解夏とシオン 四

 

 

 非術師の立ち位置が揺れている。彼はそれを冗談にしたけれど、きっと嘘だ。彼は本気で悩んでいる。
 もしそうだとして、私に何かできることはあるのか。きっと何もできない。だけど傑のそばにいることならできる。
 研ぎ師の修行は生半可な覚悟で成り立たない。日夜を空けず刀と向きあわなくちゃいけない。
 傑の事に目を向けていられるほど簡単なことじゃないことはわかっていたけれど、それでも、できるだけ気に掛けようと決めた。「ばっかだなあ」そう言えば硝子にはとても呆れられたけれど。

 青空の中を鷹が悠々と飛んでいる。長い年月、土中にこもっていた蝉が這い上がり、外の世界に飛び出した。一斉に生命を泣き叫ぶ季節がついにやってきた。
 蒸し蒸し、じめじめした夏特有の暑さに、粘つくような汗。
 悟が術式対象の自動選択を行えるようになって、無下限呪術をほぼ出しっぱなしでできるようになった。傑の顔色はますます悪くなっていった。どこか一人で思案に耽っている様子を感じられる。
 私は修行の合間に傑に声をかけた。向こうだって呪術師の仕事があるからタイミングが合った時。ただ手を握られるだけのときもあれば、静かに腕の中に収められることもあった。なんでもないよ、大丈夫という上っ面の言葉をかけられて、気づいているのに勝手に安心してそれを深く追及することもできずにいて。

 その日は突然来た。
 後輩二人が、討伐任務を失敗して負傷した。一人は目を、もう一人は重傷だという。補助監督から急遽連絡が入り、負傷した二人とすれ違う形で悟が急ぎ任務先へ入った。うち一人は死亡が確定した。

「……灰原が?」

 私は硝子からその事実を聞いた時、耳を疑った。信じられない。まずその言葉が浮かぶ。心がぞわぞわと悍ましい喪失感に蝕まれそうになる。事実を確かめるため、安置場所へ向かおうと足を向けていた。夜蛾先生が私の肩を掴み、待ったをかけるまで。
 私の叔父が、その日灰原を追いかけるようにこの世を去った。
「現場で亡くなられた」
 一瞬で灰原の事が頭の隅っこに追いやられていく。

 叔父が。私の叔父が?
 両親のいない私の育ての親であり、研ぎ師としての道を標した人でもあり、唯一の保護者がこの世を去った。

 夜蛾先生の手には叔父から私にあてられた遺書があった。遺体が半分しかないと、先生は包んで伝えてくれた。
「そうですか、わかりました」
 不思議と落ち着いた声が出た。冷静に対処できたと思う。いや、できていないのかもしれない。すぐ頷いて、それから急いで自室へ戻った。わからない。とにかく頭の中が叔父の死で一杯だった。
 落ち着け、と自身を鎮めるため浅くなっていた呼吸を意識して深くする。肺が上手く膨らまない。二三度繰り返せば少し肺に空気が届いた。
 ポケットから携帯を取り出す。連絡帳なんて、高専の関係者と叔父と従弟の連絡先しか入っていない。
 そうだ、彼に——叔父の子どもで、私の唯一の肉親になった従弟に、連絡を取らなくちゃ。

 一般人の彼に伝えるのは、ひどく気を遣う。一歩間違えれば多大な負の感情を溢れさせかねない。そうすれば呪霊が発生しやすい時期なのに益々増やすことになりかねないから。それはつまり、仲間の負担を増やすことだから。
 液晶画面を見つめる視線が重くなる、ボタンを押す指にうまく力が入らない。それでも、コール音が鳴ったという事は、相手に繋がっているという事だ。

「——もしもし、うん、久しぶり、夏休みだけど元気にしてた?」

 他愛ない会話を出して、それから相手を窺うように、そうっとそうっと。
 結果的に言うと、従弟は激しく取り乱した。
 それはそうだ。だって自分の親のことで冷静にいられる訳がない。

「寮にいるんだよね? 今から私がそっちに行くから」

 遺言のことも、遺物の処理の必要もある、彼に会いに行く必要ががる。
 電話を切って、軽く荷物をまとめた。制服を着たまま寮を出ると、夜蛾先生に頼んで補助監督に送迎をお願いできることとなった。高専の駐車場へ向かおうとしていると、

「ナマエ」

 私の前に傑が立った。行き先を見て、彼が安置所へ向かおうとしていることに気付いていた。

「傑」

 互いが、どこへ向かうのか、何となく気づいていた。
 傑はきっと、私の叔父の死を知っている。そんな気がしたのだ。

 校舎の外はいくら森の中だといっても暑い。蚊が群がってこようとしている。地面から迫りくる暑さと、頭上から照らしてくる灼熱のような光に判断力が鈍らされる。

 ほんの僅かの間だったはずなのに、私の額には汗がじわっと浮かんだ。
 今、傑の傍を離れてはいけない、そう直感した。
 手のひらに汗が滲む。

「行っておいで。気を付けて」

 傑がそう言い、安置室へ歩いていく。
 行ってはいけない。そう心の中の私が私に牽制している。車に乗らずに、傑の元へ行けと叫んでいる。

 傑は大丈夫だ、きっと。
 私は自分の訳の分からない警鐘に首を振る。気にしない。大丈夫だと言い聞かせて、高専の用意してくれた黒い車に乗り込む。
 高専に入るまで、兄弟のように育ってきた従弟の元へ行かなくては。彼が孤独に打ちひしがれていないか、それを確かめなくては。そしてもしも失意の中にいるなら、私は彼にかかりっきりにならなきゃいけない。

「夏油が集落の人間を皆殺しにして行方をくらませた」

 

 

 


[2021.03.26]