先に目覚めたのは意識だったのか、聴覚だったのか。
睡眠から1時間経たないうちにナマエは扉を叩く音で目が覚めた。
コンコンコン。扉を3回叩く音が静かな部屋に響き渡った。
(…………なにかな、誠二くん…?)
意識と感覚が半分目覚めた状態でナマエは重たい体を起こした。先ほどのノック音からは何も音が聞こえずナマエはあくびを噛み殺して床に足をつけた。一歩前に踏み出そうとしたとき、机に置いていた携帯に繋げていた充電器のコードに足首が引っかかり、思わず前のめりになる。
危うく携帯を地面に落としそうになった。が、それは机の上を滑るだけで事なきを得た。転びかけた態勢を立て直しそばにあったタンスに寄りかかると、ナマエは視界に入った携帯がなんの色の点滅もしていないことに気がついた。
緩慢な動作でテーブルの上の携帯を拾うとサイドのボタンを押してサブ画面を点灯させた。そこには深夜を回ったために日付が一日増え、時刻は0時を回ったことを知らせていた。それ以外にメールも電話も、かかっていない。
(誠二くん、携帯でも忘れたのかな)
そろりと足音を立てないように玄関に向かう。薄闇の中、玄関の扉が見えたとき、ナマエは体が冷水を浴びたように竦んでいた。半端に起きていた脳が一気に覚醒する。
(誠二くんじゃない)
扉の鍵がかかったままだった。彼には鍵を渡してある。チェーンがかかっていて入れないのであれば持っている鍵を回しているはずだ。その下のポスト部分は、覗かれては困るので内側から薄布をかけていた。――そこが、外側からの力で押されて開いており、外部の明かりで布が長方形に光っている。
――一体誰だ。
一枚の壁を隔てた向こうに恐怖を感じ、ナマエは立ち竦む。一人で暮らしているのを見知らぬ男性に知られてしまったのかもしれない。
見えない恐怖のほうがより怖い。そう感じたナマエはおそるおそる、覗き穴を見ようと慎重に前に進んだ。
静かな部屋に、後ろからメール着信の音が鳴った。
びくりと体を震わせて、ナマエは後ろを振り向いた。それと同時にポスト部分が勢いよく閉じる音がした。扉の向こうで廊下を走る音が響く。
爆発しそうな心臓を抑えながら、ナマエは恐る恐る覗き穴の向こう側を覗いた。
ナマエが覗いた扉一枚向こうの世界は無人で、ただ暗い廊下があるだけであった。
「はっ、はっ、はっ」
緊張と恐怖で呼吸が荒くなる。覗き穴から身を離すと、ナマエは小さな玄関にそのままへたり込んだ。誰もいなかったが、恐怖は終わらず動悸をますます早めた。
(どうしたらいいんだろう、千鶴ちゃん? 香代ちゃん?)
今すぐに頼るものがいない恐怖にナマエは腕を抱きかかえるようにして身を縮めた。
(誠二くんに言うの? どうしたらいい?)
立ち上がることもできず、そろそろと膝足でベッドに戻ろうとナマエはぎこちなく動き出した。
ふいに、背後で扉が動く音がした。ドアノブがまわり、施錠した鍵に引っかかる。
ガチャガチャ。
背中から聞こえた音に、ナマエは今度こそ恐怖で声を忘れた。
振り向きながら、扉から離れようと尻餅をついたまま後ろに後退する。あまりの恐怖のために心臓が爆発しそうな勢いで血を送り出している。背筋に冷たいものが走る。
ナマエが見守る中、今度は鍵穴を弄る音が聞こえた。何かを差し込む音が聞こえたのと同時にナマエは体全体が心臓になったかのようにバクバクと大きな音を立てているのに気がついた。
(離れなきゃ、)
頭の中ではわかっててはいるものの、体がうまく動かない。荒い息を吐きながら視線は扉に向けたまま。
視線の先の鍵が金属音と共に横から縦に回った。
それを見たナマエは背中からゾクリと悪寒が走り抜けた。緊張で鳥肌が立ったのがわかる。
「はっ、あっ、はっ」
カチャリ。
扉が開いた。引いた扉はチェーンによって最後まで開ききらなかった。
ガチャガチャ。
チェーンが引っ張られて金属が当たる音が聞こえる。
「あれ?」
扉の向こう側から聞こえた声に、ナマエは張り詰めていた緊張を一気に解いた。
(会いたくなかったはずなのに、どうして)
刹那、安堵の中に紛れた刺すような痛みが、ナマエの鼻をツンとさせた。
(一番聞きたい声だった)
扉を開けようとしたが、何かに引っかかってしまい開かない状態を訝しんだ誠二は扉の隙間を覗くように見た。そこにはチェーンがかけられている。
「あれ?」
眉間に皺を刻んだ誠二は首を傾げた。前回誠二が彼女のもとへやってきたとき、扉を開けた向こう側に彼女の姿が見えず、本気で連れ去られたのではないかと心配した。実際は友人の家に泊まりに行っていただけで杞憂で済んだ。
そして今度はチェーンがかけられている。これでは中に入ることができない。
一体どういうことだろうと考えようとした誠二の視界に、扉の向こう――廊下の外灯に照らされて映る自分の影の向こう側に人影がうっすらと見えた。
目を細めて暗闇の中を覗き込むと、ナマエが玄関のすぐそばで尻餅をついた状態でしゃがみこんでいた。
「ナマエ? 何してんの?」
暗がりのため、ナマエの姿はぼんやりと見えるが表情までは窺えず、誠二は細めた目の中のナマエをしっかりと見据えた。
「っ、…っ、…っ」
ナマエは一度びくりと震えると、後ろについていた手を前に持ってくるとよろよろと危なっかしい動きで誠二の立つ扉の元へとやってきた。
恋人のおかしな動きに首を傾げつつ、誠二は自分の元へやってきたナマエを見て目を大きく見開いた。彼女の顔は青ざめ、どこか怯えたような表情を誠二に向けていた。
尋常ではないナマエの様子に誠二の心はジリジリと焦りを滲ませた。
(何、何なの?)
「ナマエ、開けてよ、ねえ?」
近づいてきたナマエに催促すると、チェーンのかかった扉が一度閉じられた。扉の向こうでかけられていたチェーンを外す音がする。
真夜中、静かな廊下に一人立ち、誠二は歯痒い気持ちで待った。ガチャ。チェーンを完全に取った音が聞こえ、誠二はナマエが扉を開けるのを待つこともなく勢いよく扉を開けた。
暗闇の部屋に、廊下の明かりを差し込む。
明かりに照らされたナマエは泣いていた。指先が震えている。誠二は玄関の中に一歩進む。
「ナマエ?」
呼びかけるが、ナマエは恐怖からか声が出ていない、膝がガクガクと震えている。
誠二は自分を見つめる縋るような視線に思わず扉を支えていた手を離し、彼女の肩を引き寄せた。自分の胸元に彼女の頭を引き寄せると背中に腕を回し、強く抱きしめた。
誠二の後ろで、支えを無くした扉がパタンと閉まった。
2013年7月29日