解夏とシオン 三

三、

 

 

 桃が咲き、高専内の所々に植わっていた桜の花びらが満開を迎え、私たちはあっという間に三年に上がっていた。
 新緑の芽吹く季節は、暗い色ばかりだった冬の季節と違い、色とりどりのもので溢れかえっている。陰鬱さや不安定な精神になる人もいるが、陽気な気分になる人もいるのは事実だ。

「お前何でニヤついてんの」

 悟に問われて私はびっくりして目を点にした。ニヤついている? 私が。

「へー、悟わかんの?」

 隣りの席で頬杖ついて座っていた硝子が尋ねれば、彼は眉間を寄せてちょろいだろ、と短く答える。
 補助監督の座学の授業が始まる手前。午前の最後の授業を四人揃うことも珍しかったけれど、それよりも私は悟の言葉に酷く驚いていた。私は隣りの硝子の方を向く。
「硝子、わかる?」
「別にいつも通りに見えるよ」
 硝子は肩を上下に揺らす。
 表情が出るようになっている。
 冬の頃、傑に指摘されて自覚はしていた。けれど、あの時は彼の前だけだった、そう傑自身が言っていた。いつの間にか、私は二人の前でも感情を露わにしていたらしい。
「で?」
 六つの目の視線を集めて、私は一瞬たじろぐ。一体何に浮かれているんだと追及するような視線だ。これは答えなきゃ始まらないと思い、理由を素直に打ち明けた。

「傑が髪留め、使ってくれてたから」
「うっわ目敏いな、お前の目どうなってんの」
 悟がサングラスを少しずらしてこちらを見た。そっちが聞いて来たくせに相変わらず挑発してくれる。
「悟の目よりは悪いかもね。見てみる?」
 今日は私も機嫌がいいので、あのビイドロみたいな瞳を覗き込むようにこちらも悟を見返す。
 悟がこちらに近づいてきて「あーほんと悪いな」なんて言ってくる。何が悪いっていうんだ。悟の挑発に乗らないよう、なるだけ表情を変えないように目を伏せて視線をそらした。するとコツンと額を小突かれた。咄嗟に眉間を寄せて悟を見返す。

「逸らすなよ、まだ見えてない」
「えー、もういい?」
「まだ」
「ナマエって傑の美容師? 去年はブラシあげてなかった?」

 硝子に指摘されて、はた、と悟とのやり取りを止める。
 そういえば去年は猪の毛のヘアブラシを贈った。傑は髪が長いけど男の人だから手入れなんてあまりしないだろうって、だからあげるならヘアブラシがいいと思ったのだ。休日百貨店に赴いてわざわざラッピングしてもらった。アレは普通に髪を梳くだけで艶がでるよと美容師がお勧めしていた。
 けれどまさか去年に引き続き髪関係のものを贈っていたとは。
 何も考えていなかったけれど、無意識に私は傑の髪の毛の事を考えていたんだろうか。

「あげた。傑、今度ブラッシングしてあげるね」
「ありがとう、楽しみにしてるよ」
「傑はナマエの犬か」

 傑が目を細めて笑う。
 悟に言葉を返すよりも先に補助監督が教室の戸を開いた。呪術師には似つかわしくない学生らしい間延びするような授業が始まる。
 教科書を開きながら、私は傑の先ほどの表情を思い出していた。
 彼の表情にどこはかとなく翳りがあることが増えていた。さっきも。何かを考えているような、迷っているような。そんな顔をみたら、心配に思うし気になる。
 ただ私は、四人でいる時にそのことを尋ねられるほど無神経さを持ち合わせていなくて。
 かといって二人きりのあの教室の時間は、もう作ることが出来なくなっていた。

 傑の中で何か変化が起きていることには気づいていた。
 例えば、メールのやりとり。返信の際に件名についている「Re:」を必ず消していた彼が、それをしなくなった事。元々少なかった絵文字がぱったり消えて丁寧な文章に句読点が増えていったこと。その日中に返信が返ってこないことが増えていったこと。
 そんな些細なことを傑に尋ねて、細かい、なんて言われたらと思うと聞けなかった。だから私は返信できないほど疲れているんだと、思うことにした。
 春先は非術師の負の感情が爆発する。連日連夜呪霊の報告を窓から受けていると補助監督が溢していた。
 そういえば近頃、悟が一人で任務に赴くことが増えた。自然と傑も一人で任務に就くようになっているはずだから、もしかしたら傑の表情の翳りにはそれが関係あるのかもしれない。
 全部、全部、かもしれない——推測ばかりで、私は傑に問いかける機会がないまま日が過ぎていった。

