06

「昨日藤代、ナマエんち行ったみたい」
「え?!」

 身支度をしていたナマエは、同じく登校するために化粧をしていた千鶴の言葉に素っ頓狂な声を出した。

「え、何、どうしたの?」

 コンタクトレンズを入れに階下へ降りていた香代は、二人の声に別段慌てる様子もなく尋ねた。

「なんで、千鶴ちゃんが」
「昨日夜中にナマエの携帯がずうっと鳴ってて起きちゃってさー煩いから電話でたの」
「アンタなに人の電話勝手に取ってんの」
「安心して、電話取る以外なにもしてないから」
「信用できないわー」

 千鶴が香代と話し込んでいるあいだに、ナマエは急いで充電器を挿している携帯を開いた。着信履歴を見てみると、確かに藤代から不在着信数件と着信一件が表示されていた。時刻はどれも2時をまわっている。ナマエは振り向き鏡と睨めっこしている千鶴を見た。視線気づいた千鶴は肩を上下に揺らした。

「藤代、家にナマエがいなくて心配になったんだって。うちに泊まってるって言ったら安心して切ったよ」
「そっか。…あの」

 何か言いたげなナマエの視線に千鶴は大きく息を吐くとやれやれといった顔をした。

「いらないことは一切言ってないから。ナマエが何か言ってたとか、そんなのも言ってない」

 言外に疑ったことを悟られたナマエは、かぁっと頬を赤くした。

「千鶴ちゃん、疑ってごめん」
「別にナマエは悪くない。うるさいからって電話を取った千鶴が悪い」
「だってナマエ、電話の着信音がシューベルトの”ます”なんだもん! 衝撃で目が覚めた!」

(鳴ってたなんて)

 ナマエは携帯の音に気づかなかったことに驚いた。

「むしろ近くで寝てた香代が全く起きなかったほうがおかしいでしょ?!」
「いや、私はおかしくなんかない。千鶴って意外と繊細なのね」

 二人の会話がナマエの耳を右から左へと通り過ぎていく。充電器をコンセントから抜くとコードを丸め、鞄の中にそれを収めた。

 (やっぱり昨日、メールしておくべきだった)

「てか、香代の言うとおりだったじゃん。藤代」
「うん…てことは、藤代は次、予想が当たれば三週間後に家に来るってことじゃないの?」

(誠二くん、心配したんだ)

 ナマエは昨夜浮かんだ自分から離れていってしまうかもしれない、という考えが杞憂に済んだことにほっと胸を撫で下ろしていた。そして、自分を心配してくれたことに、心なしか気持ちが弾んだ。

「ナマエ? ナマエ聞いてる?」
「えっ?」

 香代に肩を叩かれたことに気がついたナマエははっとして振り向いた。

「大丈夫? もう怖くない?」

 (どうしよう、三週間後)

 コンビニで研究室で食べる朝食を選びながらナマエは考えた。今朝千鶴と香代に怖くないか、と尋ねられたとき、ナマエは大丈夫だと答えられなかった。

(千鶴ちゃんはまた泊まりに来てもいいって言ってくれた。けど、何回も続けば誠二くんも偶然とは思わない、よね)

 棚の上に手を伸ばし、ハムやチーズの挟まったサンドウィッチを取る。カロリーや偏りに気をつけて考えながらナマエは手にとったヨーグルトの詳細を真剣に見た。

(そうしたら、私のせいで千鶴ちゃんのイメージが下がったりするのかな)

「ナマエー買った?」
「まだ。ヨーグルトをフルーツ入りにするか悩んでるの」
「飲み物は?」
「野菜生活。うん、アロエ入りにする」
「アロエ…ねえナマエ、あとで一口」
「千鶴いやしいよ」

(誠二くんはあの人たちと、したのかもしれない)

 端に追いやっていた考えがふと脳裏をかすめると、ナマエの思考はそこから離れることができなかった。
 先日、偶然見かけた藤代の隣りを歩いていた女性。ナマエ自身が見かけた場所はカフェへ入るところだった。それがそこだけで終わったのかもわからない。――一体彼女が誰なのか。
 そして千鶴から教えてもらったもう一人の女性と藤代の関係。過去に肉体関係を一度持っていたことも、日記に記されていた内容を読むとかなり怪しく思える。

(彼女なら、信じなくちゃ)

 ナマエは両手に食べ物を抱え込みながらレジに向かう。

「じゃ、買えたし大学行こ」
「うん」
「お腹すいたー早くご飯食べたーい」
「千鶴黙ってて」

 それでもどこかでナマエは素直に信じる、という結論に向かうことができなかった。
 心が不安定に揺れている。ナマエは藤代に別の女性と行為をしたその手で自分が触れられることを考えた。

(想像するだけで、吐きたくなる)

 胸の奥に潜む嫉妬と嫌悪感に、ナマエはやっぱり彼に会うのが怖い、と思った。

 就職課に向かったナマエを見送ると、千鶴は大きな溜め息を溢した。

「はぁ……やっぱり怖いんかぁ」
「まぁ、ナマエの場合怖いのは藤代じゃなくて、藤代を拒めない自分がだろうけど」
「うん、なるほど。 ナマエは藤代の事に関してノーって選択肢がないものね」
「嫌われたくないから拒めずハイって答える。でもナマエ自身は本能で)これ以上傷つくのは危険だ)って察知してるワケ」
「心の矛盾、てとこ? でもこのまま乖離したらナマエが危ないな」

