海底列車で

 

海底列車で

 

 

 その日、友人との飲み会が大いに盛り上がり、あまりの楽しさに勢いが止まらず私たちはそのままカラオケへ向かった。理由は簡単、オールにもってこいだったからだ。部屋に入った当初はマイクを片手に多く語っていた相手が、マイクをテーブルに置いてソファに横になる頃にはすっかり私にも睡魔が襲ってきた。こっくりこっくりと舟を漕いだ末、友人と同じようにソファにもたれ掛かると夢を見ていた。私は海の中を走る電車の中にいた。
 海の底を走る電車から見える景色は不思議でスペクタクルだった。日光が海中を透き通り、景色は全て青みがかっていた。でこぼこの海底には珊瑚礁が広がっていて、赤や黄色、緑と華々しかった。そのそばを小さな魚たちが群れをなして泳いでいる。私は長い座席の真ん中にただ一人座って眺めていた。緩やかな速度で走る電車の景色は徐々に移り変わっていく。珊瑚が消えた岩肌だけの中を、ウミガメが雄大と泳いでいた。前足を前後に掻くように動かし、電車の天井を跨いで反対側へと向かっていく。ぷくぷくと、ウミガメの口からあぶくが溢れた。それは海上へと昇っていく。相反するように深く潜っていくのか、車窓に光が届かなくなっていく。海の色が水色から青へ、さらに紺へと黒を濃くしていく。このまま深海まで向かっていくのかもしれない。
 そう考える私の心はとても穏やかだった。気づけば私も口からあぶくをこぼしていた。こぽこぽ、こぽこぽ。電車の中にいるはずなのになぁ、ちょっと苦しいなあ。そう思うと、本当に苦しくなってきた。どうしようまずいな、と真剣に思っていると、奥の席の方で誰かが立ち上がった気配を感じた。あれ、さっきまで無人だったのに。誰だろう?
 そこで終わりだった。
 ぱちっと目を開いた。ぼやけていた視界がはっきりと見えて、三本の指が見えた。私は友人の手で呼吸を遮られていた。

 寝ぼけた目を互いに擦り、友人と駅で別れた。電車はすでに始まっていた。やってきた電車に乗り込むと、偶然だと思うけれど、一人もいなかった。貸切状態だ。
 車両の真ん中の長い座席の端にちょこんと座る。なんだかまるで夢の続きを見ている気分だった。
 静かに電車が走り出す。仕事に向かうんじゃなくて、これから家に帰る。その感覚もまた不思議だった。懐かしいような気持ちだった。
 朝日が建物の合間から見えて、眩しさに目を細める。ついでに頭もズキっと痛んだ。寝不足のせいだ、きっと。昔なら一夜くらい無茶したって平気だったのに。歳を重ねるとは恐ろしい。もう若くないんだと実感せざるを得なくなるんだもの。
 電柱やら建物やら看板やら、ちょっともやがかったような空を眺めていると、車両同士の接続部分の扉がゆっくりと開いて閉じた。人が入ってきたのだ。何とはなしにそちらを見て、一瞬なにかが脳裏を掠める。男の人は優先座席を避けて、すとん、と端に座った。
 すとん、と。

(あ、くろかわだ)

 浮かんだ言葉が頭から胸に降りてきた瞬間、大きな高鳴りと緊張が体を駆け巡る。
 鼻が大きく膨らんで、無意識に呼吸を深くしていた。あれは、そうだ。黒川だ。間違いない、だってついこないだテレビで見たのだ。胸の鼓動が段々はやくなっていく。
 中学の時の同級生――当時不良と呼ばれていた彼が、いまやテレビで活躍を拝めるようになったサッカー選手――が、そこにいる。

 脳裏に、あの夏が蘇る。
 汗でへばりついたシャツ、イヤホンで聴覚を遮った相手の焼けた黒い首筋。椎名先輩と黒川がイヤホンを耳に収めて、互いに喋らずに通学路を歩いている。夏空は雲ひとつなく晴れ渡り、その後ろで水泳着を持った私はただ歩く。名前だけが有名な二人の後ろを、あの頃の私は静かに歩いていた。

