08

「ナマエ、落ち着いて」
「はっはっ、ひくっ」

 ガクガクと笑う膝を必死に立ち上がらせてナマエは藤代にしがみついた。張り詰めていた緊張が一気に抜け、安堵から涙が止めどなく頬を流れる。
 背中に回された彼の逞しい腕に支えられながらナマエは声を殺しながら泣いた。
 怖かった、来てくれて嬉しかった、ただそう言いたいが、言葉を口に出す方法を忘れてしまったかのようにただ震える息が漏れた。

「よい、しょっと」

 藤代は後ろ手に扉の鍵を締めると器用に足を動かして靴を脱いだ。そうして彼は自分に縋る彼女を支えながらワンルームの部屋の奥にあるベッドにナマエを運んだ。
 彼は部屋の明かりを点け、ナマエがガクガクと震えるなか電気ケトルに水を入れお湯を作った。慣れた手つきでナマエの食器棚に入れてある紙パックのお茶を引っ張り出すとマグの中にいれた。

「はい、どーぞ」

 ナマエは慣れない手付きで差し出されたコップを手に取るとそっと口をつけた。お茶の味がまだ浸透していない、お湯のようなお茶を口に含むと震えが徐々に止んだ。

「どう? ねえ、だいじょーぶ?」

 テーブル越しに窺うように尋ねた藤代に、ナマエはぎこちなく微笑んだ。必死に動き回ってくれた彼の行動にナマエの心は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。

「せーじくん、ありが、とう」

 辿たどしく言葉を切りながらナマエは彼に例の言葉を述べた。

「何があったか話せる?」

 藤代の問いに、ナマエは先ほど不審な人物が突然家の扉をノックしたこと、ポストを覗き込まれた――実際はカーテンをつけていたために見られることはなかった――こと、そしてナマエの携帯の着信音に驚いてその“誰か”が逃げたことを伝えた。
 話を聞き終えた彼は眉間に皺を寄せたまま深刻そうにテーブルの上を見つめていた。

「それって今日だけ?」
「え?」

 質問の意図が読めずナマエは両手に持ったマグカップを膝下に置いた。

「それ、前から? それで友ダチんちに泊まったりチェーンとかしてたの?」

 彼が何を考えているのか理解したナマエは、途端その彼の勘違いをそのまま使ってしまおうかと思った。が、思いとどまり首を振った。

「これは、今日がはじめて。友達は偶然で、でも、チェーンは最近泥棒が出たから気をつけて、て大家さんには言われて」
「ふうん」

 ナマエの言葉に相槌を打った藤代はこちらを見ていた視線をきょろきょろと見回した。

「扉の鍵、チェーンまでしてるのに窓は開けてるの?」
「え?」
「物騒なんだったら、普通窓もやるでしょ?」

 藤代の言葉にナマエはギクリとうろたえ目を泳がせた。

(誠二くん、するどい…)

 本当の理由を言うべきか、戸惑ったナマエは言葉を探していると向かいに座っていた彼が隣りに並んだ。彼のほうを向くことができず、膝下のマグをじっと見ていると顔にかかる髪がさらりと揺れた。視界にゴツゴツとした指が入ってきてナマエの髪をひと房掬うとそれを耳にかけた。髪で隠れていた視界に自分の太ももと彼の膝が映る。

「そーゆーとこ、狙われたんじゃない?」
「……うん」
「俺の服とか下着、置いてっとけば良かった」
「え?」

 藤代の言葉が理解できずナマエは隣りの彼の顔を見た。見上げた先の彼は目を丸くさせている。ナマエは背中に彼の左手が回ってきたのを感じた。そしてナマエの腰のあたりを優しく撫でるように掴んだ。

「だってオンナモノしかないから、ナマエ狙われたんじゃないの」
「そう、なの…かな」
「こんな可愛いカーテンだし、表札も親の名前じゃないし、危ないかも」
「あぶ…ない?」

 ナマエは藤代の言葉に不安になり手元のマグカップを忙しなく弄った。たまたま彼が今日あのタイミングで来てくれたからこそ事なきを得たが、もしかしたら次はそうはいかないかもしれない。足元の危ういような不安感からナマエの足は再び揺れ始めた。そのナマエの手のマグカップを、右から手が伸びてきて掴むとテーブルの上に置いた。

「ナマエをここに置いとくのは、俺もすげー心配」
「誠二くん」
「なんかしっかりしてるようで抜けてるしさ」

 マグカップをテーブルに置いた手がナマエの左手を優しく掴んだ。隣に座る藤代を見上げると、彼はすこし真剣な眼差しでナマエを見ていた。

「しばらくうちで暮らす?」

「藤代の家で住むことにしたって!?」

 ナマエの言葉に千鶴は口に頬張っていたパンを溢す勢いで聞き返した。

「う、うん」
「警察には?!」
「行ったよ、さっき香代ちゃんと」
「香代!」

 睨むような鋭い目で千鶴はナマエから香代に視線を移した。香代は千鶴からの視線を綺麗に受け止めかわすと大げさに肩を下げた。

「行ったけど、相手にされてない。また巡回しておきますね、で終わっちゃったわよ。警察なんてそんなもんでしょ。実際になにもされてないわけだからそれ以上のことはしてくれないもの。藤代もそれを見越してそう言ったんじゃない?」

 香代の淡々とした口調に、反論しようとしていた千鶴はぐっと言葉を喉に詰まらせた。

「でも藤代の家にって、そんな、ナマエ、大学まで」
「一時間くらい、かな」
「でしょ?!  それなら藤代がナマエの家に」
「それじゃ不安だからでしょ? プロの選手の住まいの方がセキュリティもなんでも私たち庶民と違ってしっかりしてるでしょ。それに、ナマエ自身あの家は恐怖だと思う」

 香代の言葉に千鶴はハッとするとナマエの肩を掴んだ。

「ねえ、その日はヤってないよね?!」
「聞くこと違うでしょうが!」

 香代は千鶴の頭を綺麗に素早く叩くとナマエの肩を掴んでいる千鶴の手をべりっと剥がした。まさかそんな事を聞かれるとは思っていなかったナマエは顔を真っ赤に染めて首をぶんぶん勢いよく振った。

「してないよっ」
「ねえナマエ、昨日藤代は“いつまで”一緒に居てくれたの?」

 香代の言葉に少し沈んだような顔をした。

「朝、起きたら居なかったの」
「そっか…」
「それよりナマエ」

 香代とナマエの沈んだ空気を一蹴するように、千鶴はズイッと前に出るとナマエをじっと凝視した。

「藤代には聞けたんだよね?」
「え?」
「だーかーら、こないだの女との関係」

 真剣な眼差しに、ナマエは心臓がバクバクと鳴らざるをえなかった。

「ナマエ、用意できた?」
「うん」

 彼に尋ねられたナマエは頷くとそっと荷物を握った。鞄の中の荷物は、数日分の服と勉強道具だけだ。貴重品を別の鞄に入れることにして、他のものは部屋に置いておくことにした。
 丸が四つならんだブランドの外車の後部座席に荷物を置くと、ナマエは助手席に腰を下ろした。いつになっても慣れない赤色の車に居心地を探しながらシートベルトを装着していると、彼がエンジンを回した。

「あ、そうだ。ナマエ、俺代表選ばれて多分暫く家あけると思うから、よろしくね」
「え?」

 ナマエの頭が理解できたのは、数日後の海外で行われる日本代表選抜メンバーの発表があり、そこで藤代誠二の名前が呼ばれた時だった。

 2013年7月31日