 真面目に話している千鶴に驚き、香代は目を丸くした。

「意外」
「あ、なにが?」
「今日、千鶴が藤代の文句を言わなかったのが」

 香代の言葉に千鶴は首を傾げた。

「約束もせずに自分の都合のいい時に来るからだ、ざまーみろ。とか昨日の事についてもっと何か言うと思ってた」
「あー」

 千鶴は気まずそうな顔を作ると白衣に袖を通した。

「なんていうか、思ってたのと違って」
「なにが? 藤代?」
「うん…私電話取ったじゃん?」
「私はあの音気にならなかったけど」
「ますの話じゃ、な、い!  なんかさ、なんていうのかな、藤代ってあんなヤツだっけ、て気持ちがさ」
「どういうこと?」

 千鶴はそっと頭から手を離すとナマエの手が伸びた先を見た。折り畳まれた携帯を慎重に摘まむとチカチカと点滅してるそれを開いた。

「はい、もしもし」

 受話器の向こう側が息を呑んだのがわかり、千鶴はくつくつと笑いそうになるのを必死に堪えた。

『アンタ誰? ナマエは?』

 警戒するような相手の物言いに千鶴は笑いを引っ込めた。

「ナマエの友だちでーす。ナマエがぐっすり寝てて起きないので代わりに目が覚めた私が出ましたー。藤代サン?」

 千鶴は小声でそう言うと床にそろりと足を置いた。忍び足で扉まで向かい、音を立てないようにドアノブを回して部屋を抜けた。
 受話器の向こうの彼は千鶴の言葉が理解が出来ず、納得のいかない声を出した。

『なんでナマエと一緒に』
「ナマエはいま、私の家に泊まりに来てるんです」
『あぁなんだ、そうなの? えーと、もしかしてカヨちゃん? チヅルちゃん?』

 警戒心が解けた途端、受話器の向こう側の声が親しげな声を出した。千鶴はその臨機応変な対応に驚いた。

 (あれ? なんか、藤代って)

「私は千鶴です。香代はナマエと一緒にいま寝てます」
『ふうん、そうなんだ』
「私、藤代サンと同じ武蔵森だったんですよ」
『ん、知ってる。同級生の藤谷チヅルサンでしょ?』

 藤代の言葉に、今度は千鶴が息を呑んだ。後ろ手にドアノブを離すと静かにしゃがみ込んだ。

「藤代くん、私の事好きじゃないかも。私が話すこと毎回同じこと聞いてくる。ちづちゃんの名前すら覚えないの」

 千鶴は高校の時に泣きながら話してきた友人の言葉を思い返していた。

 (話が、違うんだけど)

「私のこと、知ってたんですか?」
『だってナマエの友達でしょ?』
「はぁ…?」
『んで、俺とナマエのきっかけ作ってくれたのもチヅルちゃん』
「まぁ、そうですね。本当は笠井でセッティングしたんですけど」
『タク? あーそうそう! 俺が気になって勝手にくっ付いていったんだ』
「俺が金魚のフンみたいだった、て言ってました。聞いてません?」
『チヅルちゃんイヤなこと言うねー』

 言葉とは裏腹に藤代は笑っていた。それでも千鶴はそんな彼へ疑いを解こうとはしなかった。

「それで、何かナマエに用ですか?  こんな時間に」

 つっけんどんな口調で千鶴は藤代に尋ねた。遠まわしに早く切りたいことを訴える。
 そんな千鶴の態度に気を悪くした様子もなく、藤代はけろりと答えた。

『家に行ったらナマエがいないから誰かに連れて行かれたかと思ってさ』
「はい?」
『ナマエ、チヅルちゃんちにいるんでしょ?』
「はあ」
『それだけ。夜中にホンットごめんね、教えてくれてありがとー』
「ちょっと待って」

 このまま電話を切りそうな勢いの藤代に千鶴は慌てた。

『え、なに?』

 電話を切りたそうな藤代の口調に千鶴は焦った。

(呼び止めて私も何が話したいんだろ。何も聞くことなんて)

「ナマエ、起こしましょうか」

 千鶴は自分の口から出てきた言葉に目を白黒させた。

『いーよ、ナマエ寝かせたげて。じゃ、チヅルちゃんもおやすみ』

 返事を聞くこともせず、藤代に通話を切られた千鶴は熱を持った携帯を静かに閉じた。

 (確信はないけど、ナマエ、愛されてる?)

 香代は千鶴から昨夜の話を聞き、藤代という人物への印象が今までとがらりと変わったことを素直に受け入れた。

「なんか、俄かには信じられないけど」
「千鶴ってば、まだ疑うの」

 疑い続ける千鶴に香代は目を丸くすると首を傾げた。

「だって電話越しだし、アレが演技か本気かわかんなくって」

 (ま、無理もないか。千鶴は藤代について長い間情報をいれすぎてる)

 一度固められたイメージを変えるのはなかなか難しい。
 香代は、千鶴自身が感じた藤代の印象と今までの情報から聞きかじった藤代像との違いに戸惑っているように窺えた。

「私は本気だと思うけど」
「えー。香代単純すぎない?」
「むしろ千鶴は深く考えすぎなのよ、情報に惑わされてる」

 香代の厳しい言葉に千鶴は眉間を寄せると納得いかない、と書かれた顔で前ボタンを留めている。

「正直さ、昨日の藤代の電話取ったあと、昔実習で自分の血見たじゃん? あの時思い出した」
「なんでそれ思い出すかな」
「ほら、私の赤血球とんがってたじゃん? 私のは絶対丸いと思ってたからギャップがあって」
「ああ、アンタあの時彼氏と喧嘩してイライラしてたもんね」

 香代の言葉に千鶴は反論しようと口を尖らせた。
 それを受け流しながら、香代はナマエのことに考えを巡らせた。

(本人がちゃんと聞いたらどうなるにしろ結果が見えると思うんだけどな)

 2013年7月26日