解夏とシオン　一

※諸注意 高専時代 主人公に設定あり 時系列が8.9巻あたり 呪術の設定に関する捏造があります 色んな解釈の余地があるという方 これは、或るひとの青い春。 二〇〇六年。 「隣り、失礼するよ」 昼食後の昼下がり。教室の端で読み耽っていた本から視線を上げると、傑が悟を連れずに一人で立っていた。私はうんと答える代わりに、隣りの席の古びた椅子を後ろに引く。その私の手に手を重ねるようにして傑が椅子の背を掴んだ。彼の指は細く力強く、傷だらけの私の指よりも綺麗に見えた。 私が引いた幅じゃ狭かったんだろう。何も言わずに様子を窺っていると、傑も何も言わずに手を離してそのまま腰を下ろした。足を開いて上半身を前傾にして机に肘や肩、頭を寝かせている。木の椅子の軋んだ音が一度なっただけで、それからは静かだった。私は再び読書を再開するべく机に置いていた本を手に持つと文字の世界へ戻る。 座学の授業を終えたばかりの教室は、日本の夏特有の湿気た蒸し暑さで居心地がいいとは言い難い。けれど、私と傑はよくここに来て二人で肩を並べた。 同級生と呼べる人はたったの四人。今年入学してきた一年はたったの二人。五条家の嫡男、反転術式扱える術師、呪霊操術という術式持ちの特級術師、研ぎ師の叔父に育てられた私。こんな狭い世界じゃ興味があってもなくても為人を知ってしまうし自分の事情だって知られてしまう。 猛暑の盛りの今、高専内に留まっている術師は最小限。きっと木々からけたたましい叫び声をあげる蝉や蠅頭の方が多いくらい。 最近災害が頻発している。地震、台風、人災。災害による被害は人々の負の感情を扇動させる。 何でこんな目に。どうして自分が。目の前の絶望に心が弱ってしまう。そんな非術師たちの感情に比例するように呪霊がわんさか沸いている、らしい。らしいというのは私が現場に赴く機会がまだ少ないから。 私は呪術師ではあるけれど、研ぎ師でもある。今は一分一秒でも早く呪具の研ぎ師として独り立ちできるよう修行を優先している。私自身の等級も3級なので術師としても、呪具の研ぎ師としてもそこまで役に立てないのが現状だ。 「今日は何を読んでいるんだい？」 珍しく机に伏せた姿勢で傑が尋ねてくる。行儀が悪いと言っていつも悟に苦言を溢している立場なのに。私は追っていた文字が句読点まで到達するとページに指を挟んで本を閉じた。 「私たちと同い年の男子が陸上部に入って走る話」 「陸上部だったら走るだろうね」 納得していない様子。どうやら説明不足だったらしい。言い換える言葉を私は思案する。 「うーん、青春スポーツ小説ってところかな。文章も砕けてるし一人称俺だし読みやすくて好き」 「恋でもするの？」 私が恋愛小説を読むと思っているんだろうか。 「全然。てか陸上部恋愛禁止って書いてた。むしろ天才の幼馴染みを追いかけて走ることに情熱を注いでる、今のとこ。全部で三冊」 「それは？」 「二冊目。天才を追いこして最速スプリンターになりたくて奮闘中」 「見てもいい？」 アンニュイさを孕みながら傑の手が机の上に伸びてきた。私は指を挟んでいたページに栞を挟み直して傑に差し出す。最初のページを開くでもなく、彼は適当に開いた箇所を目で追っている。 傑は時々、私の読んでいる本に興味を示してくる。日課と呼べるほど頻繁ではなく、かといって稀というほどの少なさではない回数のこのやり取りが、密かに私の喜びだ。硝子と悟はこうはならない、単純に嬉しい。 手持ち無沙汰になった私は窓の向こうを眺めようと傑の傍から離れた。中国格子窓に近づくと眼下を覗く。視界の端まで森で埋め尽くされた中央に、私たちがいる寺社仏閣のような建築物が密集するように立ち並んでいる。