 体育のプールの授業で休んだ補修として、私は夏休みに学校へ泳ぎに来ていた。今日とあと二回。夏休みを返上して私は補修を受ける。
 プールは無人だった。本来の補修日はもっと前だった。私がまた生理が被ってしまって行けなくなったから、やむを得ず水泳部が大会でいない日を使わせてもらうこととなった。そういう人は何人もいると思っていたけど生憎私だけだったらしい。
 着替えて、その日日直の先生が入る前のシャワーなどを開けてくれて、それからクロールと平泳ぎと背泳ぎ、バタフライをこの25メートルプール何回分泳ぐことと説明を受ける。それから私は黙々と泳ぎはじめた。端っこで壁に手を付いたとき、既に先生の姿はなかった。しばらくは私一人かな。
 平泳ぎの途中、誰もいないことをいいことに、私はぷかぷかと水に浮かんだ。25メートルのプールを一人で泳ぐ。ちょっと贅沢だな。遊びだったらビート板をこっそり取り出してラッコみたいに浮きたかったな。仰向けになって、顔だけ水面から出す。ゴーグル越しの空はほんのり黒い、太陽は相変わらず眩しい。
『へぇ、泳げんの』
 声に驚き底に足を伸ばす。ちょうど真ん中の深いところだったみたいで、私は一旦下まで沈んでつま先で底を蹴った。浮上したら、ゴーグルの曇った向こう側で黒川が焼けたプールサイドに制服姿で立っていた。サッカー部が創立してからは随分大人しくなった不良のクラスメイト。
 彼は一瞬口元をニヤッとさせて、宙に浮いた。
『あっだめ……!』
 ざぶん。
 制止も聞かずに彼はプールにそのまま飛び込んできた。ぎょっとした私を横目に、ウォーミングアップもせずに、彼は髪を濡らして綺麗なクロールを披露した。指先が水面へ潜り込む瞬間を私は瞬きも忘れて見た。とても綺麗な泳ぎだった。彼はへばりついた制服よりもぺたんとなった髪の毛が鬱陶しいのか前髪をかきあげて、ふるふると首をふった。
 後からサッカー部の人たちがわいわいやってきて次から次へと飛び込んでくる。目が回りそうだった。浅瀬に移動して呆然としている私をよそに、彼らは濡れて騒いでいる。椎名先輩のおい行くぞ、の一声に彼らはあっという間に去っていった。
 次の補修日も、彼らはどこで嗅ぎつけたのか私の貸切のプールへやってきて水遊びをするとそのまますたこらどこかへ行ってしまった。
 補修最終日は、黒川が先にプールに入っていた。
 どうして彼らが補修日を知っていたのかわかった。黒川自身も授業をサボっていて補修の対象だったのだ。
 先生はしばらく様子を見ていたけれど、私が1番、黒川が6番のレーンで黙々と泳いでいるのを確かめるとすぐ戻ると行って離れていってしまった。
 壁に手をあててターンをしようとして、ふとレーンの端から水を掻く音がしないことに気がついた。首をひねる。水面がチャプチャプと揺れるだけで、黒川の姿が見当たらない。
『ミョウジ』
 驚いてプールサイドを見上げる。水泳着と水泳帽を被った黒川がすぐそこの緑の上に屈んでいた。大きなポンプが真横でじゃぶじゃぶ水を吐き出している。手すりの横から見下ろされる。彼の黒い素肌から、ぽたぽたと水が滴り落ちる。
『泳ぐの下手くそ』
『……黒川は、上手だね』
 褒めれば、彼は笑った気がする。ゴーグルを上へ外す。きっと目元に痕が付いてるだろう。
『まぁな』
 手を差し出されて、戸惑いつつ応える。上がろうと引っ張ってくれる手に力を任せる。と、そのまま私は背中からもう一度プールに落ちた。さぶん。黒川にいたずらされたのだとわかって、悔しさが湧き上がった。ゴーグルもせずに落ちたもんだから目が痛い。あんな簡単に引っかかった自分が恥ずかしい。沈んだまま上がらずにいたら――どぼん。何かが落ちてきて私の腕を強く引っ張った。誰かなんて見えなくてもすぐわかった。黒川以外考えられなかった。
『ぷはっ』
 浮力に従って水面から顔を出したあと、顔を見合わせた。ゴーグルもしていない黒川の目と合う。
『悪い』
 黒川の言葉に、私はただ笑った。笑うしかなかった。その間もずっと、彼の手は私の腕を強く捕まえていた。
 触れられた腕が、とても熱くてしようがなかった。

