解夏とシオン 五

 

 

 ベンチに腰かける。トートバッグと買い物した紙袋をとなりに置く。大判柄のストールを肩からかけて、空風から体が冷えるのを防ぐ。
 空が高くなった。活気にあふれていた緑豊かな夏がすっかりなりを潜めて、枯葉を地面に落としている。ベンチの設置されたこの公園の木々から、金木犀のにおいがした。
 空を見上げる。遠くを羊雲が流れて、薄くなった部分からみ空色が覗いていた。綺麗な色だなぁ。カラスが数羽、点ほどの大きさで雲の下を通過し山に向かって飛んでいる。こんな青い色もあっという間に黄昏に染まる。すっかり秋も終わりに近づいた。

 今日の晩ご飯、何だろうな。寮母さんに頼んでるから早く帰って温かいうちに食べたいな。
 ぼうっとしている私の頬を叩くように横風が吹いた。あっと思う間もなく、被っていたベレー帽が空高く飛んでいく。術師ならこれくらい防がないと、油断していた。
 高く飛んだのは一瞬で、ふわっと揺れるように帽子が落ちていく。
 地面に着地した帽子を、道行く人が屈んで拾ってくれた。受け取りに行こうと立ち上がって、私は足に根が生えたみたいにそこから動けなくなった。

「隣り、失礼するよ」

 いつかのように、一言声を掛けてくれる。変わらない声色。
 私はあの時みたいに右側をあけることが出来ない。ただ固まって、ほんの少しスペースを空けてベンチに腰かけた相手を見下ろす。相手は私の落としたベレー帽を手に収めたまま、目を細めて笑んだ表情を崩さない。崩しているのは自分だけだ。
 私は今、どんな顔をしているんだろう。
 不意打ちに戸惑っている間に、彼はベレー帽を膝の上に置いた。両手の指を合わせ、首を傾げる。

「少し、話をする?」

 見上げられた視線を受け止める。私は無言のまま、ベンチに腰を下ろした。
 力任せにスカートを思いっきり握る。隣りから視線を感じる。私だって向きたい。だけど、相手の顔を真正面から見たら、ただでさえ情けない顔がこれ以上酷くなってしまいそうで。
「会いたくなかった?」
 そんな訳ない。ショートブーツを履いた足を見つめたまま首を振る。はあ、と息を吐いて、吸って。
「そっちでしょ、私に会いたくなかったのは」
 情けないくらいカラッカラに乾いた声が出てきた。

 硝子に傑に会ったと言われたのは、台風がやってきて残暑の暑さが冷え切らない頃だった。その後、追いかけるように向かった悟が夜蛾先生に報告していた。
 それからもう冬に入る手前だというのに、彼は私の元にやってこなかった。

「私、会えたら伝えようって、ずっと思ってたことがあるの」
「…………聞こうかな」
「前に一度、非術師の立ち位置が揺らいでるって私に打ち明けてくれたことがあったよね。私、あの時うまく返せなかった。それからずっと考えてたの。どう答えようって。曖昧な気持ちなら、曖昧なままでも良いんじゃないかな。庇護する相手なのかそれとも邪魔な存在なのか、迷い続けるのはとても辛いけど、答えがわからないまま居続けても、私はいいんじゃないかなって。それが、私のあの時の答え」

 あの夏、従弟の傍を離れられなかった時にそう思った。彼らを救わなくちゃいけないし、けれど彼らの感情の暴走のせいで呪霊はうまれてきてしまう。どちらでもある存在だから、邪魔だと思ってしまう時もあっていいし、いけないことではないんだなと悟ったのだ。

 会えたら伝えよう。何度も頭の中で反芻し続けて、ここまで一息に言えるくらい覚えてしまった。
 隣りに座った彼が、自分の手から視線をこちらに向けた。おかしいな、と困った顔で首を傾げる。

「硝子から話聞いてない?」
「聞いてるよ。私と答えが違ったみたいだね。でも、もしもあの時伝えられてたら、変わってたかな?」

 叔父が亡くなり、唯一の身内である従弟の元に駆け寄る為、高専を暫く離れた時期。
 灰原とは、彼が骨となるまで会えなかった。人の死に今まで遭遇したことがないわけじゃない。だけど叔父だけは私も淡々とできなかった。叔父の遺品整理をし、従弟の傍を離れず、四十九日が明ける前に私は喪失感と不安、恐怖ともたたかわなくちゃいけなくて。精神を強く持とうと自分の事で必死だった。精一杯だった。
 傑の手を繋ぎに行くことも、傍に駆け寄ることも、一言メールを送ることすら、できなかった。

