03

 ナマエの胸にしこりのように残った疑問は、就活帰りのナマエの視界に飛び込んできた、藤代と女性が仲睦まじく歩く姿によって消え去ってしまうこととなる。

(なんで、こんな道…通ったんだろう)

 暑苦しくて脱いだ上着をリクルート鞄と重ねて持っていたナマエは、自分の体がうまく動かないことに気がついた。
 道路を挟んだ向こう側の歩道を、私服姿の藤代と女性が仲良く話ながら歩いている。ナマエの目はそれに釘付けだった。心臓が暴れ出していたが、仲良く話しているだけだったことで、ナマエの自制心は麻痺することなく働いてくれた。
 黒のパンプスを履いた足が痺れている。動かねば、とナマエは思うもののそこから足が上がらない。

(誠二くんが、こっちを見たら)

 ナマエは己の想像に脇や背中にじわっと一気に汗が吹き出のを感じた。
 しかし、ナマエの焦りなど知らぬ二人はそのままビルのカフェの中に消えようとした。

「あ」

 そのとき、ナマエは藤代がその女性の背中にそっと手を伸ばしたのを見た。

(触れないで)

 目に映ったものに、ナマエは暗い圧迫感を胸に感じ声も出ないほど打ちのめされた。

(千鶴ちゃんにも、香代ちゃんにも、言えない)

 

 千鶴は学生課から出てきたナマエを目敏く見つけると彼女の肩を叩いた。

「おっはよー! ナマエ、昨日の面接どうだった?」
「あ、千鶴ちゃん、おはよう」

 振り向いたナマエのどこか沈んだ顔に、千鶴は面接がうまくいかなかったのだと察した。瞬時に別の話をしようと千鶴が口を開こうとしたのと、ホールへ香代が入ってきたのを見つけたのが同時だった。

「あ、香代だ」
「え、香代ちゃん?」

 浮かない顔をおもむろに上げたナマエを尻目に見つつ、千鶴はぱっと片手を挙げた。香代は千鶴の手に惹かれるようにこちらを見ると手を振りながら駆けてきた。

「おはよー」
「おはよう、ナマエ昨日は就活?」

 香代の言葉に千鶴は視線でそれ以上の言葉を制した。
 彼女の射るような視線に香代は眉間を寄せたが、前に立つナマエのいつもとは違う塞ぎ込んだ様子にすぐに理解した。

「まぁまぁ、ナマエ、次もあるよねー」
「え?」

 千鶴はナマエの腕を掴むと香代の隣りに並び教室へ向かった。千鶴の言葉に半テンポ遅れてナマエが反応する。

「私も、こないだ受けたとこ、同じ課の子が二次受かって落ち込んだわー」
「学校内で推薦の取り合いなんてざらにあるしね」

 香代と千鶴の言葉にナマエはぱちぱちと数回瞬きを繰り返すと、苦い顔で笑った。

「…ありがとう」

 

(昨日は、二人が勘違いしてくれてよかった)

 実習室でナマエは沈んだ気持ちを心の奥に無理やり押し込みながら、パソコンに文字を打つことに専念した。この実習のレポートを打ち終えれば、次に国家試験の試験勉強が待ち受けている。そのあと、就職課に面接結果を聞きに行かなければならない。

「はぁ」

 自然と重い溜め息が溢れた。それと同時に、奥に追いやったハズのもやもやした重い空気が胸の中に立ち篭める。
 一昨日からまだ彼はナマエの元に訪れていない。
 それが助かると同時にナマエの心の不安を大きくさせた。

(正直、今は誠二くんと顔を合わせたくないな)

 脳裏に一昨日目にしたものが浮かび上がり、ちりっとした痛みが胸のあたりに走る。

 あの日、帰宅したナマエは何もする気が起こらず、スーツにシワが出来るまで床にへたり込んだ。
 ようやく体を動かせるようになると、のろのろと立ち上がり洗面所で化粧を落としていた。その時“彼専用”のメール着信音が鳴り、ナマエはぎくりと体を硬直させた。ちかちかと光るそれをみつめたまま、ナマエは暫くそれと対峙して動かなかった。

 キーボード横の携帯に手を伸ばし掴むとぱかりと開く。昨夜藤代から届いたメールは普段通り、チームメイトとの楽しそうなやり取り”だけ”が書かれていた。

(本当、嫌になる)

 嫌気が差したナマエはそれをたたむと先ほどと同じ場所に動かした。手を離した途端、不意にそれが揺れた。ナマエはチカチカと光るサブディスプレイに目をやった。

 

「千鶴ちゃん、お疲れ様」
「スーツ疲れるわ〜」

 フリースペースの椅子に腰掛けたリクルートスーツ姿の千鶴に、ナマエは労いの言葉をかけると向かいの椅子に腰を下ろした。

「ナマエはなにしてたの?」
「昨日の実習のレポート」
「あー、私もやらなきゃ」

 気だるげに机に突っ伏した千鶴の頭を、ナマエは優しく撫でる。その手を千鶴は強く掴んだ。
 千鶴の態度に驚きナマエは目をパチパチと瞬いた。

「ち、千鶴ちゃん?」
「ナマエ、藤代と何あった?」
「えっ?」

 突然の問い掛けに、ナマエは心臓が大きく飛び跳ねた気がした。

「別に、何もないよ」

 口から出る言葉に表情が追いつかず、ナマエは顔を硬くしたまま千鶴に返事をした。そんなナマエの態度に千鶴は刺すような厳しい視線を送った。

「嘘つきね」
「ねえ、千鶴ちゃん、突然どうしたの」
「私がおかしい人みたいな顔で見てこないでよ」
「でも、本当に」
「藤代のことで、なにかあったんでしょ?」

(なんで、なんでそれを)

 千鶴の一言に、ナマエは返す言葉を見失うと刺すような千鶴の目を弱々しく見返した。どくどくと血が流れるように、ナマエの体のどこかから何かが抜けていく。

「どういうこと?」

 向かい合った二人の横に人影が近づいた。二人がゆっくりと振り向くと、香代が大きな鞄を抱えて立っていた。

 

2013年7月24日 |Template by Nina.