気づかれないように

気づかれないように

 

 

『ミョウジー、なぁミョウジー掃除かわってー』

 そう言ってわたしに箒を差し出した相手の顔を思い出す。クセのある髪をワックスで綺麗にまとめて、人懐っこくニッと意地悪そうに笑う相手を。

『結人ー! 一緒に帰ろー』
『わりー俺サッカーあるから』
『ちょっとー彼女の私を大事にしなさいよー』

 教室の扉に立った女の子に謝る彼を見て、言葉を聞いて、傷つきながらも恋をした。
 目の前で別の人とやりとりを繰り返している相手に、勝手に一人で胸のドキドキを早めて。

『な、ミョウジこれ持ってて』
『えっちょ』

 そう言って差し出された箒を受け取って。
 その時触れた相手の人差し指と親指の感触に、触れられた喜びを噛み締めていた。
 でも、そのあと教室の入口で彼女の頭を撫でている彼を見て、別の場所が何か刺さるように痛んだ。

 中学の思春期、不毛な恋にわたしはずっと落ちていた。
 それでもずっと、好きだった。

 

 

 

 まさか、いやまさか。

 この人ともう一度会えるなんて、一体誰が思っただろうか。

「よぉ」
「おせーぞ!」
「ほんとほんと、ナマエちゃん遅刻ー」

 座敷の障子を開いたら、三人の顔がいっせいに私の目に映る。いつも一緒に遊ぶ馴染みある二人の顔と、それから直にこうやって顔を合わせたのはきっと中学以来の、クラスメイト。

「いっつも遅刻じゃん」
「ごめんなさーい」
「え、ミョウジって遅刻魔だった?」

 やや大阪弁の入ったイントネーションを使う、今や日の丸を背負ったサッカー選手。

「若菜のほうがそうだったんじゃない?」
「覚えてねー」
「ほんとにね」
「てかミョウジ久しぶりやね、懐かしー!」
「なにそのエセ関西弁」
「きしょい」
「傷つくわー」

 わたしは笑いながら盗み見るようにこっそりと、豪快に口を開けて笑う若菜結人の顔をじっと見た。テレビで見るような気迫さはそこには見当たらず、ただただ、中学の時に見ていた若菜がそのまま大人になったような、変わらない印象を受けた。
 豪快に口を開けていた若菜が落ち着いた表情へと変える。その真面目ともなんとも言えない一瞬の顔を見たとき、わたしの心の中がドキリと揺れた。友人の隣りの空席に体をしまうようにして、わたしは掘りごたつの席に腰を下ろした。

「先にドリンクをお選びください」
「とりあえず生で」

 友人がわたしにドリンクメニューを差し出そうとしてくれるのを制しながら言うと、店員はそのまま退席した。
 ぱたん、と障子が閉じると一瞬の沈黙の後向かいに座る男友達の吉田と若菜が茶化すような声をあげた。

「ミョウジが生とか言うようになったのか」
「おっさんに近づいてるな」

 驚いたような若菜の声と、相変わらずの吉田の対応にわたしは顔を顰めた。

「失礼ね、わたしだってお酒飲めるわよ。二十歳じゃないんだから」
「あーほんと、俺らも年取ったんだな」

 そういって若菜がわたしに視線を向けた。向けられたわたしはなぜか緊張して胸のあたりがざわざわと揺れた。それと同時に、その若菜からの視線に懐かしさも感じていた。

 思い出したのだ、あの頃を。

 若菜のこの目に、わたしは恋していたんだな、と。

 思い出すと心を温かい手でそっと包まれているような、締め付けられているような甘酸っぱい痛みが走った。

「まっさか三十路を前にしてお前らと会うとは思ってなかったなー」

 両手を上体よりやや後ろの床に手をつけた若菜はそう言ってぐるっとわたしたち三人の顔を見回した。「独身で悪かったわね」わたしの隣りの麻弥子は笑いながら向かいの二人に聞こえないようこっそり耳打ちしてきた。その言葉に思わず笑みをこぼしていると、障子の向こうから店員が声をかけてきた。
「失礼します」
 そうして静かに障子が開くとわたしのビールと一緒におつまみやサラダが順々にテーブルの上に並べられた。
「お前来ねーから、勝手に注文したからな」
 吉田はわたしを見た。わたしも答えるようにうなずいた。遅れてきたのだから、別に文句を言うつもりはない。一通り並び終えてテーブルの上にさまざまな料理が美味しそうに配膳されている。

