05 : 筆を持ち、挨拶文を考える

05 : 筆を持ち、挨拶文を考える

 

 

 帰路。
 草むらを掻き分け、砂利道を砂埃を立てながら歩く。鳥居の手前までくるとナマエは総司にお願いして少し時間を貰った。
 鳥居をくぐり、社の手前に鎮座しているお賽銭箱に小銭を投げ入れた。柏手を打ち、手を合わせたままそっと目を閉じる。心の中で挨拶と敷地内を邪魔したことを詫びる。再び目を開け、社の奥に視線を投げると闇の向こうの何かが淡く光ったような気がした。
 くるりと踵を返し、鳥居の向こうで立ち止まっている総司の元に戻る。ナマエが手前まで来たのを確認すると総司は階段側に体をまわした。
 行きと同じように総司から目を瞑るように言われたナマエは、この後を想像しながら素直に目を閉じた。今度は下方まで数歩降りただけで辿りついたことに大して驚かずに済んだ。
 階段をおりた先は、来た時と違い夜の闇が色濃くなっていた。暗闇の中に一軒家の窓からこぼれた光や街灯が点在しているが、都会育ちのナマエからしてみると、なんとなく頼りない。

「早く帰らないといけませんね」

 静かに総司が呟いた。
 綺麗ですよ、ナマエさん――先程の総司の言葉や耳元に囁かれた掠れた声が、ぐるぐると頭のなかを駆け回っていてナマエの心はまだ胸の高鳴りがおさまっていない。ナマエは隣りに並んだ総司を盗み見るように覗く。
 先程の妖艶な雰囲気など欠片も見当たらない。目を逸らそうとした時、ふいに総司がナマエに視線を動かした。視線が絡まり、再び胸の奥がドキドキしだしたナマエはすぐに目を逸らし声は出さず何度か頷いた。

 総司が先を歩き、そのあとを追うようにナマエは歩く。
 一人分の足音が、傍を流れる川のせせらぎに混じって辺りに響く。どこからか時間はずれな蝉の鳴き声が聞こえる。
 行きは食べ物の入った袋や巾着でいっぱいだった両手が暇を持て余している。巾着を持っていない手を少し前を歩く総司に向けて伸ばす。
(手、繋げたらいいのに)
 脳裏を過った考えにナマエは驚き、伸ばした手をすぐに引っ込める。

「どうしました?」

 前を歩いていた総司が急に振り返り尋ねてきたので、ナマエの心臓が飛び跳ねた。少し身体を跳ねさせて大きく首を振る。
「なんでもない!」
「そうですか?」
 総司は首を傾げつつもまた前を向きナマエの道標となるため前へ歩き出した。総司が前を向いた事を確認したナマエは延ばした方の手を顔の手前まで持ってきた。ぐっと握りこぶしを作る。手の内が暑さで汗をかき始めている――そして手の平全体に感じる、自身の脈音。
 前をもう一度見つめ、総司を見つめたナマエは言いようのない悲しみに胸が苦しくなった。
 そして心の中に新たに生まれた感情に気づき、そっと目を伏せた。
(わたしが、総司の時代に生きていたら)
 そうして静かに瞳を持ち上げると総司が街灯の前で静かに立ち止まりナマエを不思議そうな目で見ていた。ドキドキと高鳴る気持ちと少し締めつけてくる切なさがナマエの体を巡った。立ち止まる総司の元まであと数歩。

「ナマエさん、大丈夫です? 顔色が芳しくない」

 数歩前にいる総司が心配そうに尋ねてくる。思った以上に酷い顔をしていたのかとナマエは驚き首を勢いよく振った。
「だ、大丈夫だから」
 できるだけ総司と一緒に歩きたい――湧き出る感情を抑えるようにこたえる。総司の前まで辿りつくと、ナマエは前に進むよう総司を促した。しかし総司は足を上げることすらしない。不思議に思い眉間をよせ顔を上げる。
「ナマエさん、並んで歩きましょうよ」
「なんで?」
 総司の突然の提案に首を傾げる。すると総司は困ったような顔をしていた。
「なんとなく、隣りに居ないと不安で」
 その言葉にナマエは心が躍り、頬が熱くなった。頬に熱が上がったのが自分でもわかり、思わず両頬に手をあてる。――なんとなく、口角が自然とあがっている気がしないでもない。

