02

 その後も、真夜中に突然やってきてコトが終えると帰る彼の"くせ"は治らなかった。

 

「ナマエ、また~? あんた大丈夫なの?」
「まぁ、まだ大丈夫」

 千鶴は机の上に突っ伏したナマエの肩を叩く。叩かれてやっと千鶴の存在に気がついたナマエは上体を起こすと小さく伸びをした。
 昨夜も、藤代が来ていた。

「国家試験、受けるのよね?」
「来年の春に、千鶴ちゃんと一緒にね」
「今からしっかり勉強しとかないと、管理栄養士は厳しいの、分かってるでしょ」
「うん…わかってる」

 ナマエは傍に立っている千鶴が白衣を着ている事に気がついた。

「そっか、今から実習だったね」
「そう、それでコレはナマエの」
「え?」
「を、何故か香代が持ってたから」
「あれま」

 差し出された白衣を受け取るとナマエは重い腰を上げた。自然と腰を支えるように立ち上がるナマエに、千鶴はやれやれと溜め息を溢した。

「昨日は散々だったのね」
「えっ?」
「寝れないくらい、て事」

 千鶴の言葉にナマエは頬を林檎のように赤くさせると口を噤んだ。畳まれた白衣を広げると、袖に腕を通す。鞄を抱えると、傍に立ち自分を待ってくれている千鶴の隣りに並んだ。

「いつ来るとか、連絡ないの?」
「うーん、最近はない、かな」
「なんで家の鍵なんか渡しちゃったかね~。ナマエは藤代のん持ってないんでしょ?」
「うん」

 千鶴は廊下を歩きながら隣りのナマエを覗き込んだ。寝不足な彼女の目元は、ファンデーションを重ねた上からでも茶色い隈がくっきりと浮かんでいる。

「向こうにナマエが行くのは?」
「前は行ってたけど、最近は誠二くんがうちに来てるかな」
「……それってさぁ」

 千鶴が口を開いた時、ナマエの髪が靡き耳のピアスがゆらゆらと揺れた。桃色の花びらの形を模したアクセサリーを目に留めながら、千鶴は気まずそうな顔をした。

「ナマエに家来られたら困るからじゃないの?」
「なんで?」

 ナマエは即座に隣りの千鶴に尋ねた。しかし、彼女の問いに千鶴は黙した。沈黙からナマエは理由を読み取った。

「んー、そういうこと?」

 藤代がナマエに部屋に来られては困る事がある――別の女性の影があるのではないか。示唆された内容に、ナマエは溜め息と同時に肩を下げた。

「千鶴ちゃん、本当に誠二くんのこと信用してないんだねぇ」
「そういうナマエは信じ過ぎなのよ、あんなバカ犬」
「あはは」
「あのねぇ、私はアイツをずっと見て来たから言ってるんだよ? 痛い目見るのはナマエなんだってば」

 目で強く牽制してくる千鶴にナマエは渋々頷いた。

(確かに最近、私だっておかしいって思う)

 ナマエ自身、最近の彼との会い方はおかしい、と思わざるをえなくなっていた。メールは相変わらずだが、電話がかかってくることは一年前に比べれば極端に減っていた。
 千鶴の言うことを間に受けるつもりはないが、何かあるのかもしれない。その考えに至らずにはいられなかった。

(でも、忙しいなか来てくれてるんだし)

「てか、アイツもプロのサッカー選手なのにさーよく学生みたいなことできるよね」
「忙しいなか来てくれてるんだよ」

 教室の扉に手をかけていた千鶴は立ち止まり、隣りのナマエを諭すような優しい目で見た。

「…誰をフォローしてるの?」

 千鶴の真意を射た言葉に、ナマエは体をナイフで貫かれたような痛みが走り声を出せなかった。

(……わたし、自分を)

 鼻の奥をくすぐるような痛みに口を閉ざした。己の感情に頭の中が冷たく凍りついていった。

 

「せ、じくん」
「ん?」

 睡魔を堪えて、ナマエは隣りで下着を履いている彼に声をかけた。枕から頭をあげようと肘を立て、ゆっくりと上体を起こすと下腹部がジンジンと痛んだ。痛みに顔を歪めそうになったのをぐっと堪え、隣りに腰を下ろしている彼を見上げた。
 絡まった視線に答えるように、彼はナマエに軽く笑いかけると首を傾げた。

「ナマエ、なあに?」

(あ、なんか可愛い)

 暗がりに浮かぶ右目の泣きぼくろを見つめながらナマエはふとそう思った。
 床のズボンに伸ばしていた彼の手が止まり、ナマエの頭を二回優しく叩いた。左手首のミサンガがゆらゆらと揺れている。