 梅雨明けを間近に控えた7月中旬。最後の悪足掻きとでもいうように、土砂降りの雨が朝から降った。湿気た空気がとても億劫で気鬱だけど、きっとこの雨がやめば、気象予報士が梅雨明け宣言を告げるかもしれない。そんな希望を持ちたくなるような天気だ。
 私は久しぶりの休日に寮内の談話室で文庫本片手に読書を楽しんでいた。
 この時間がとても貴重なのを知ってる。季節柄、呪術師の出向が多いという事は武器の使用も多いという事。武器の使用が増えれば、研ぎとして私の仕事もまた増えていく。
 今年入って来た眼鏡男子の後輩が近くで同じように読書していた。話しかけると少し恥ずかしそうに真面目な挨拶を返してくる。七海とは別の静かな性格の子で、同級生の男子たちと違って常識的に見える。挨拶もかけ終えたので、互いに邪魔しないよう距離を取った席で読書を再開することにした。
 暫くして灰原と七海がやって来た。灰原の手にはカードゲームがあり、先ほどの後輩を遊びに誘っている。面倒見がいいな、と暫く三人が楽しんでいるのを横目に本を読む。
 はしゃぐ声にとうとう耐えきれなくなって、私も本をとじて混じりたいと懇願した。彼らは快く受け入れてくれた。悟がいない日は男子たちも平和だなぁとカードを手にしみじみ思っていると、談話室の前を傑が通りかかった。

「あ! 夏油さん!」

 灰原の声に傑が顔をこちらに向けた。一緒にやりませんかと灰原が嬉々と誘う。傑は一度思案したけれど、首を振った。そのまま談話室の向こう側に歩いていくのをみて、私もカードを置いて席を立つ。
 後を追えば、すぐに傑は見つかった。長い廊下で振り向いて、私がやってくるのを立ち止まり待ってくれていたからだ。私が来ることはお見通しだったんだ。早足で彼の元へ向かう。

「悟は?」
「任務だよ」

 悟なら、術式で雨が当たらないから天気に左右されることは滅多にない。同じように任務に就いてる呪術師よりはいいかもしれないけど、いつでも大丈夫だとそれこそ自然とスケジュールがぎゅうぎゅうに詰め込まれてしまうだろう。休む間がないのは同じ術師として申し訳ないなと思う。
 廊下に嵌めこまれた窓の外を見る。土砂降りの雨は、昼間と思わせないほど外を灰色に埋めている。窓から光が差し込まないから、木材で作られたこの古きゆかしき廊下もどこかほの昏い。

「久しぶりに見た、ナマエが本を読んでいるところ」
 傑が私の片手に納められているものをみとめた。薄い文庫本を持ち上げる。
「うん、傑が見てないだけじゃなくて本当に久しぶり」
「何か面白い本を見つけたのかい?」
「ううん、違うの。前に読んだことある本なんだけど、また読み返してるの」
「どんな本?」
「私たちみたいな人たちのお話」
 そういえば、傑は少し興味を持ってくれたようだった。
「ふうん」
「お話の人たちは特殊な能力を持った一族。ね、私たちに少し似てるでしょ。短編集で、少しずつ話が繋がっているの」

 東北にひっそりと暮らすある一族。そこには特殊能力を持った人々がいる。とにかく記憶力がズバ抜けていい家族、足が早いおじいさんに、目がよくて遠くの出来事も見えてしまうおばあちゃん。
 能力を持っているのに力で人を圧するわけでもなく、普通の人々に混じってしずかに暮らしている。呪力が見える私たちのように特殊で、だけど別に世間一般の人々を救う訳でも逆に恐怖に貶めている訳じゃない。本当にただただ、見つからないようにひっそりと生きている日常とその不思議な力をその小説は描いている。
 そのなかで戦時中に実験体として一族が政府に狙われる短編がある。
 読むたびに気が重たくなるからやめようと思うのに、最後までページを捲らずには終われない。子どもたちのお祈り。一人ひとりの身に起きた悲しい過去。追い詰められていく一族。ツル先生の悲痛な心の叫び声を、陰鬱な結果が分かり切っているのに、読み切らずにこの本をとじてはいけないと義務のようなものを駆り立てられる。
 この本を読むたび、問答する。私たち呪術師も戦時中はどんな扱いを受けてきたんだろう。ほんの百年も満たない昔のことなのに、私は知らない。最終兵器彼女みたいな、人権を失った世界だったんだろうか。
 そんな人々の残忍で陰惨とした黒い部分に触れていながら、この作品は不思議なほど静かに、穏やかに締めくくられている。「常に在野の存在であれ」そんな思いの人々のお話。

「読んでみる? 薄いからすぐに読み切れるよ」
 薄い本を傑に差し出す。彼は本を見下ろして、逡巡したあと小さく首を振った。
 私は立ち止まる。そうして傑の服の裾を引いた。
「傑、どうしたの」
 そう問いかけずにはいられなかった。
 だって、今までの傑なら受け取っていた。絶対に。
 私の指から本を受け取って、途中の文面にパラパラと目を通す。それから、私の説明が合っているのか伝えてくれる。
 胸の辺りがざわざわと騒ぎ出す。心の隅に置いていた不安を掻き立てられる。
 人の変化など仕方がないことだと知っている。なのに傑には変わってほしくない。彼が変わろうとする事がどうしても恐ろしく思う。それがどうしてなのか明確な理由はつけられないけれど。
 傑は一度私の手元に視線を落とした。
「ナマエが嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、読む気になれない」
 非術師が書いたと思うと。
 雨の音に掻き消えそうなくらい些細な声で呟かれて、咄嗟に返す言葉が見つからない。