「わかった、わかったから行こう」
 浮かれている自分を叱咤するようにナマエは顔を引き締めると前に一歩足を進めた。
「はい」
 ナマエの仕草に総司はにこりと笑んだ。そうしてナマエに並ぶように総司も足を進める。隣りに並んだ総司から隠れるように浴衣が着崩れしていないか襟元を引っ張ったり帯を閉めた。
 慣れない浴衣の為か、普段よりも一歩が小さい。そして鼻緒の当たる親指と人差し指の付け根がじんじんと痛む。すこし跛になりながら歩きたいところを寸でのところで我慢し、歩く。
 隣りを歩く総司に意識を飛ばしながら、視線はできるだけ前へ。気づかれないように右側に目配せする。足音はなくとも、隣りで一つに結いあげた髪が歩を進める度にゆらゆらと揺れている。
 よく見れば白い着物も少し煤けているような気もしなくもない。ナマエは帯に挟んでいた扇子に無意識のままそっと手を伸ばした。手の平に感じる、漆塗りの感触。

 地面から感じるコンクリートの熱から逃げるように両足を前に前にと進めた。
 歩きながらナマエは総司について興味が湧きだしていることに気付いた。沖田総司という人について自分は何も知らない。揺れる前髪が気になり、巾着を持っていない手で髪を掬う。

「ねぇ総司」

 髪を気にしながら、そっと尋ねる。隣りを歩いている彼がこちらを向いたことに気付いた。緊張してナマエは表情がかたくなったが、気付かないフリをして足元に視線を投げる。
 意識が足の親指と人差し指の付け根に集中する。じくじくと痛む指を見ていると隣りの総司の足がふいに止まった。ナマエも遅れて立ち止まる。

「総司?」

 後ろを振り向こうと顔を上げた時、視界にいつも見ている建物が映った。気づけば祖父母の家の前まで辿りついていた。

「ナマエさん、おやすみなさい」

 後ろを振り向こうとした時、横から総司の声が聞こえナマエは動きを止めた。ふいに、花火の際に囁かれた耳元を思い出し急いで手で耳を塞ぐ。あの時のように耳元で囁かれまいとナマエは耳を手でおさえたまま身体ごと右に振り向いた。向いた先には総司が間近に迫っていた。

 すぐ前に総司の顔がある――驚きのあまりナマエは瞬きすら忘れ大きく目を見開きかたまってしまった。総司も目を丸くしていたが数回瞬きをするとにこりと微笑んだ。
「お家の中まで送りましょうか?」
 目の前の口が動く。ナマエは慌てて身を引くとすぐに前に向きなおした。体すべてが心臓になったかのように熱く燃えているようだ。
「お、おやすみ」
 動揺を隠しきれず、思わずどもってしまう。足に感じる痛みすら忘れナマエは駆け込むように家へと戻った。巾着から鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとするがなかなか鍵が入らない。やっとのことで鍵を差し込み回す。恥ずかしさで後ろを振り向けないままナマエは家の中に入った。

 その後ろ姿が扉の向こうに消えるまで、総司はじっと見ていた。

 土間を通り抜け、沓石(くつぬぎいし)の手前で下駄を蹴るように脱ぎ廊下に足を上げ暗闇の中を歩く。真っ暗な廊下を通りぬけ、ギシギシ鳴る階段を上るころには着ていた浴衣も大分肌蹴ていた。ナマエはそのまま階段を上がりぬけると右側の扉に手を伸ばす。
 部屋の中はむっとした暑さが充満していた。奥まで歩き扇風機のスイッチを押す。開け放した状態のままのカーテンを勢いよくとじる。カーテンがあいていて明るかった部屋の中が途端暗くなる。部屋の真ん中にある電球をともそうとしたが、ナマエはなんとなく明るくするのが億劫になり豆電球にした。
 ナマエは帯の結び目を前に持ってくると丁寧にほどいた。黄色と朱色の帯が床に折り重なるようにおりていく。浴衣を脱ぎ床に落とす――締め付けから解放され体が軽くなったのを感じた。

