01

 どこか遠くの方で名前を呼ばれた気がして、ナマエは沈ませていた意識を徐々に起こした。まだ遠くに潜んでいるように、意識は水中の中を漂っている。ふわふわとして感覚の中に、なにか甘い痺れを感じた。

「ん」

 首筋を這うざらっとした感触に思わず声を漏らしたナマエは、自分の出した音に意識を浮上させた。胸の先に痺れを感じる。
 気だるい体を奮起させ、ナマエは重い瞼を持ち上げた。

「ナマエ、起きた?」

 カーテン越しの月明かりに照らされた室内に、自分ではない声が首筋辺りから響いた。顎から耳にかけて少し硬い髪が擦れてくすぐったい。今頃気がついたが、腰のあたりが重たい。足も穿いていたパジャマが脱げているのかスースーする。

「せぃ、じ、く?」

 寝起きだからか、そういうコトをされているからか、ナマエの口からは自然と甘い声が漏れていた。

「そ」

 首筋から顔を上げた彼は彼女の口に唇を一度優しく触れるとそのまま胸元に下りた。

「また、こんな、時間に、きて」

 重たい腕を伸ばし、枕元に置いていた携帯に手を伸ばす。掴んだ携帯のサブ画面に浮かんだ時刻に目を細めた。深夜の2時を回っている。
(眠たいに、きまってる)
 微睡んだ瞳を隠すように一度瞼を閉じていると、掴んでいた携帯を熱い手に奪われた。瞼を上げて胸もとに視線をやると、胸の先端に舌を這わせていた彼がこちらをじっと見つめながらそれを床に落とした。ゴン、と重たい音が床に響く。
(あ、けいたいが)
 思考とは裏腹に艶っぽい彼の視線にナマエは羞恥に耐え切れず首を逸した。
 そんなナマエに満足したのか彼は胸もとから顔を上げて耳元に唇を寄せた。

「ナマエ、しようよ」

 吐息のような低い声に、脳にビリっと電流が走る。背筋が粟立つ。

「もう、してる、じゃない?」
「もっと」

 そう言って耳たぶを甘く噛まれ、ナマエは体の芯が熱くなったのを感じた。

「あんたは本っ当に藤代に振り回されてー!」
「なになに? ナマエが何かしたの?」

 ナマエは、学食Aランチの乗ったトレイを向かいの席に置いた友人からの叱責に身を縮めた。コンビニで買った弁当と紙パックのジュースを広げたナマエの隣りへ、便乗するような声を出したもう一人の友人が腰を下ろす。彼女の手には学食Bランチの乗ったトレイが置いてある。

「また藤代が夜中に来たんだって」
「えーと、藤代ってナマエの彼氏の?」
「そう!」

 千鶴は怒鳴りながらメインの若鶏のからあげを箸で刺した。そんな彼女に白飯を摘んでいた箸を下ろす。

「千鶴ちゃん、そんなに怒らないで」
「ナマエがまたヤらせるから怒ってんの!」

 ナマエを睨みながら言うと、刺した唐揚げをそのまま口の中に放り込んだ。咀嚼しようと閉じた口の向こう側がもごもごと動いている。

「彼氏なんだから別にいんじゃない?」

 ナマエの隣りの香代は憤慨する千鶴に冷静な口調で尋ねると、焼き鯖を一口分箸に取った。

「ちょ、二人共声を落として」

 ナマエは顔を赤くさせながら口元に人差し指をあてた。二人はナマエの言葉にそっと周りを見ると、密かに突き刺さるような視線を感じた。こほん、と千鶴は一つ咳をし、それから向かいの香代を見ると声を潜めながら話しだした。

「言っとくけど、最近藤代は一人暮らしのナマエの家に夜中に来てヤったら帰るんだから」
「ええ? なにソレ。ナマエ本当?」

 怪訝そうに尋ねてきた香代に、ナマエは曖昧そうに頷く。

「目的を済ましたら帰る感じが、聞いててすっごい腹立つの」

 言って、千鶴はご飯を頬張った。そんな千鶴に香代は味噌汁を片手に首を傾げた。
 隣りでナマエは紙パックに差し込まれたストローから口を外すとそっと香代に顔を近づけた。