「今ね、彼らの立ち位置が私の中で揺れているんだ」

 どくりと、大きく心臓が嫌な音を立てた。
 非術師が書いたと思うと——今までの傑だったら口にしなかったような台詞。「弱者の言い分を聞いてあげるのが強者としての務めだよ、悟」なんて諭していた。真っ直ぐに倫理をとくように、呪術師のあるべき道を示し信念を持っていた人が、こんなことを言う。
 悟が軽々しく言っているんじゃない。傑が、あの傑が葛藤している。
 それを、私に、溢してくれている。
 それがどれほど重大なことかわかるから、私はすぐに傑を見返すことが出来ず俯いたまま動けない。

「ナマエ、どうしようか」

 笑ってさっきの言葉を誤魔化そうとしているのだと気づいた。きっと私が間抜けにも困惑した表情を傑に見せてしまっているから。傑に許してしまう自分の感情に今だけは苛立たしく思わずにはいられない。
 彼の葛藤にどう答えよう。知らぬふりなんてできない。
 でも私は未熟で、なんと返すのが正解なのか、情けないけどうまい言葉が咄嗟に浮かばない。
 どう揺れているの、なんて聞くのはもっと野暮だ。だから、

「揺れる時だってあるんじゃないかな、にんげんだもの」
「……みつを?」
「茶化さないで」

 差し出した本を引いた方がいいとわかっているけど、私はそれを傑の掌に無理やり収めた。

「これは、いつか。いつか読む気になったら読んでみて。ずっと貸してあげるから」

 傑の中の非術師に対しての葛藤がなくなる日が来たとき。
 その時、もしかしたら傑がこの本を開く気になるかもしれない。このお話は私たち呪術師と少し違うけど似ている部分があるから。だから傑の心休め程度になるかもしれない。
 傑の手の上から本を掴むように促す。彼が持ったのを確認して、私は手を離した。

「強引」
「自分で言うのもなんだけど、私にしては珍しいでしょ」
 うん、と頷いて傑は微かに笑った気配を見せる。
 少し普段の傑に戻った気がした。私は再び部屋に戻ろうとしている傑の隣りに並ぶ。傑がふいに下を見下ろした。
「この服は気に入ってるんだ」
 そう言って傑の服の裾を掴んでいた指を掴まれる。傷だらけの指を、傑の大きくて無骨な手が優しく撫でていく。

「ナマエは」
「うん」
「呪術師としているのが辛くないかい?」

 傑が暗い声を隠さずに尋ねてくる。私は静かに頷いた。

「私は非術師のためじゃない。呪術師の為にいるから、辛いなんて思わないよ」
 呪具の研ぎ師をしているのは、紛れもなく呪術師の役に立ちたいからだ。
「……そうか」
「だから、傑」
 撫でられていた指を離し、私は傑の手をそっと握りしめる。

「私は、呪術師の為にいるから、いつだっているから」

 雨の音が聞こえる。
 私と傑しかいない空間を土砂降りの雨が包み込んでいる。
 この間、高専の森で蛍が飛んでいるのを見た。近くで観たくて両手でそっと包み込み中を覗き込んだ。源氏蛍の黄色い明滅はとても幻想的で儚くて美しかった。だけどこの雨のせいで、きっともう、蛍の淡い光は見れない。傑の掌は、あの蛍を捕まえるような感触にどこか似ている。
 頼ってなんて、傑には恐れ多くて言えない。私にできることは、悔しいけどただ自分の存在を伝えることくらい。でも伝われと、ひたすら願う。

 傑の手が、私の手のひらからすり抜けていく。

 ああ、頼ってもらえなかった。やっぱり私じゃ役には立てないんだな。
 落胆する心を包むように、傑の手が私の横を通り越して背中に回される。肩甲骨を押されて、体が一歩前に進んだ。
 頬に、気に入っていると傑が言った服が触れる。それはとても肌触りがよくてやわらかいのに、その薄い布一枚向こうの傑の筋肉質な胸がかたくて、どこか彼の汗と吸いたての煙草の混じったにおいがした。
 手ぶらの私の両手はお気に入りだという傑の服を掴むことを憚られて、宙を掴んだまま。そうしたら、もう一度自分を包み込む腕が強く締め付けてきた。

「大丈夫。ナマエがいてくれたらいいよ」

 なんでこんなにも胸が苦しいの。傑の声を聞いていたら、呼吸することすら申し訳なくなってくる。
 私は自分の存在を傑に伝えたくて、服を掴む代わりに背中に腕を回すことしかできなかった。

 

 


[2021.03.20]