解夏とシオン 二

二、

 

 

 そうして彼らが静岡へ赴き、帳を忘れて夜蛾先生にこっぴどく叱らてその後、傑と悟が天元様直々の希望で星漿体の任務に就いた時、私はひたすら呪具の研ぎ修行に集中していた。
 刀の研ぎというものはそれ自体が難しく、全国でも研ぎ師は数百人しかいない。さらに呪具の研ぎとなると極めて難しくなる。感情の振れ幅で刀を研ぐ際に呪力が左右されてしまうと、呪具へのむらも激しくなってしまう。均等に呪力を与えるには集中力と体力、それを上回る精神力が必要だ。
 夏の盛りの蒸し暑さは環境としては劣悪だったけれど、それがかえって私自身の成長のスピードを上げてくれた。

「どう? 大分いい感じだと思うんだけど」
「おー。まあ、いいんじゃない」

 薙刀の形状を模した呪具を持ち上げる。柄の部分は普通だけど、刃先の部分は呪力が纏ってある。この呪力は切断の強化であって、特に他の術式が加味されていないシンプルな呪具。大分均等に呪力を練り上げることが出来たと思う。
 硝子は刃先まで呪具を見切ると、こちらに向いた。そうして薙刀を持つ私の手を掴んだ。

「うっわ、ズタズタじゃん」
「刀触るんだもの、こんな小さい傷数えてたらキリがない」

 とはいえ、私だって女の子だ。綺麗な指には憧れがある。
 この間、服を買いに出かけると、同じくらいの子がネイルや化粧をしていた。ヘアアレンジをしたり、流行りの服を着たり、キラキラ眩しくて羨ましいと思う気持ちがそれなりに湧いた。だけど、その羨ましいと思う彼女たちの向こう側に、なりたいと思う自分の姿はない。雑誌を見てファッションを気にしたり、爪の手入れに気を配ったり、メイクの一つ一つに流行りを取り入れたり。そんな目先だけのことをしている自分ではなくて、どちらかというと流行り廃り関係なく自分が好きだと感じたものを身に着けたり、自分に似合うものだけを飾ったりしたいなと思う。

「意地っ張りはよくないよ」

 傑がほのかに笑っている。
 今日は耳が痛くなるほどキンと空気が冷えていて、教室も外と変わらないくらい寒かった。空は灰色の雲が敷き詰められていて、いつ雪が降ってもおかしくない様子だ。冬至がきてからは日が傾くのが早くなった。まだ昼を過ぎたばかりだというのに、既に室内は電気をつけないといけないくらい暗い。

「……そうかなぁ」
「彼女たちだってその先にきっと自分の個性を見出しているのかもしれないよ」
「傑のそういう考え方は嫌いじゃないけど、何だか嫌な気持ち」
「はは、悟みたいだよ」
「アレと一緒にされるの嫌なんだけど」

 今日は傑が本を読んで、私は手持ち無沙汰に椅子に腰掛けている。湿気を吸った木の椅子は膨張していつも以上に些細な体重加減でミシミシと音を鳴らす。太ったのかな、て気になるから鳴らないでほしい。
 私は拗ねた子どものように唇を尖らせて、椅子の上で体育座りをしていた膝に顎を乗せる。意地を張っていると言うことは、私も実はああなりたいと思っているという事だ。なりたいのだろうか。
 いいや、やっぱりどう考えてみても、そんなつもりない。と思っているんだけどなぁ。
 傑がこちらに一瞥をくれて、またすぐ本へと向き直る。その表情に少し柔らかいものを感じて不思議になる。

「どうしたの?」
「大分顔に出るようになったと思って」
 喜んでいる様子に、眉間を寄せる。
「呪術師としては悪い変化だよ」
 呪霊や呪詛師と対峙した時、表情が読まれるというのは弱点にもなりかねない。感情のコントロールは必須だ。
「いいんだ」

 それでも肯定されれば、訳を聞きたくなる。何か呪術師として、研ぎ師としての成長の過程で必要なのかな。読書の邪魔になるとわかっていて私はどうして、と尋ねた。

「私の前だけだから、良いんだ」

 傑は本から顔を上げる事なくさらりと言ってのけた。言葉を理解するまでに数回瞬きする。
 え、そうなの。私、傑の前でだけ? 自分の無意識を指摘されて、思わず思考の海にダイブする。傑と二人でいる時、硝子や悟といる時、夜蛾先生が一緒の時と別段変わらずにいるつもりだった。何も態度を変えているつもりはない。だけど気付かないうちに変えていたらしい。

「ナマエを独り占めさせて貰えて嬉しいよ」

 彼は人たらしの癖があると思う。周りの人はきっと傑の所作や言動に惹かれるのだ、たぶん。
 胸の辺りがむず痒くて、膝の上で俯く。ミシ、と木の椅子が音を立てて、何故か恥ずかしい気持ちになる。
 ガタ、と床を叩く音が離れたところでして、その後腰かけている椅子に何かがぶつかり揺れた。すぐ近くに気配を感じるのと同時に右側に何かが寄りかかってくる。凭れてくるというよりは触れるような力加減で、それは徐々に制服越しに暖かさと重みを感じられて。