「あのね、千鶴ちゃんは誠二くんの中学からの同級生」
「ああ、もしかしてナマエに紹介したのって千鶴?」
「う、うん」
「千鶴あんたエライの紹介したねー」

 感心した様子の香代に千鶴は恨みがましそうに睨み返した。

「私が紹介したのは笠井だよ」

 以前千鶴との合コン先で聞き親しんだ名前が出てきて、香代は切干大根の浸しに伸ばしていた箸をぴたりと止めた。

「…なんでそこから藤代に?」

 コップを持ち上げた香代は不思議そうにナマエを見た。

「千鶴ちゃんが笠井くんとのデートをセッティングしてくれて、待ち合わせ場所に行ったら、何故かそこに誠二くんもきていて」
「一年以上前のことだけど、今思い出しても腹立つわ〜!」

『ねぇ、今度は二人であそぼーよ』

 ナマエの脳裏に、一年前の笠井と藤代の三人で遊んだ食事会の帰り道が浮かんだ。赤外線、俺受信するから送ってよ――逞しい腕をナマエの元に伸ばしてきた彼の姿を思い出す。

「そういえば、笠井就職先決まってたんだって」
「へえ、あの人銀行マンにでもなれそう」
「ちっがーう、音楽教室の営業マンだって」
「ふうん」

 二人のやりとりを聴きながらナマエは空になったお弁当の蓋を閉じた。

「笠井くん凄いね」

 のほほんとナマエが呟くと、二人の会話が急に止んだ。ビニール袋に弁当箱を入れようとしていたナマエは二人の真剣な眼差しにオロオロした。

「ねえナマエ、なに呑気なこと言ってるの?」
「え? 千鶴ちゃん?」
「千鶴がなに心配してるか、わかってる?」
「か、香代ちゃんまで」

 二人の言葉にナマエは交互に顔を見ると内心で冷や汗を流した。

「あのね、もしかしたら藤代はナマエのカラダ目的かもしれないんだよ?」

 香代の言葉にナマエは首を捻った。

「でもね、前はよくショッピングやご飯に行ったりしていたし」
「“前は”でしょ? 最近は滅多に来ないくせに来るときはほぼ真夜中に来て、ナマエが起きたらいないんでしょ?」
「まぁ、うん」
「夜這いで会うとか、このままいくとナマエの行く先が案じられるー」

 香代の言葉にナマエは苦笑いを漏らした。

「ナマエ、私は本当に心配なの」
「千鶴ちゃん」

 千鶴の真剣な声に、ナマエは笑っていた頬を戻した。

「私の友達でそういう目にあったって子、聞いたことある。結局騙されて辛い目に会うのはナマエな訳じゃない? 私は紹介した責任感じてこんなこと言ってるんじゃなくて、友達として心配で言ってるんだからね?」

 ひどく神妙な顔つきの千鶴に、ナマエは改まった顔をして頷いた。

「相手はJリーガー。私たちとは次元違うって思っとかなくちゃ。付き合うから先の事は考えないのが自分の為だと思うよ」
「そうそう、もしかしたら自分に似た立場の人が他にもいるかもしれないって考えとかないと」

 生真面目そうな香代の態度にナマエは不満そうに頬を膨らませた。

「ねえ二人共、それは誠二くんに失礼だよ」
「でもさ、話だけ聞いてると発情した犬だと思わない?」
「思う思う。雑誌みたいに喋らなければいい男なのにねー」

(千鶴ちゃんは、誠二くんにさせるなって、言うけど)

「っ…ん」
「ね、きもちいー?」

 上からじっと見下ろしてくる彼にナマエは紅潮させた頬をそのままに数回頷いた。自然と瞳を潤ませ、そうして彼を見つめると、真剣な眼差しの彼の表情が苦渋に歪んだ。

「あー、やべ」

 彼の腰を動かす律動が早くなり、ナマエは枕の端をぎゅっと握り締めた。自然と瞼をぎゅっと閉じると顔を横に逸らす。

(寝てるあいだに、始まってたら、むりだよ)

 膝裏に手を回され、足のあいだを開かされる。肌と肌が重なり合い、ナマエは枕を掴んでいた手を彼の指に絡ませられた。その手が、横を向いていたナマエの顔を真正面に戻す。睫毛を震わせながら瞼を上げれば、唇から息をこぼしながら彼の顔と間近で向かい合った。目が合うと、ナマエの額に彼は額をコツン、と合わせた。

「やめらんない」

(それに、無理、だ。嫌がる、なんて)

 甘さと妖艶さを混ぜ合ったような瞳に、体が溶けてしまったのではないかとナマエは微睡む意識の中で思った。

「やめるつもりは、ないけど、さ」


2013年7月22日