空は所々に雲がちらつき、太陽は未だに傾くことを忘れたように天に近い。 格子枠の隙間から手をついていると焼けるなと思い、私は思わず身を引いた。 あの本は主人公の葛藤や悩みをとても丁寧に書いているのに前向きだ。天才の傍で育ってきた主人公が、サッカー一家の中から高校に入学後、別の競技に楽しみを覚え魅せられ情熱を注いでいく。 努力じゃ埋められないものの先にあるのが才能なのかセンスなのか。その埋められないものを知っていながらも、速く走りたいと胸に熱いものを抱きながら主人公は努力をやめようとしない。 私は一体どの立場なのだろう。才能のある人を知っていながらも努力を続ける主人公？ それとも努力が嫌いで、だけどセンスで誰よりも早い幼馴染み？ それとも他校の有名なクールで努力の先を行く天才？ 「の言う通り青春小説なんだろうね」 自分をどれかに例えるのは難しいけれど、傑はきっと最後の彼と同じだ。 振り向くと上半身を起こした傑がこちらを向いていた。本は閉じられていた。 「でも、恋愛がないって言うのは違うんじゃないかな」 「え、うそ」 「男子目線だからね、なかなか難しいのかもしれない」 そういう問題だろうか。異性の視点だから気付きにくいとか言っているが、ほんの数分流し読みをした傑にはわかって自分には分かっていないというのは、読解力がないと言われている気がする。 「フォローが余計傷付くなぁ」 「が恋愛に興味がないからそう思うんだよ」 「そういう傑はあるの？ 恋愛」 「そうだね、それなりに」 意外ではないけれど、素直に答えて貰えると思わなかったので言葉に詰まる。 閉じられた本を差し出される。受け取らないわけには行かないから、窓際の暑い場所から傑の傍まで戻った。大きな小説を両手で受け取ると、立っているのもおかしいのでもう一度隣りに座る。 なんだか不思議な気持ちだった。傑の見えていない部分を見せられたような感覚。くすぐったさにもう一度本を開く気になれない。 「そんなに意外だった？ 興味があって」 「べ、別に」 「動揺してるよ」 「こ、こういうのに慣れてないんだから仕方ないの！」 だって呪いと向き合った毎日を過ごしてるんだもの、そんな色恋モノと向き合う普通の感覚なんて持ち合わせてない。 傑は声を立てずに笑う。ちょっとやめてほしい、なんだがおかしな雰囲気に自分の心がざわざわと揺れる。 「好きな人くらいいるさ、誰にだってその権利はある」 そう言う傑の表情からも相手への好意のようなものが溢れている。今まで同輩として見てきた傑とはまた一つ違う顔だった。 それがなんだか自分より一歩大人への道を先に進んでいるみたいで。いや、傑は私よりも何歩も先にいる。同い年だというのに、それは変わり用のない現実だ。 視線が下降していく。制服のラップスカートの裾が広がっている。この感情は何だろう、ショックなのか驚きなのか。ヤキモチなのか寂しいのか、自分でもよくわからないけれど、酷く傑の言葉に動揺している。 たぶん悔しくて羨ましいのだ、私は。きっと。 頭がふいに重くなる。ぽんぽん、と二回優しく撫でられた。 「なぁに」 「いや、良いと思う」 「なにが？」 「、君は表情が少ないから時々はそうやって感情を出したらいい」 「……私、どんな顔してたの？」 傑はすぐに返事をしてくれなかった。ちらりと視線を投げると、目が合う。 「独り占めしたくなるような顔だったよ」 それは、どういう意味なの。その眼差しには一体どんな感情が乗っているの。 いつもと変わらない日常。一人読んでいる教室に傑が一人でやってきて、一緒にいる。何をするでもなく、熱く呪術について論議をするでもなく、ただ今日の天気や硝子、悟たちとの雑談を引っ張りだして笑いあう。