「よーし、ミョウジのもきたし」

 そういって、みんな近くのグラスを掴むとテーブルの中央に手元を寄せた。

「とりあえず、かんぱい!」

 グラスを叩き合わせるようにガチリと火花でも散らすような音を鳴らすながら合わせると、いっせいに飲み物を口に含んだ。冷えたグラスに唇が驚く間もなく生ビールを泡も食べるような勢いで飲む。ごくごくと喉を鳴らして、それからゆっくりとジョッキを離す。口の中にあった苦みはいつの間にか消えていた。
 何度飲んでもおいしいと思い、自然と上がった口角に心も笑っていると、向かいの二人はぷは、といって楽しそうに笑った。

 誰が、こんなことを想像しただろうか。

 何度も同じ言葉がわたしの脳裏を通り過ぎていく。

 隣りにいる麻弥子ですら、そう思っているだろうに。

「あー懐かしー」
「ねぇねぇ若菜ってこっち帰ってきたりしてんの?」
「たまにな」
「へぇー、たまに」
尋ねた吉田をよそに、麻弥子が若菜の言葉をおうむ返しする。
「仕事柄いろんなとこ行くけどな」
「そうだよね。ねー代表にもう一回ならないの?」
「ソレ監督に聞いて」
「若菜前回外されちったもんな」

 みんなが話しているのを聞きながら、わたしは心が懐かしさと嬉しさに踊っていることに気が付いた。
 内容が若菜にとっては結構つらい話のはずなのに。というか、二人ともサッカーについて詳しくて驚いた。
 わたしは、若菜のことが知りたくて昔いろいろと調べた。オフサイドとか、ペナルティエリアのこととか、若菜がよく口にしていた”ボランチ”とか。
 笑ってはいけないけれど笑ってしまう顔をどうにかしようとしていると、箸で鯛の刺身を掴みながら若菜が恨めしそうにわたしを見た。

「人が大変な話してんのになんだよその顔」

 表情とは裏腹に声は楽しそうで。
 わたしはますます笑ってしまい、それからビールの入ったグラスに手を伸ばした。

「懐かしいなぁって思ったの」

 若菜にそう答えたとき、中学のころの、あの、何気ない日常がふいに蘇った。

ガタ

 立ち上がろうと思い椅子を外へ引こうとしたわたしは、膝がまっすぐになるどころか座ったままの状態で後ろに引っかかってしまった椅子に驚いて振り向いた。

「なんだよ」
「……」

 後ろの席の若菜は、振り向いたわたしをにやにやと意地悪そうな顔で見た。
 授業が始まるまでは立つことができるほどの余裕があった空間が、いつの間にか若菜の手によって詰められてしまっていたのだ。

「なにって、わかるでしょ」
「わかんねぇし」

 そういいながら、若菜はますます私の椅子の後ろと若菜の机のあいだの隙間を無くすように詰めていく。…わかってるじゃん。
 ただのクラスメイトだったわたしが、若菜と喋れるようになったきっかけがコレだった。

 後ろの席の若菜と、わたしと。

 プリントを配るだけでもドキドキした。3時間目、4時間目の授業は、お腹が鳴らないか毎日毎日肝を冷やした。
 授業中、後ろの席から若菜が黒板の授業を見ているんだと思うとわたしの意識は黒板なんかよりも後ろの席の若菜に集中していた。
 背中がいつも熱かった。見られているかもしれないと思うと二つくくりにしていた髪の分け目ですらちゃんとまっすぐに引けているか気になるくらい。

 そう、わたしは若菜に恋していた。好きという感情の赴くままに、ときめきを謳歌していたのだ。

 わたしの座っている椅子と、後ろの席の若菜の机が当たって、その上の若菜の筆箱が背中にあたっているとき、たったそれだけのこと幸せだった。
 実際には若菜は授業中先生の目を盗んで寝るために机をわたしの椅子にくっつけ、わたしを盾にして隠れるように寝ていたのだけど。今から考えればそうなのに、あの頃のわたしは勘違いやろうで、たったそれだけのことで若菜もわたしのことが好きかもしれない、という可能性を望んでいたのだ。

「中学って、もう10年以上前か!」
「うん、もうすぐ15年前って言えるようになるね」
「そういや、若菜が付き合ってた子、赤ちゃん二人目だって」

 麻弥子が枝豆を取りながらそういうと、若菜が軽く相槌を打った。吉田は付き出しの豆腐に醤油を垂らしながら一緒に頷いている。

「若菜あの頃、あの子の事好きだったもんね」

 麻弥子の言葉に若菜が曖昧に笑った。
 その顔は随分と大人びていて、わたしは若菜は中学の時のままではないことを知った。
 そして麻弥子を静かに見た。彼女もわたしと同じように昔、若菜のことが好きだった。