 傑は、私の言葉に返答しなかった。代わりにポケットからごそごそ何かを取り出した。私の目は彼の指に向く。
 取り出したそれを人差し指と中指で挟み込み、口元へ運ぶとそっとそれに火をつけた。先端が一度燃えて彼が口からそれを離す。唇から白い煙りがふう、息と共に吐き出される。紫煙はにおいを残しくゆりとうねった後、瞬く間に消えてしまった。

「私も、この道を選んで決めた事がある。”過去の自分は他人”だってこと」

 目を見張りそうになって、咄嗟にぎゅっと強く瞑った。きっとこれは自己防衛だ。鋭く研がれた何かに胸を切られた感覚がしたから。
 なんてことを言ってくれるの。
 突き放されるなんて生易しい言葉じゃない。これは決別だ、別離だ、完全なる。

「……私は、過去の人間って、こと、なんだね」
 声が震える。感情を出しちゃいけない。こらえろ。
「傑に、とって、私は、もう」
 泣きそうになるくらいなら、それ以上喋るな。
 わかっているのに、問わずにはいられない。
「泣かないで」
 慰めるような声。灰になった部分が、赤煉瓦色の地面にこぼれ落ちていく。傑の煙草を持つ手が小さく揺れた。

「好きな人に、そんな顔させたくないな」

 声も言葉もこんなに優しいのに。じゃあどうして、あの頃みたいに触れようとしてこないの。どっちが傑の本音なんだろう。
 わからない。もう、本当に。

「好きだったの? 私のこと」
 皮肉った声が出た。
「そうだよ」
「他に彼女がいたのに?」
 皮肉った言葉が出る。
「ああ、そうだよ」
「わかんないよ」
「結構解りやすくアピールしてたと思うけどね」

 私より大きな体を丸め、顔を覗き込まれる。彼の前髪がゆら、と左右に揺れる。
 この人に、私の悲痛な声が聞こえてるのだろうか。違う、聞こえてるに決まってる、傑だもの。

「じゃあ、どうして連れて行ってくれなかったの」
「……」
「私は非術師の為じゃなくて呪術師の為にいるって」

 言ったじゃない。
 茜色に染まりだした空を滑るように夕焼けが落ちていく。先ほどの空っ風は吹いていないけど、さすがに肌寒くなってきた。握りしめていた手を緩める。スカートがくしゃくしゃになってしまった。
 なんて返ってくるんだろう。
 呪術師じゃない、呪詛師だよなんてつまらない言い訳を返されるのだろうか。

「……私もね、実を言うとナマエを誘うつもりだったよ。好きな人だからね。だけど、あの時、君は灰原よりも猿を優先しただろう。他の誰かがそうしても気にならなかった。他ならない君がそうしたことが、私はどうしても許せない」

 すべてを言い切って、傑は短くなりつつある煙草を咥えた。指先の近くで先端が赤く燃える。チリチリと赤かった部分は灰になっていく。唇を離して、彼は長く煙を吐き出した。
 ああそうなんだ、と腑に落ちた。これが、傑の本音なんだと、妙にしっくりきた。
 段々と、罪悪感が私の心の中で大きく膨らんでいく。そっか、うん、だから。
 だから、私を連れて行かなかったんだね。そして、これからも。
 ごめんと口からついて出そうになって、でも自分は悪くないのに言う必要はないんじゃないか、と相反する気持ちがせめぎ合う。だって、そんなつもりじゃなかったんだよ。

「それくらいね、君のことがとても好きだったよ」
「……こんなタイミングで、そんなに好きって言わないでくれる?」
 こんな状況だというのに、胸が痛くてちょっぴり嬉しくて、でもその倍苦しくなる。もうぐちゃぐちゃだ。
 ぽたぽたと、スカートに丸い染みが滲み広がる。
「折角だから言わせて貰うさ。もう二度とないだろうから」

 俯く。潤んだ視界に髪の毛先が見える。私の表情を隠してくれたらいい。唇が震えてしまって尖らせた唇を開くことが出来ない。
 傑も何も発さない。慣れた手つきで煙草を吸っている。高専で硝子から聞いていたけど、今まで一度だって吸っている姿を見せてもらったことはなかった。

 変わったんだね。これからも変わっていくんだろうね。

 随分短くなった煙草を携帯灰皿に入れようとしているのを気配で感じた。なんとなく、この時間の終わりを感じる。
 本当はいっぱいあった。会えたら伝えたいと思っていたこと。日常の合間に、傑の事を考えないで済むのならいいのにといつだって思っていた。
 だけどいざ会ってしまえば、その小さな言葉たちを箱に詰めて伝える術を見つけられない。きっとあるはずだ。悟ならきっと、出来たんだろうな。