 浴衣を持ち脱衣所に向かいお風呂に入った。踝の辺りをみると両足に数か所の赤い腫れを見つけ、掻きたくなる衝動をぐっとこらえる。湯船につかる気になれず髪や体を洗うとそのまま上がった。
 寝間着を着て髪は乾かさず部屋に戻る。

 部屋の襖の前に置いていた布団を真ん中までもっていき敷くと、そのうえに座り込んだ。規則的に首を振っている扇風機の風がナマエの髪を忙しなく揺らしていく。
 そのまま動かずにぼうっとしていると、ナマエの頭の中は先ほどまでの出来事がぐるぐるとかけ回り始めた。総司のしぐさ、言葉、視線、すべてを思い出し自分の行動も思いだす。
 家の前で間近にあった総司の顔がナマエの脳裏に浮かんだ時、言いようのない恥ずかしさに無意識に首を振っていた。
(まただ、今日も寝れないかもしれない)
 濡れた髪をそのままに、ナマエは布団に横向きに倒れこんだ。頭から少し離れたところにある枕に手を伸ばし、引き寄せる。それを、そっと抱きかかえるように持つ。下にあるタオルケットにもぐりこみ、目を閉じる。
 目を閉じても、何度も総司の言葉や、耳元に感じた風を思い出す。ナマエは瞼を閉じたままこれが興奮しているというのかもしれない、と静かに思った。

 眠れないまま朝を迎えた。
 目を閉じていても意識が遠のかず、そのまま葛藤していると窓の向こうから蝉の鳴き声が聞こえてきた。
 むくりと起き上がったとき足元を見ると、親指と人差し指の付け根の部分が赤く腫れていた。よくみると親指寄りに豆ができて皮が向けている。足首の虫刺されはジンジンと熱を持っているようで熱い。汗でべたつくパジャマを剥がす。

 眠たい眼を擦りながら階下に降りて歯を磨いて顔を洗いおえると、時間があったので父が通っていたという小学校まで歩いた。校内で首にカードをかけている小学生たちから離れた場所でラジオ体操を一緒に体操し、家に戻る。ぞろぞろと校門を抜けていく大人たちにまぎれながら、朝日が昇っていないのに明るい道を歩いた。

 家に戻ると祖母がすでに台所に立っており、おみそ汁を作っている最中だった。
「おばあちゃん、おはよう」
「はい、おはようさん」
 ナマエは祖母の隣りに並ぶと流しに置いてあった葱を水で洗った。
「宿題はできとるんかい?」
 薄揚げを切りながら祖母はナマエに尋ねる。葱を片手に持ちながらナマエは少しずつしてるよ、と頼りなく答えた。その返答に祖母は父も学生の頃そんな感じだったと言っていた。

「ここには何にもなかったから図書館に行って勉強してたんさ」

 祖母は豆腐を一丁綺麗に切っていた。ナマエはそばに葱を置いた。
「図書館? 近くにあるの?」
 ナマエは冷蔵庫に行くと味噌を取りだした。ついでにお玉と菜箸もつかむ。まな板の上のものをすべて鍋に入れた祖母はナマエからお玉とお味噌を受け取りながら頷いた。
「おはよう」
「おはよう」
 首にタオルをかけた祖父が台所を通り過ぎて行く。その後ろ姿を見届けながらナマエは総司について考えていた。
「おばあちゃん、その図書館の場所教えて」

 辺りに蝉の鳴き声が響きわたるころ、ナマエは裏戸の前に立っていた。
 裏戸には庇があり太陽から隠れているが、一歩向こうは暑さで蜃気楼が揺らめいている。

 手提げかばんの中には課題が書かれている分厚い冊子とルーズリーフ、筆記用具、タオル、そして財布が入っている。
 白のトップスの上にカーキのサロペットを着、ビーチサンダルを穿く。鼻緒のあたる親指と人差し指の付け根には絆創膏をしっかり貼っている。ついでに踝にはキンカンを塗り、腕には虫除けスプレーをかけた。
 ナマエは鞄を自転車のカゴの中に乗せると、ハンドルを握った。そのままぐっと前に押すとガタン、とスタンドが自然と上がる。カラカラとチェーンが乾いた音を鳴らす。勢いをつけ細い道を進む、ペダルに足をかけサドル跨ぎ腰をかける。
 頭に被った麦わら帽子の隙間からツバのすぐ上にくくってあるリボンが見え、それがちらちらと揺れている。
 ナマエは片手を帽子に持っていくと少し向きをかえた。自転車とのバランスをとろうと首を傾げてみる。
 道路から湯気でも出てきそうな暑さの中、ナマエは図書館に向かうべくペダルを漕いだ。