「あのね、私、行ってみたいフレンチのお店を見つけたの」
「へえ、そうなの」
「誠二くん、今度行かない?」

 飛ばしそうになる意識を必死に引き留めながらナマエは言葉を連ねた。
 行こっか。
 その言葉を期待していたナマエは、彼の返事がすぐにこなかったことに驚き息が詰まった。
 彼は一度ナマエから視線を外すと、ナマエには真意の読めない目で見返した。

「うーん」

 ナマエの頭上からそっと手が離れた。途端、ナマエは上体を支えている肘が震えだしたことに気がついた。

(この姿勢に、疲れたんだ、疲れた、だけ)

 自分に言い聞かせるように心に念じる。それでも肘の震えは止まず上半身が崩れそうになった。ナマエは必死に指をシーツに食い込ませながら体をゆっくりと倒し、枕に頭を沈めた。

「今いそがしーから、行ける日が見つかったらメールする」

 枕に沈み込んだナマエの頭を彼は優しく撫でると、髪をかき分けて額に口づけを落とした。

(………大丈夫、断られたわけじゃない)

 ナマエの考えとは裏腹に、言いようのない絶望に心が沈んでいくのを止めることはできなかった。

「うん、また教えてね」

(本当に、千鶴ちゃんの言うとおりかもしれない)

 

 

「だーかーら、私は笠井を勧めたのにー」
「うん、そうだったね。いや、笠井くんはいい人だったよ」
「でしょー? 今からでも遅くない! 藤代なんて捨てちまえ!」

 言葉を同時に千鶴は紙くずをゴミ箱へ向けて放り投げた。紙くずは弧を描いて綺麗にゴミ箱の中に収まった。

「ナーイス私!」
「こら千鶴、周りの紙くずを拾え、ほら」
「えー」
「ナマエの家をこれ以上散らかさない。ナマエは触らないでいいから」

 香代の言葉に床に散乱した紙くずを拾おうとしたナマエは手を引っ込めた。それを千鶴が歩きながら集めるとゴミ箱の中に放り込んだ。

「ここにJリーガーさんは足を運んでるの?」

 香代の質問にナマエは静かに頷いた。彼の自宅からここまで車で20分。決して近い距離ではない。

「ふーん。練習場から近いわけでもないし…そこまでして来てくれるって言うのは愛されてるって思ってもいいのかなぁ」

 疑問符で終わった言葉にナマエはガクリと肩を落とした。

「かなぁ、って香代ちゃん」
「いやー私にはよくわからないわ」
「そう、だよね」

 ナマエは香代の言葉に縋ろうとしていた自分に気付き、言葉を詰まらせた。
 小さなテーブルの上には各自で持ち寄ったおかずが並ぶ。タッパーの中の肉じゃがやひじきの煮付けを三人はご飯片手に箸を伸ばした。

「行けなかったんじゃん」
「でも、断られたわけじゃないもの」
「うまいことはぐらかされたんじゃない」

 煮崩れしたじゃがいもを綺麗な箸捌きで摘むと千鶴は口の中に放り込んだ。舌の上を崩れたじゃがいもが転がる。

「店の名前、聞かれた?」
「…ううん、でも、メールで送ってって言われたからサイトのアドレス送ったもの」
「ナマエが折角調べたのに」

 香代はむすっとしながら卵焼きに箸を伸ばした。ちりめんじゃこの混ざったそれを一口齧る。ナマエはご飯を口に放り込むと力なくもごもごと噛んだ。

「藤代には他の女がいるんだって」
「千鶴ちゃん」
「もう本っ当に引けなくなる前にやめておいたほうがいいよ」

 千鶴の言葉にナマエは机の上に力なくお茶碗を置いた。

(千鶴ちゃんは、まるで私と誠二くんが)

「別れたほうがいいって、思う?」
「私はそう思う」
「千鶴」

 ナマエの弱音を吐くような言葉に追い討ちをかけるような千鶴の返事に、香代は咄嗟に彼女を咎めた。ナマエは千鶴の言葉に、ずしりと肩や胃の辺りに鉛のようなものが落ちてきたような気分になった。
 しかし、その中で少しの疑問も浮かび上がった。

(千鶴ちゃんももしかして誠二くんのこと、好きなのかな)

 ナマエは千鶴から何度も口を酸っぱくして言われ続けるうちに、そんな気持ちが湧き上がってきた。

「アンタが決めることじゃない」
「それは、わかってるけど」
「けどじゃない、藤代とどう付き合うかはナマエが決めることでしょ」
「うーでもー」

(もしかして、他の女性っていうのは、千鶴ちゃん自身だから、だから)

「これ以上その話禁止!」

 香代は言って千鶴の前から肉じゃがのタッパーを奪った。

「ああー! 煮崩れしたじゃがいもー!」

 浮かんだ考えを追い払おうとして、ナマエは首を左右に何度も振った。
 それでも、浮かび上がった疑問はシコリのようにナマエの胸のうちに小さく残った。

2013年7月24日 |Template by Nina.