「じゃあ、私も言いたい」
「ん?」

 じわ、と季節外れの汗が服の内側でわいた。
 たったの二文字の感情を伝えるだけなのに、急に体の中心におもりが落ちたみたいに重たくなっていく。お腹の辺りがぞわぞわする。傑ってすごいね、私そんなに簡単に言えそうにない。
 好きって伝えるのって、こんなに緊張するんだ。知らなかった。
 顔を上げる。西日が落ちて、公園の木々の合間にある街灯がぽつぽつと灯りだしている。首を捻って、髪をハーフアップさせている相手を見据えた。

「すぐるが」

 心臓が早鐘を打つ。
 私が言い切る前に、彼はあんなに動かなかった間合いを一気に詰めてきた。膝の上に傑の手が乗ってきた。顔が近づいてくる。
「すぐ」
 触れられる。すぐ離れて。
「え」
 また触れられる。吃驚して眼前の相貌を見つめる。名前を呼ぼうとして、
「す」
 塞がられる。言葉を紡がせないように。ちゅっ、なんて音が耳の中をこだまする。
「す」
 頬に手を添えられる。もう離れなかった。
 私も目を閉じていた。
 自分の唇の向こう側に傑の存在を感じる。それだけで精一杯になる。
 頬に添えられていた細い指が滑って後頭部を押すように私の顔を上げさせる。いつの間にか腰に回されていた手が強く私の身体を掴んだ。

 離れた彼の口元が、耳元に寄ってくる。おろしている傑の髪が、頬と首筋を撫でる。

「ナマエには言わせないよ」
「…………どうして」
「そうしたほうが、ナマエにとって一生忘れられない恋ってものになると思って」

 馬鹿じゃないの。傑なのに、まるで悟みたいなことを言う。
 私を変えたのは間違いなく傑だ。それだけでもう既に忘れられない恋だと言ってしまおうか。
 最後くらい未練なく好きだと言わせてくれたらいいのに。
 膝の上のベレー帽を掴んで、私の頭に丁寧に被せる。「そろそろかな」彼は何でもないただの挨拶みたいに立ち上がった。
 彼の手の中に、私がトートバッグに入れていたヘアブラシがいつのまにかおさまっている。

「ずっと持ち歩いていたの?」
 ナマエは本当に情の深い女だね、と何でもない風に言ってのける。麻の布袋におさめたそれが、去年の誕生日プレゼントだと気づいたそっちだって、私のこと本当とっても好きなんだね。といいかえしたくなった。
「貰っていくよ。これは気に入ってたんだ。持って行けなかったのを惜しむくらいに」
「……っそれ、」

 夕闇に溶けるように、後姿が消えていく。呆気なく逢瀬は終わってしまった。
 私はベンチから長いこと動けなかった。

 すっかり夜風が冷たくなってから寮に帰ると、七海が一人談話室にいた。
 挨拶をしに行くと、仲間でもあり友人でもあった人を失い彼の濁っていた瞳が、ほんの僅かに動揺したのを感じとれた。

「忠告じゃないですけど、今五条さんに会わない方がいいです」

 悟に何かあったのだろうか。
 よくわからなかった。けれど彼の言葉を私はしっかりと守って部屋に戻った。
 着ていた上着をベッドに放り出すように脱いだ。ベレー帽を取って机に置くと、椅子に腰掛けた。夕飯をまだ食べていない。早く食べに行こう、食欲なんてすっかり萎えてしまっているけど、それでも食べなくちゃ。
 立ち上がってコートをかけようと持ち上げて、ふとあの銘柄のにおいが服から香った。喫煙者でもないのに、すっかり染み付いてしまっていた。
 ああ、そっか。七海が言いたかったのはそういうこと。
 納得すると共に、香りの向こう側に自然と夕闇のあの姿が浮かび上がる。
 胸が締めつけられる。
 ——一生忘れられない恋ってものに、なると思って。
 酷い人だ。あんなに優しい言葉で言っておきながら、彼は私との恋を捨てていったのだ。
 そのくせに、爪痕を残していくなんて残酷なことこの上ない。
 ばかだな、ほんと。
 ——それ、

「大事に、使ってよね……」

 あとで気付いたらいいんだ。自分が一体何を持っていったか。そうして顔を顰めたらいい。

 

***