coming home

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 あ、と声を漏らすと、その音を拾った友人がこちらを向いた。
「なに?」
「ほら、あそこ。尾浜くんといつもの二人がいる」
「ほんとだ」
 私が指さす方を見た友人が相槌を打つ。同じゼミの尾浜くんは明るくて表情も柔らかくて人見知り気味な私でも話しやすい。そんな彼はいつもゼミの私たちではなく他の学部の人と昼食を取る。
「あの人たちどこの学部の人なんだろうね」
「さぁ?」
「俺知ってるけど」
 同じテーブルを囲んで食べていた一人が声を挙げた。
「じゃあ左の髪の黒い目が大きい人は何て言うの?」
「それ久々知だよ。で、隣りが多分不破だと思う」
「えーなに、自信ないの?」
「じゃなくて、不破とそっくりな奴がいんだよなぁ。でもそいつ工学部だしキャンパス離れてるから多分不破で合ってるよ」
 ふうん、と感心しながら彼らを見る。本当に親しいんだろうな、遠目からでもそう取れる。余所見をしてフォークにナポリタンを絡めていたから、気づけば一口では食べきれないくらい巻き付けてしまっていた。
 向かいに座っていた友人が詳しいね、と言う。巻きつけ過ぎたナポリタンを戻していると、彼が尾浜くんと同じ高校だったのだと明かした。なるほど、彼らは高校からの付き合いなのか。
「へー、じゃあその鉢屋って人も含めて四人で仲良かったんだ」
「今は四人だけど、高校の時はもう一人居たんだよ」
「ふうん。あとの一人は?」
「地方の大学行ったよ」
「どこ?」
 県名を聞いた私は、危うくナポリタンを詰まらせるところだった。ここだって別に大都会ってわけじゃないけど、そんな田舎に行く必要あるの?! ドンドンと掌で胸元を叩く。ゆっくりとナポリタンの塊が食道に落ちていくのがわかった。
 水を飲み、呼吸を整えてもう一度窓の方を見る。すでに尾浜くんと二人の姿は見えなくなっていた。

 

 

* *

 

 