『ナマエ、若菜に告白してくる』

 卒業間際、彼女はわたしにそういった。
 そのあと彼女は告白して、それから若菜にフラれた。
 卒業間際、若菜に告白する人が本当に結構たくさんいて、誰かが誰かに告白した、という出来事は今までなら大きな噂だったにも関わらずその時は緩和されたかのように誰も、なにも言わなかった。
 麻弥子の告白もその一つとして小さく噂されてそのままゆっくりと忘れ去られていった。

 わたしは、その中に入ることもできず、ただ静かに自分の恋が終わるのを見ていた。

 卒業式のあの日、わたしは誰もいない家で人生で一番の恋が実らずに終わったことに絶望し、泣いた。

「で、ミョウジ、見せろよ」
「え?」

 言われるのと同時に左手をぐいっと引っ張られた。若菜に触れられた指がちりちりと熱を持ったように熱い。

「ダイヤちっちぇ」

 そういって若菜はわたしの指を顔に近づけていく。隣りの吉田が「安月給」と言ったのでわたしは彼の頭を軽く叩いた。

「こら、旦那のことを悪く言わない」
「旦那かぁ、いいなあ」

 麻弥子が隣りから羨望の眼差しでわたしを見た。それに、わたしは曖昧に笑った。そしてそのしぐさをしてからさっきの若菜を思い出した。そうか、若菜も困ったのかと冷静に分析している自分に気づくと、やっぱり昔とは違うのだなと感じた。

「若菜は結構いいのあげるの?」
「あれじゃない? ハリーウィンストン!」
「おま、あれは芸能人がしてるんだろ?」
「わたしの勤め先の医院長婦人してるもん」

 麻弥子の言葉をジョッキの中のビールを飲み干しながら若菜は聞いていた。とても嬉しそうに。
 若菜はなにが嬉しいんだろう。
 そんなことがふと脳裏を浮かんだけど、口に出すことはなかった。
 若菜はジョッキをテーブルに置くと麻弥子やわたしのさっきの言葉をまるっと無視して笑顔をわたしに向けたのだ。

「なぁ、結婚おめでとな!」

 その言葉を彼の口からまさか聞く日が来るとは思ってもいなかった。
 嬉しさを前面に出して、わたしは笑った。
「ありがとう、若菜」
 ちょっぴり心が締め付けられたことは誰にも言うつもりはない。

 中学を卒業したあの日。
 人生で一番の恋をして、もうこんな悲しい失恋はないと思ったあの日。

 告白しなかったことを、後悔していたあの日。

 こんな日が巡ってくるなんて、誰が想像したものか。

「ミョウジ、式呼べよ」
「ええ、マジで!?」

 隣りの麻弥子が驚いた顔をしている。わたしもびっくりして目を丸くしていると吉田が若菜の肩を叩いた。

「俺ら行くよ」
「ほら、俺も呼べよ」
「でも、わたし住所知らない」
「言ったなー」

 そういうと若菜はテーブルの上にスマートフォンを置くと手際よく何かをした。
 そしてふいにわたしの携帯にメールが届いた音を知らせるメッセージが浮かんだ。確認すると世界最大のSNSサービスからで、そこにメッセージが届いたと表示されていた。
 急いでアプリを開くと届いたメッセージを開くと、そこには。

「うわ、本当に住所送ってきて」
「呼べよ、式」

 驚くわたしの言葉を遮るように、若菜が声を出した。
 顔を上げると嬉しそうに笑った若菜の顔が見えた。

 あの日、もうこんなに好きだと思う人はできないと泣いて後悔していたわたし。

 告白しなかったからこそ開いた道もあるんだよと、わたしは過去のわたしを見つめながら笑った。

「じゃあ、何かしてよ、せっかくだからサインくれるとか」
「いいぜ、書いてやるよ」
「あ、わたし山口さんのサインがほしい!」
「ゲンキンだなおい!」
「えっと、わたしは渋沢さん」
「え、ミョウジ、俺のでいいだろ?」
「のムービーとかあったらなぁ」
「サインじゃないんかよ! なんやねん!」

 そうやって笑う若菜を見て、胸がくすぐったく揺れたけれど。
 くすぐったその正体を自分の中で見つけたけれど、見つけてしまったけれど。
 こっそりそれに蓋をしたのを、わたしは誰にもいうことはない。
 若菜にも、旦那にも。そう、誰にも。

 

 


[2013年9月 14日]