そのいつも通りを繰り返すだけの時間だったはずなのに。 今日は何故かいつもと違うように感じられる。 何と返せばいいのか、どういう態度を取ればいいのかわからず机に臥せる。 どっどと心臓が速くなっていく。サラッと言ってのけられるだけ、そこに本気はないと分かっているのに私の感情に漣が起きる。 「揶揄うのやめてよ」 一瞬だけ蝉の声が止んだ気がした。それは気のせいと聞き間違えるくらいのほんの僅かな間だけど。それでも傑の溢した小さな言葉は、私には聞こえなかった。 何と言ったのかわからず、頭を上げる。 「いま、なん」 「あ、いたいた」 第三者の声に、私は言葉を止める。教室の扉の入り口に硝子が立っていた。 「傑、行くよー」 行くとは？ この後は特に予定がないと思っていたんだけど。疑問符を浮かべている私に、硝子がそうか知らないのかと説明をしてくれた。 「歌姫先輩と冥さんが静岡の任務に入ってから二日経った。補助監督曰く、現場に入ってから連絡が取れなくなってるらしい。これから悟と三人で救済に行くよう上から指令が下りた」 「え、そうなの」 傑は何も言わなかったから、いつも通りなのだと思っていた。 隣りを見れば何も言わず傑が立ち上がっていた。倣うように私も自然と立つ。机に置いた本を手に一緒に入り口まで向かう。 「なに、本読んでたんじゃないの」 硝子が片眉を上げてみせる。 「みんなが出かけるなら、私も休んでるわけにいかないもん。折角だし研ぎに行ってこようかな。悟は？」 「下」 傑を呼びに行くのが面倒くさくて硝子をパシリにつかったというわけだ。廊下を横並びに歩き、階段を降りる。外の蝉の鳴き声が徐々に大きく近づいてくる。 「そっか。1級術師の冥さんが出てこないんじゃ、特級術師が出向かなくちゃいけないものね。傑、気を付けてね」 「大丈」 「誰に物言ってんの」 隣りの傑の声に被さるように前方から威圧的な声音がかけられる。声の主はイメージ通り、悟だった。階段の踊り場で、手摺りに腰を下ろしてこちらを見上げている。 「傑に言ってたの。悟じゃないよ」 「あっそ」 人の会話を掻き消しておいてなんて言い草だ、と思うけれど埒が明かないのはわかっている。硝子が悟の隣りに並んだので、自然と私は傑と並び階段を降りる。 「傑も、言ってよ。後に用事があるって」 「どうして？」 「休憩したかったんじゃないの、さっき」 「が心配する必要はないよ。それにあの時間に制限をかけるのは好きじゃない」 それは、二人でいるあの教室の時間が、まるで特別だといっているようでこそばゆい。けれど。 「うん、私も。傑と同じ、かも」 校舎を出たところで私は立ち止まった。補助監督の待つ待機場所へ向かう三人と方角が違うからだ。私が立ち止まったことに最初に気付いたのは悟で、だけど彼は気にせずずんずん進んでいく。そうして隣りの傑が立ち止まり、前方の硝子が振り向いた。 「じゃあ、いってらっしゃい」 持っていた本を後ろ手に回し、もう片方の手を振れば、硝子が大きく振り返す。悟はサングラスをキラッと光らせるとすぐに前を向いてヒラヒラ片手を揺らした。隣りを見上げると目を細めた傑が私を見下ろしている。 ふいに、後ろに回して本を持っていた指に何かが絡まった。分厚い本が揺れ、指と指の隙間にあつい熱が入り込んでくる。 「わ」 「落ちそうになってるよ。じゃあ」 そうっと手が離れていく。傑は後れを取り戻すようにすこし早足で二人の元へ向かっていく。 今のは一体、どういう。いや、意味なんて「落ちそうになっていた」それだけだ、きっと。他意はないはず。 蝉しぐれの下、三人が歩いていくのを暫く見送って、私は読みかけの本を片手に修行の場へと向かった。 [2021.03.15]