 あの後、私と黒川は会話のできる程度のクラスメイトとなった。そして別々の高校へ進学して、それから繋がりは一切なくなった。
 電車がカーブを曲がる。車両ががたんと揺れる。
 同じ車両の中に、ただ二人。
 SNSで、黒川の名前をたまに見かけるようになった。同じサッカーを生業にしている人たちの写真にアップされていた。黒川本人も極最近始めたのを見た。
 フォロワーの人数を見て、この人数ならきっと私一人押したところで気づかないだろう――なんて、一人意識したりして、フォローする、のボタンを押してみた。結局なんの反応もなかった。当たり前のことだろう。
(黒川は、気づいてるかな)
 ちらりと、朝日の差し込む窓の向こう側の姿を確認する。足を組んで、イヤホンで何かを聞いている。
(黒川は)
 前かがみになって、私はカバンをぎゅっと抱えた。
(覚えてくれてるかな、私のこと)
 ちり、と胸が痛んだ。
 私も今じゃ小学生の先生だよ、君に下手と言われた泳ぎで、生徒に指導しているよ。君みたいな生徒を時々見るよ。少し大人びた考えの君みたいな、人。
 電車が速度を落としていく。
(あーあ、君、相変わらず黒いなぁ)
 眩しい太陽の日差しに、目を閉じる。話しかけたいのなら、落ち着けているこの腰を奮い立たせればいいのだ。あっちに向かえば、向こうだって気づかざるを得ないじゃない。
 まぶたの内側は、魚が泳いでいた。海面の光がちかちか光っている――ここが夢の続きなら。
 そうしたらこの中も無重力で座ってなんかいられなくて、ふよふよ浮いているんだろうな。そうして、水中じゃ目も開けられない私の腕を、黒川はもしかしたら。
 もしかしたら掴んでくれるかもしれない、なぁ。
(なんて、期待してみたり)

 だけど、わたしの足は向かうことなく、座っているだけだった。

 電車が止まる。
 電子音が響いて、扉が開く。ホームから人が数人、乗り込んできた。扉からホームへ大量の水が放出される。ゆったりと遊泳していた魚たちが消えていく。
(…大人に、なったんだなぁ)
 現実が私のゆらゆら揺れる心を落ち着けていく。靄がかっていた空が澄んでいく。
(君がもし私を覚えていてくれたなら、あの夏を覚えてくれてるかな)
 再び扉が閉まって、電車が走り出す。
 私はそうっとカバンの中から携帯を取り出した。鳥のマークのアプリを開いて、フォローしている人たちの一覧を開く。有名人や知人たちの中に紛れた、その中の名前を開く。指先でスクロールさせれば、140字におさまる文と写真が溢れている。
(ほら、やっぱり黒川だ)
 ちらっと、もう一度そちらを窺う。思春期の面影なんてすっかりどこかへ追いやってしまった、精悍な顔立ち。だけど、昔と変わらない黒髪に、焼けた肌。
(私も、変わったかな)
 スマホの向こう側にある皺の入った服。短い爪。オールなんて柄にもない事をやってのけれるようになった自分。
 再び電車が、速度を落とし始める。
 こんなに近くにいるのに、画面で見ているほうが現実味があって、近く感じる。
(ああ、本当に、ふしぎ)
 電車の扉が開いた。ほんの数人しか乗り込んでこなかった。私は、ゆっくりと立ち上がる。そうして、電車を降りた。
 そうして数歩進んで、黒川の席の前のホームに立ち止まる。
 黒川を真正面から、じっと見つめた。手中のスマホを弄るのに夢中なのか、彼は一向にこちらを向かない。
「扉が閉まります」
 駅員のアナウンスとメロディーが鳴る。口の中から飛び出そうとする四文字が、開閉をするたびに噛み砕かれていく。呼ぶんだ、気づいて、見て、気付いて、顔を上げて――。
 プシュー、空気の抜ける音がして、扉が閉まった。どうやら願うだけでは駄目だったようだ。
 後悔と諦めが混じって鼻から空気が漏れた。黒川を乗せた電車が轟々と発車した。
 最後まで見送ろうと決めたその時だった。車両の中の彼がおもむろに顔を上げた。
(くろかわ)
 念じた声が届いたかのように、目があった。息を呑む。自然と頬が強張って、足が震えた。
 だけど私は最後まで目を逸らさなかったし、彼もまたそうだった。
 切れ長の目を丸くさせて、驚いた表情のままホームに立つ私を見ていた。なにか伝えなくちゃ――唇は中途半端に開いたままで、もごもご口の中で上手く言葉が纏まらない。そうして電車はいってしまった。何も言えなかった。伝えられなかった。
(ばか、意気地なし)
 手のひらに汗が浮かんでいた。
 ただ、それだけだった。

 

 

 


[2016年08月15日]