「今日は一段と冷えるね。雪でも降るんじゃないかな」
 隙間もないほどすぐ傍から傑の声が聞こえる。
「……ほんとうだね」

 平静を装って返すつもりが、小さく、くぐもった声になってしまった。
 私はますます顔を上げられなくなる。恥ずかしい気持ちが大きく膨らんでいく。速まる心臓の音と、すぐそばで紙の擦れる音が聞こえれば、まるで自分が自分でないような感覚になる。傑の体と触れている右側に妙に意識がいくのはどうしてだろう。さっきまでは落ち着いていたのに、体に力が入っていくのはどうしてだろう。
 体育座りを抱えている右手が何か大きなもので覆われる。すぐに傑の手だと気づいた。重ねるように乗った手は器用に私の指の間に入り込んで、上から絡めるように繋がれ持ち上げられた。そっと互いのぶつかっている体を邪魔しないように、ゆっくりと動いて。それは傑の膝の上で落ち着いた。

「これならあったかいね」

 揶揄うような口調に耳が熱くなる、指先が熱くなって仕方がない。うん、と返す声すらでなくて、私はただずっと赤くなった顔を隠すように俯いた。

 それからどれくらい私が俯いていたかわからない。早鐘を打つ心臓は変わらないけれど、少しずつ傑が近くにいることが心地よさに変わって。無駄に入っていた力が抜けてきたときには、ちらりと見た窓の向こうは暗くなっていた。傑の体が触れている部分があたたかくて、それ以外の足も首も冷えている。だけど体全体が酷くあつくて寒いと思わなかった。
 傑の言う通り、いつの間にかしんしんと雪が降っていた。

「お前ここに居たのかよ」
「悟、どうした」

 傑の声に頭を上げる。
 教室の入り口は音もなく開いていた。悟が遠慮なしにズカズカ入ってくる。傑に用事だと思っていると、彼は私の方を見下ろしていた。

「うたた寝こいてる暇なんかねぇから、行くぞ」
「え、なに急に」

 悟に呼び出される理由がわからず動かないでいると、左腕を強く掴まれた。椅子に上げていた足が地面について、たたらを踏む。右側にあった傑の体温が一瞬で消えた。

「悟」

 傑がもう一度、名前を呼ぶ。すると二人は目配せして私にはわからない何かを知らせ合った。
 私の足は引っ張られるまま教室の外へ向かっている。廊下に出る直前、傑の方を振り向く。彼は静かに笑みを浮かべた顔で私を見送った。私はあの教室から抜けることがひどく心残りだった。
 
「ナマエ、これから覚悟しろよ」
「休憩してたのに、一体どういう事?」
「休憩なんかすんなっつーの。お前強くなりたくねぇの」
「なりたいよ、当たり前じゃない」

 三人の間にいて、現状に満足できるわけがない。四人の中で一番出来が悪いのは自分だ。
 立つ土台が違うのだから、比べる必要がないのはわかっているけど、劣等感が全くないということはない。やっぱりそれなりに気にするものだ。
 私の返答に満足したのか、前を向いたまま悟は溢すように笑った。

「お前に許可を与えた。これからは高専内の代物だけじゃなくなる」
「……何の話?」
「五条家の呪具の研ぎを許可してやったってこと」

 御三家の一つである五条家の?
 思わず引き留めようと掴まれていた腕を引く。悟は渋々そうにこちらを振り向いた。早く先へ進みたいのか、濃度の濃いサングラスの向こう側から強い視線を感じる。

「それって」
「何」
「大丈夫だったの」

 御三家といえば、古くからの歴史を重んじる事で有名だ。それだけの歴史があり、それを誇りと矜持に持っている。呪具の研ぎ師は代々男にしか扱わせない等の男尊女卑は今に始まった事じゃない。五条家ではないけれど、他の家系だと呪術師とは呪力を継承した男性であって、それ以外は人間でもないといっているところもあるくらいだ。
 そんな御三家の代物を、呪術師家系でもなくしかも女の私に扱う許可を下ろすなんて。

「家の奴らが俺の言うことに逆らえると思ってんの?」
「ううん、全然」
「そゆこと」

 再び歩き出した長い足に遅れを取らないよう、早足で付いて行く。
 五条家の呪具を武器ではなく、研ぎ師として扱わせて貰える。その立場を与えて貰えたことに武者震いしている私がいた。恐らく、女性の研ぎ師としては私が初めてだ。わからない、もしかしたら古い文献を漁れば見つかるのかもしれない。
 大丈夫かな。悟の面子を考えたら、失敗も辞めておきますと辞退することももう許されない。