 歩道と車道の区別が消えたり現れたりする道を自転車で進む。すぐ横は田んぼや畑と電柱で、日差しを唯一遮ってくれている麦わら帽子に感謝する。
 漕いでいる足が徐々に重たくなってきた。体の至る所から汗が噴き出す。すぐ横を車が追い越し、少し鋭さのある風がナマエのそばを走り去った。飛ばされないように帽子を押さえながらペダルを漕ぎ続けた。

 図書館の駐輪場に自転車を停め、チェーンをかける。入口まで歩きながらカバンの中のタオルを引っ張り出して汗をぬぐった。
 自動扉を跨ぎ図書館の中に入り込む。むっとした暑さから一転して空気が涼しい。ただ、今のナマエには暑く感じた――おそらく長時間いれば暑くもなく寒くもなく感じる温度だろう。背中を一筋の汗が流れる。
 ずっと日向にいたせいで視界が緑や黒色にぼやけている――ナマエは思わず眼を細めた。何かにぶつからないようにゆっくり歩く。カウンターの近くについたころには室内の視覚にも慣れてきていた。

 うろうろと歩きながらまわりを見渡す。図書館はナマエの地元より少し大きかった。二階建てのようで、上にも本が置いてあるらしい。
 柱の掲示板の横の案内所を見つけてその中から小説コーナーの著者「な」の部分を探す。
 今年の課題の一つとして夏目漱石の「こころ」を読み感想文を提出することになっている。地元の図書館に借りに行ったところ、まず棚に見つからず検索コーナーで調べると既にすべて「貸出中」のマークが並んでいた。みんな考えることは同じなのだ。

 カウンターを通り越し、児童書の棚を突っ切る。奥の方に著者「あ」と書かれた紙が棚に貼られているのを見つける。「あ」から順番に進んでいくと「な」が見つかった。棚側にまわって本の背表紙を目で上下に動かしながら追う。
 夏目漱石――著者の名前が見つかりナマエは背表紙を指でなぞりながら本のタイトルを探す。「坊ちゃん」「それから」「草枕」「虞美人草」「こころ」。「こころ」の本の背に指を引っ掛けて本棚から引っ張り出す。
 出てきた本は全体的に日焼けしていて黄ばんでいたが、読めることに変わりはない。それを片手に持つと一冊分の本がなくなり傾いた棚の本をまっすぐにしようと手を差し入れて本を立てていたナマエの視線に、ふと一冊の本が入った。

 それは近頃総司の口から聞いて知った言葉だ。

 「新撰組顛末記」と書かれた本をじっと見る。本のタイトル下の著者名を見ると「永倉新八」と書かれている。気になり引っ張り出すと表紙には祖父と同じくらいの年の人が着物姿で腰かけている写真が載っていた。引っ繰り返して背を見る。あらすじの部分を読む――『新撰組ただ一人の生き語り部』、と書かれている。細かな文章を読みながらナマエはその箇所に昨夜総司の口から出てきた「近藤さん」や「土方さん」の文字を自然と意識しながら読んでいた。

(ただ一人の語り部ってことは、総司は)

 自然と浮かんだ疑問にナマエは首を振った。この本を読むことに少しの抵抗を感じている。
(勝手に人の過去を見るようで)
 頭のなかでは色々と考えているが、実際は本を棚に戻すのを躊躇ってしまっている自分がいる。興味が湧かないわけがない。さんざん迷った挙句、ナマエはその本を「こころ」の上に重ねて持った。
 先程通ってきた道を戻り、蔵書検索のできる機械の前に立ち止まる。パソコンの画面のフリーワードに新撰組、と入力し、検索を押す。検索結果一覧がずらりと並ぶ。――新撰組、鳥羽伏見戦、新撰組のすべて――本のタイトルにカーソルを持って行き、クリックしようとしたが、ナマエは慌てて検索画面に戻した。
 検索画面から離れてカウンターに向かう。
(だめ、知りたいけど、だめ)
 検索機から離れようとぐるぐると歩く。専門書のコーナーや、この地元の本を集めているコーナーの傍に階段があった、それを上って行く。2階にはラウンジがあり、その奥に雑誌閲覧コーナーとして椅子とテーブルがいくつか置いてあった。数人が腰かけている場所に遠慮がちにすすみ、ナマエはその隅に腰かけた。
 鞄を膝の上にのせて、夏目漱石の本をテーブルの上に置く。「新撰組顛末記」と書かれた本の表紙を捲る。

