永久凍土の恋

永久凍土の恋

 

 五条悟に本気の恋をさせてはいけない。世界が滅んでしまうかもしれないから。
 彼は軽薄でなくてはならない。
 己の為にいとも容易く相手の言葉を裏切れるような、そんな人間でいてもらわなければならないのだ。

「君のためなら何だってしちゃうんだけど」
 軽口をたたくように放ちながら、実際にそれを有言実行してはいけない。
「離れたくないんだけど、甘やかしてくれないの」
 誰かに深く寄りかかるような強い依存を起こさせてはいけない。
「いいじゃん、そんなバカども放っといたら」
 自身以外の存在に、他人への概念を放棄させるようになってはいけない。

 愛と言う呪いほど厄介なものはない。かかれば世界は忽ち色鮮やな彩りに変わり、理性よりも本能を強く求めるようになる。自身より愛する相手に全てを左右される。相手の為に自らを投げ打ってしまう力も備えている。そしてこの呪いほど解く方法が難しい事は、これまでの歴史を鑑みても明瞭としているだろう。

 はじめこそ、彼女は自分が彼にとって遊びのような恋の一つだと思っていた。移り気な人だと聞いていたから、こちらが溺れないように自我を保ちつつ気を付けようと。けれどそれは誤算だったようだ。
 ——明日お休みだったらいいのに、そう思いませんか五条さん。
 気づいたのは、さりげない言葉が実行された時。訝しんだのは一瞬。
 ——あ、五条さん見てくださいこのジュース。前まで高専の自販機に置いてなかったんですけど、入荷するようになったんですね。
 小さな喜びだった。すぐに気のせいと紛らそうとして、それからその偶然が必然であることに気付いた。
 ——実は最近休みが取れなくて疲れがたまってたんです。伊地知さんが代わりに仕事を立て替えて下さってて。元気になりました。
 自身の希望が実現していくさまが彼女も少し嬉しかった。ただ、その希望が徐々に自分の手に余るようになったとき。
 ——あれ、あのお店、なくなってますね。
 ——君、店員がいけ好かないって言ってたよね、せいせいした?

 彼女は畏怖した。自身の存在に。
 彼を弄ぶ存在となり得てしまった状況に。
 何を選択しても世界の脅威に成りうる自身の発言に、行動に。

 この間テレビで言ってたんだけど、地球温暖化で永久凍土の溶解が研究者の間で懸念されてるんだって。もしも溶けたらメタンガスが飛び出してきて一気に温暖化が進んだり、恐ろしい細菌やウィルスが眠りから醒めて人体に影響を及ぼすかもしれないみたい。そのウィルスやメタンガスで人類が終わっちゃうかも。これからの未来が心配だね。

「さっきのコンビニの店員さぁ、君の事見過ぎじゃない?」
「きっと気のせいですよ」

 エレベーターという四角い箱の空間を持て余すように彼らは密着して並ぶ。扉が開き一歩出れば、右に突き当たった扉が彼女の住まい。絡めあった指に不自然に力が入らないよう彼女は努める。
 一歩選択を踏み間違えれば、何が起こるかわからない。

「気のせい?」
「私には五条さんを誘惑する目で見てるように見えましたけど」
「妬いてるの? そんなこと言う君も可愛いね」

 指が離れて頬を両手で包み込まれる。玄関扉の前、彼女に逃げ場などない。それでも公共の場でのシチュエーションに恥じらいはある。
 とめようと相手の手首を掴む。片手に持つビニール袋がガサツな音を立てながら、肘まで滑り落ちていく。びくともしない彼の腕の力に、諦めて手を離す。
 腰、と指示されてそろりと腕を回す。当然彼の背中で片割れの手に届く筈もなく、仕方なく服の裾を掴んだ。再びビニール袋が音を立てて彼の臀部にぶつかった。
 彼女は促されて仰いだ。美しい相貌が降りてきて、白髪が皮膚をくすぐるように触れ、額が突き合う。徐々に近づき唇の先が触れる直前、彼女が小さな声で待ったをかけた。1センチにも満たない距離で五条悟の動きは止まる。