「いけるっしょ」

 私の心情に気付いたのか悟が軽々しく口にする。

「お前、飲み込み早ぇから。とりあえず死ぬ気でやれよ」

 悟の励ましなのか脅しなのかわからない言葉の通り、再び私は死ぬ気で研ぎの修行にこもり切った。
 冬から春、夏にかけて、呪霊の発生も多発しやすい。だから悟と傑が任務に出ることも多くて、座学で四人が揃う時は一気に減った。
 たまに全員いると、やっぱり馬鹿みたいにふざける悟と、それに自然煽る言葉をかける傑と、座学を指導してくれている補助監督の戸惑う様子を傍観している硝子とそんな彼らを見ている私が居て。その時間はとても楽しかった。
 だけど。
 放課後、あの教室で傑と二人読書をしたり、他愛のない会話をする時間がぷっつりと切れてしまった。それが寂しかった。
 授業や呪霊討伐以外の合間はずっと研ぎ修行にかかりっきりだった。元々一月も二月も早く過ぎていくと言われているのに、風のような速さでいつのまにか三月になっていた。

「ふぁ」

 大きな欠伸を一つ溢す。真夜中に始まった春雷の轟きが朝方まで続いて、結局眠られなかった。作務衣のまま休憩所に腰かける。自動販売機の設置されたベンチに腰かけていると、窓の庇から洩れた陽が背中にあたってぽかぽかして心地よくなる。寝不足気味の頭と日々の修行の疲れもあって一気に眠気に襲われた。
 いけない、と思いつつも、もう一度欠伸がでたのでついでに伸びもした。

「昨日眠れなかった?」
「あ、傑だぁ」

 開いた引き戸の向こう側から傑が入ってきた。戸口で頭がぶつからないように屈むことをしっかり忘れない。自動販売機でジュースを一本買うと、傑は隣りにやってきた。

「隣り、失礼するよ」

 相変わらず一言声を掛けてくれる。私も促すように右側の体を動かした。ほんの少しスペースを空けて腰を下ろす。

「ここに座ると眠たくなっちゃった」
「昨夜すごい雷鳴だったからね」
「カーテンしててもピカッピカッて光るしドゴーンって落ちたし、傑は五月蝿くなかった?」
「まあね、眠れなかった」

 プルタブの蓋を開く音が聞こえる。隣りを向くと傑がアルミ缶を口につけていた。私もベンチに置いていた缶を口に運ぶ。舌に甘い炭酸の味が広がる。口の中の刺激物で目が覚めたらいいのに、どうしてか眠気が吹っ切れない。

「あー、どうしよう、この後集中しないといけないのに。これじゃあうとうとして絶対怒られる」
 壁を背凭れにして仰け反る。傑が隣りで笑った。
「おいで、ナマエには特別貸してあげる」

 そう言って傑が制服のボタンを外していく。シャツ一枚になった彼が私に上着をかけて、それから肩を寄せられた。上着から傑の温もりが、作務衣越しにぶつかっている傑のズボンの中の膝を感じる。ゴツゴツしているな、触れてるんだな、なんて思うと、とくとく胸が高鳴る。

「これじゃ本当に寝ちゃいそう」
 恥ずかしさを誤魔化すようにこぼす。
「少しくらい休んでいけばいい。私もその間休憩できるし」
「……私、利用されてるなあ」
「はは」

 利用させてくれないのと小さな声で請われたら、私はなにも言えなくなる。背中に感じる日差しと、隣りの傑の温もりに身を任せて微睡む。

 外から鶯の春を告げる声が響く。頭を預ける傑の方が心地よくて、久しぶりに二人きりになれたこともあって、
「傑、おねがいだから、あれはもうやめてね」
 独り言が口からこぼれる。空気に紛れるくらい小さな声で傑が何を、と問いかけてくる。

「あの時、硝子の前に血だらけの傑がきたとき、わたし、ほんとうに、こわかったんだよ」

 去年の夏、星漿体の事件。

 あの時私は硝子に自分で研いだ薙刀を見せていた。突然高専内のアラートが鳴り響いて、敵襲だと武器を抱えたまま駆けだしたのだ。非常事態と感じた私と硝子は警戒しながら夜蛾先生の元へ向かった。そうしてしばらくした後、天元様の元へ向かっていて襲撃者に襲われたという傑が運ばれてきたのだ。
 傑の制服は大量の血を吸ってとても重く、こびり付いた鉄さびの臭いに吐き気が込み上げてきた。
 あの時、傑の手に触れるととても冷たかった。すぐに硝子の反転術式で意識が回復するくらいだったけれど。

「傑が、いなくなったらって。わたし、部屋で泣いたんだよ、おこってさ、どうしようって、ずっといわなかったけど……」

 眠たさのあまり、支離滅裂な言葉を並べている気がする。
 春の陽だまりのせいだ。冬の間に閉じていた心の奥の塊が、傑の温もりに溶かされてしまった。私は誰にでも感情を出しているつもりはない。前に言われた通り、傑には感情を溢している、溢してしまっているみたい。
 髪を優しく掬われた。気持ちいい。前髪が揺れて、額に何か柔らかいものが触れた気がした。傑がそうか、と言ったのかごめんと謝罪の言葉を溢したのか、分からない。

 

 


[2021.03.17]