 大学から少し離れた各駅停車しか止まらないこの駅が彼ら四人の最寄りである。駅を降りると、まずスーパーとコンビニがある。そして正面には、つい寄り道したくなる商店街がどんと構えている。中を歩けば丸い街灯の下、どこか懐かしい趣の店がずらりと家路まで並んでいて魅惑的だ。
 その中の一つに、入り口に五つの赤提灯をぶら下げている店がある。店前に瓶ビールを入れる籠を重ね、引き戸の前の青い暖簾に「大衆酒場」と白で抜いている。木枠に嵌めこまれたガラスからは向こう側の暖かそうな光が漏れていて、ついつい取っ手に手をかけたくなる。
 駅から降りた青年が駆け足で商店街を走っていく。忘れ物をして一本電車に乗り遅れてからここまで、乗り換えを繰り返すうちに当初の到着時刻を大幅に遅れてしまった。吐く息は白く、パーカーと背負っている荷物が上下に揺れ、大きな音を立てている。走り続けた体は熱い。しかし気にする暇もなく、彼はこの居酒屋へ一直線に駆け込んだ。
 ガラッと引き戸を勢いよく引いて飛び込んできた竹谷八左ヱ門に、一瞬驚いた顔をした店の人々はすぐに和やかな表情へと変えた。
「いらっしゃい。はっちゃんじゃない。アンタ久しぶりだねぇ」
「カミさん久しぶりっす!」
 カウンターに座る客に食事を差し出していた女将がこちらへ笑顔を向ける。その奥でせっせと調理に勤しんでいる大将が歯を見せて笑った。
「はち坊、勉強頑張ってるか」
 その問いに八左ヱ門は笑って頷いた。そうして半年ぶりに見る店内を見渡した。入って正面にあるL字のカウンターは長く使い込まれた色を醸し出していて、妙に懐かしい気持ちになる。カウンター上の壁にはこれまた年季の入った短冊が並んでいて、八左ヱ門がずっと見慣れたメニューが勢いのある毛筆で書かれている。冷奴にマカロニサラダ、フライドポテトにいかげそ焼き、もつ煮込みと書かれた横には生ビールの小中大とある。どれも小さいころから見てきたものだ。
「おお、お前、竹谷さんとこの倅じゃないか」
 カウンターで酒に鼻を赤くしている年配の男性が八左ヱ門に声を掛ける。八左ヱ門は彼にどうもと会釈すると女将に視線を戻した。視線に気付いた彼女が笑う。
「もう皆来てるよ、いつものでいいかい?」
「はい。お願いします」
 八左ヱ門はカウンターと横のテーブル席の隙間を抜けると奥の座敷へ向かった。
 座敷には大小テーブルが6つ並んでいる。そのうち小はすべて埋まり、大は一番奥だけが埋まっていた。そこに、靴を脱いだ八左ヱ門が向かう。
「おーい」
 大股に四人が集まるテーブルへ向かう。
「遅いぞはち」
 こちらをちらりと一瞥した三郎が上半身を捻って片手を上げた。応えるように手を上げて、八左ヱ門は一つ席を開けた勘右衛門の隣りに体を滑り込ませた。掘り炬燵になっているそこに足を突っ込めば、誰か分からない足にぶつかる。
「いてっ」
「雷蔵のか、悪い」
 向かいの席でからあげに箸を伸ばしていた雷蔵に謝れば、赤くなった顔でいいよと返される。安堵も束の間、すごい勢いで八左ヱ門の足を払う何かが当たる。
「あてっ」
「雷蔵の足がケガでもしたらどうするんだ」
 やっかみを入れてくる三郎に仕返しとばかりに足を横に払えば、今度は勘右衛門の足にぶつかった。いたいなハチ、と膨れながらテーブルの上の皿に箸を伸ばす。手早い早さで次々と空皿が出来ていく。八左ヱ門がいざ箸を手にしたときには既に食べるものがセロリとからあげに添えていたキャベツと端に鎮座する冷奴だけになっていた。
 勘右衛門を睨めば、頬に卵焼きを頬張りながら壁を指さした。どうやら食べるなら頼めということだろう。
「はっちゃんほら、持ってきたよ」
 座敷に上がってきた女将が八左ヱ門の前にビール瓶とグラス、付き出しを置く。空になった皿をてきぱきと重ねると、女将は八左ヱ門の注文を言う間も与えず、次のテーブルへ向かってしまった。
 自ら瓶を持ちグラスへそそぐ。たぷたぷと揺れる麦色の液体がメレンゲのような泡を縁まで持ち上げていく。傾げていた瓶をテーブルに置くと、グラスを持つ。ずい、と中央に差し出すも誰の手も続いてこない。出してくれるだろうと期待していた雷蔵と兵助はぼうっとこちらを見つめるのみだ。
「なんだよちくしょう、乾杯くらいしてくれたっていいだろ」
 半年ぶりだっていうのに。一人愚痴る八左ヱ門の姿に二人は目配せすると、そっとグラスに手を伸ばした。飲み物が殆ど残っていないグラスと合わせようとして、
「はいはいはーい! かんぱーい!」
「え、ちょ、かんっ」
 勘右衛門と三郎が間に割り込んできて、五つのグラスがぶつかった。衝撃で八左ヱ門のグラスからビールの飛沫が散る。慌ててグラスから零れた液体に唇を這わせ、それから喉を鳴らしながらぐびぐびと飲み切る。
「おま、勘! 急にやめろよな!」
「なに言ってんの。はちが勝手に拗ねて手酌始めたんだろ、こっちだって注いでやるつもりだったし乾杯の一つや二つやってやるよ」
 勘右衛門の奥で兵助がこくこくと頷いている。
 ぐ、と言葉を喉に詰まらせていると、向かいのテーブルで話を聞いていた雷蔵が口を開いた。
「乾杯、待てなくてごめんね。はちを待っていたらいつ飲めるかわからなかったから」
「雷蔵の言うとおりだ」
「昔っからはちってさぁ、来るのが一番最後なんだよ」
 そうそう、と言って四人が話に花を咲かせていく。呑むぞと言った日に限って虫を脱走させて――そうそう、はちの部屋で集まって――髪に何つけてきたっけ――あぁそれだ――委員会委員会って走り回って――覚えてる覚えてる――あれは傑作だったよ、木下先生が――そんな事あったなぁ。四人がてんでに話していくのをただ黙って聞いているだけなのに、八左ヱ門は妙に心があたたかくなるのを感じた。懐かしい思い出話から滲み出るぬくもりが、じわりと八左ヱ門の心に浸透していく。――この心地よい場所に、自分は帰ってきたんだと。
「まぁ、そういうことだから」
 勘右衛門がおどけた様子で詫びてくる。それに返事を返そうと口を開きかけた八左ヱ門の前に、再び女将が大きなものを持ってやって来た。
「へいちゃん、奥に置いてあるの出してちょうだい」
 え? と八左ヱ門が勘右衛門の隣りの兵助を見るよりも早く、真ん中の空いたスペースにガスコンロが置かれた。三郎が雷蔵をテーブルから引き離す。膝をついた女将が鍋をコンロの上に置く。
「鍋?」
「なに言ってんのはち、俺らが集まるときは夏でも秋でも鍋でしょー!」
 勘右衛門が八左ヱ門の背中を叩いた。あまりの強さに八左ヱ門が咳き込む。お蔭でさっき頼めばって合図してきたのそっちだろと言い逃してしまった。
 体を傾け火口を覗き込んだ三郎が点火し、女将に合図を送る。蓋を持ち上げられ、中を覗き込めば真っ白だった。
「え、真っ白? まさか」
「そう、今回は豆乳鍋。兵助が鍋にあうやつ探してきてくれたんだ」
「レシピもへいちゃんが用意してくれたんだよねぇ」
 女将はせっせと野菜や肉の乗った皿をテーブルに置いていくとすぐに腰を上げた。繁盛しているのだろう。
 積まれた小皿が八左ヱ門の目の前に置かれた。それを手にすると、順番に配っていく。三郎、雷蔵、勘右衛門、兵助。
 兵助の前に皿を持っていく時、八左ヱ門はわざとゆっくり置いた。しかし兵助は鍋の状態を見るのに必死のようで、そんな八左ヱ門の仕草を気に留める様子はないようだ。
「三郎、弱火にしてくれよ。この鍋に入ってる豆乳は成分無調整なんだ、最初に湯葉が食べれるから、それから出汁を入れて野菜を入れよう」
 先ほどまであんなにぼうっとしていたのに。豆腐ーー豆乳だがどちらにせよ彼にとって豆腐の範疇だーーが出てきて張り切りだした兵助は、腰を上げ八左ヱ門の隣りにやってきた。おたまと一緒にガラ入れに入っていた菜箸を取ると中の様子を注意深く観察している。
「順番に湯葉取ってやるから、ちょっと待ってて」
「湯葉ってすぐできんの?」
「できるよ」
 左手に器を手にした兵助を倣って鍋を覗き込む。豆乳の表面にほんのり膜のようなものが張っていた。兵助が居た席に移動した勘右衛門が、テーブルの上に薬味を次々と乗せていく。
「何してんの?」
「これつけて食べるんだって」
「へぇーうまそー」
 どうやら兵助の持参らしい。そこまで力を入れていたとは。岩塩、醤油、ゆず、ポン酢、山椒醤油の小瓶がずらっと並んでいる。せっせと鍋奉行に勤しむ兵助の横で、勘右衛門にパーカーを引っ張られる。
「はちはコレ初めてだろ」
「え? あ、うん」
「俺らはここんとこずっとコレだよ」
「へ?」
 耳元で囁かれた言葉に驚き、顔を向ければ勘右衛門は少しげんなりした顔をしていた。そうしてなるほどと納得したのだ――だから、鍋なのに先にからあげとか頼んでたのか。同情したい気持ちもあったが、それと同じくらい羨望もあった。兵助の豆腐料理を飽きたと言えるくらい会っているということだから。
「できた、はち」
 呼ばれて振り向けば、器の中に掬ったばかりの湯葉が入れられたところだった。その手が八左ヱ門の方へと伸びてくる。差し出されたそれを受け取ろうと手を出す。兵助の視線が鍋からちらっとこちらを見た気がした。
「おかえり」
 え、と器を受け取ったまま顔を上げる。兵助の声があまりにも優しかったのだ。
「た、ただいま」
 呟いて、器を持つ兵助の指に己の指を重ねる。さり気なく人差し指をなぞれば、冷たい指先がぴくりと動いた。それからそっと離れていく。
 たったそれだけ。けれども十分だった。
 口の中に入れると、とろりと湯葉が舌全体に溶けていくようだった。薬味として付けた岩塩のしょっぱさも豆乳と合わさって滑らかになっている。