「ちゃんとお仕事、行ってきてくれますか」
「離れたくないんだけど」
「それじゃあ終えるまでお預けにしましょ」
「非情なことを言うね。もうどうにかしちゃいたくて堪らないんだけど」

 言いながらも、彼は動かない。動けない。彼女の全てに囚われている証拠だ。

「じゃこうしましょう。悟さん、お仕事頑張ってきてね」

 彼女からその1センチの間を埋めに行く。触れるだけのもので終えようとした彼女の頬を強く掴んで、彼は捩じ込みこじ開ける。彼女に何も言わせないよう、呼吸すらさせないくらい、待っての一言すらも告げられないように、深く、深く。互いの口から言葉にも満たない声だけが漏れる。絡み合い一つになって溶けていくような感覚に、時間という概念が消えていく。
「……」
 情欲を宿した瞳がお互いを映す。
 いけない、こればかりはまずい。彼女の頭に警鐘が鳴り響く。理性はそう訴えているけれど、彼女の腰は情け無いくらい震えている。本能に抗い立っているのもやっとだ。
 宇宙と評するような瞳が、頬を紅く染めている相貌が、求めている。この場への逗留を決定させる言葉が出てくるのを。彼女がそれを口にするのを。
 彼女は葛藤する。世界を手のひらに乗せている自身の状況に。心臓が、全身が興奮に慄いている。

 このままといえば、このままが与えられ。
 もっととせがめば、続きを与えられて。
 私だけをみてと望めば、難なく自分以外の世界を跳ね除けてしまう。
 自分がまるで世界の中心のような感覚。指先の駒を弾けば、それはいとも簡単にひしゃげてしまう力加減。私次第で、彼の行動が変わってしまう。
 一歩間違えて彼を堕落させてしまえば、私は世界の敵になってしまう。彼女は浮かんだ感情を心の奥に潜ませた。

「……さっきの、私の言葉、悟さんからのお返事はありますか?」
「ずるいな君は、ホント」

 仕事が憎くなるよ、なんて呟きながら悔しそうに離れていく。彼女は小さく笑み、離れていくその手のひらに内心深く安堵する。今日も世界は安寧に包まれて終わることが出来そうだ。
 腰に回していた腕を離す前に、胸元に頬を寄せ甘えて見せた。

「待ってますね」
「行きたくないけどね.君のご要望だもん。仕方ないでしょ」
 ほんとヤダなんて毒付かれる。彼女は苦く笑い小さく小さく呟く。
「待ってますから、続き」
「しっかり体力温存しといて」
 どんな呟きでも拾ってしまう地獄耳なのだろうか。
 つい笑みがこぼれ、触れたくなって手を持ち上げる。高い先にある彼の頬に手を伸ばすと、愛おしさを込めてそうっと唇をなぞった。彼の口が開き、意図を持って咥えられ、舌にやんわりと舐められる。
「あ、悟さんったら」
 咎めるような声に彼は小さく口づけて離した。解放された指を、彼女は暫し眼前で見つめた。親指の爪先が彼の舌のせいでてらてら光っている。
 何を閃いたのか彼女は彼を見上げた。咥えられた親指を自分の口元へ近づける。見せびらかすように紅い舌をちろりと突き出し、彼が濡らした指に触れる直前引っ込めた。悪戯が成功したように唇は弧を描いている。
「なにそれ」
「後のお楽しみと言うことで」
「生殺しにも程があるよ」
 卑猥な言葉が彼の口から飛び出す前に、くるりと身を翻し背中に手を当て出口へ押し出す。彼女の力では梃子でも動かないけれど「早く行って早く帰ってきてほしい」と告げれば、長い脚が渋々前へと進む。

 永久凍土は凍ったままでいてくれないと困る。もしも溶けだしたら、一体どうなってしまうのか、人類は未知なる不安と現実に直面してしまう。懸念していることなど何も起こらないならいい。けれど、もしもその危惧することが現実となったら。

 (そうなる前に、自分の気持ちを投げ捨てて、私は軽薄な彼に戻すことができるのだろうか)


[2021.02.28]