとかキチガイまがいなことしてるとは思う」
「香代、キチガイって今言ったね」
「けど、40分の道のりのかけてでもナマエに家に来たり、心配して電話かけてきたり、自分の家に住めばって言うのは愛情があっての行動だと思う。むしろ問題はナマエよ」

 千鶴は香代の言葉に自然と白衣を握り締めた。そんな彼女に香代は言葉を続ける。

「不安に思うなら聞く。簡単なことよ、本当に。それをできないままほうっておいてますます不安になってる。そんなの自業自得じゃない?」
「香代!」

 睨むような目で自分を見てきた千鶴に香代は呆れたような顔をしてため息をこぼした。

「千鶴は本当にナマエが好きだね」
「そうじゃないよ? ナマエが藤代に聞けないのはやっぱり藤代に問題があるんだって」
「…千鶴だって、本当はわかってるじゃない?」
「……でも、ナマエが大切だから私たちは見守っちゃうんだよ」

 悔しそうな顔をそのままに、千鶴は呟いた。その言葉に香代は笑った。

「馬鹿ね千鶴、私だって」

 2013年7月31日