「うまい!」

 八左ヱ門のその一言を聞いた兵助が僅かに口角を持ち上げた。嬉しそうな様子を一瞥した勘右衛門は笑う。兵助が八左ヱ門の帰省に合わせて研究していたのを知っているから、実験台にされはしたが微笑ましくも思えたのだ。
 三郎がどの薬味で食べようか悩む雷蔵の代わりにせっせと醤油を垂らしていく。
「はち、あれ使ったか?」
「え? あ、あれか! 三郎あれすげーな!」
「そうだろう? で、どうだった?」
「いやー人形だってわかってるんだけどさ、なんかもう喋ってると傍で兵す」
「はち! もう湯葉できる!」
 耳を赤くした兵助に咎められて、八左ヱ門が釣られて照れたように笑う。ニヤニヤと意地悪く笑う三郎と湯葉を口に入れて頬を緩ませている雷蔵。
 ああ、本当いいよなァ、この空気。いいよなァ。
 勘右衛門は床に置いてある瓶を掴むと八左ヱ門の空のグラスに注いだ。ついで己のグラスにも注ぐ。
「まぁまぁ兵助。で、その人形ってなに? 勘ちゃんにもっとく詳しく教えて」
「そうこなくっちゃな!」
「いいから湯葉食べろよ!」

 半年ぶりの宴は、まだまだ始まったばかりである。

 

 


 

[2015.11.07]