(総司、名前出てくるかな)

 興味と背徳感の狭間でナマエの気持ちはぐらぐらと揺れていた。それでも自然と手がページを捲っていく。目次を捲り、軽く目を通しながらもナマエの心の中はぐらぐらと揺れていた。数ページ捲ってすぐに、ナマエの探していた文字は現れる――沖田総司。
 土方や近藤、永倉の名とともにそれはあらわれた。その前後の文字を目で追う。
(こんなの、総司が知ったら)
 心の隅の良心がちくちく痛む。それでもナマエの目は文章を読み続けている。
 ページを捲ろうとしたとき、少し離れた席の人が大きな咳払いをした。
 はっと我にかえったナマエは捲ろうとしていた本をそのままとじる。テーブルの上に置いていた本を掴むと席を立った。
 そのままカウンターへ向くべく階段を降りる。ぺたぺたとビーチサンダルが静かな室内に大きく響いた。

 

 カウンターの列に並び、本を借り、返却日の記入された紙を取る。もともとの返却期間がお盆の期間中だったらしく、期日は数日延期されていた。それを二冊の本とともにカバンの中にしまう。その際、中に入っている課題と本がぶつかり、本来の目的を思い出したナマエは一階にある喫茶室へと足を運んだ。
 内庭と隣接してある喫茶室の隅の4人掛けの四角いテーブルの上に、購買で買った紅茶のパックを置くとカバンの中から課題と筆箱を取りだした。
 中からシャープペンシルと消しゴムを取りだし、ナマエは課題に取り組んだ。

「ただいま」

 夕方、ナマエは祖父母の家に帰宅した。
 裏戸に自転車をとめて、玄関にまわり引き戸を開けるとガラガラと木の擦れる音が響いた。
 ビーチサンダルでいつも祖父母たちがいる和室まで歩いた。障子は半分開いており、その向こう側に団扇を仰ぎながらテレビを見ている祖父がいた。どうやら内容は高校野球のようである。上がり框にカバンを置くとそのまま台所へ向かうと、祖母がお米をといでいた。

「おばあちゃん、ただいま」
「ああ、おかえり。ナマエちゃん洗濯ものを取りこんできてほしいんさ」
「うん」

 ナマエは祖母に二つ返事で答えるとそのまま玄関に戻った。
 扉を抜けるとコンクリートの庭があり、そこに物干し台が設置されている。二股にわかれた先に竿が引っかかっていて、そこに干されているタオルやナマエの肌着などが微風に揺れている。それはナマエの身長を優に越えていて、物干し台のそばに立てかけてある先が二股に分かれた棒で外さなければとれない。
 暑い日差しのなかナマエは飛び出し洗濯ものにふれた。それは太陽の熱を吸収していてカイロのようだ。あまりの暖かさにナマエは顔を顰めた。

 ゆらゆらと揺れるバスタオルの向こうに紺の縞模様の袴と草履が目に映る。
 どきりとしたナマエはそのバスタオルを竿から取り外し向こう側を覗いた。

「総司?」

 向こう側には誰もいなかった。
(確かに、見えたんだけど)
 不思議に思いながら手に持っている服を籠の中に入れる。
 その後、しばらくナマエは山へと傾く日差しのなか立ち止まっていたが、総司が現れることはなかった。

 祖父のいる和室に籠を持っていき洗濯ものを畳む。今日の甲子園はこの試合で終わりらしい、祖父がぽつりとそう漏らした。ナマエはテレビの向こうで今もなお暑い日差しの中マウンドに立ち、ボールをミット目がけて投げる同じ年頃の男の子をみた。見えている部分すべてが日に焼けている。
 視線をふたたび洗濯ものに向け耳だけテレビに集中していると、祖母がやってきて夕飯ができたと言った。
ナマエは畳めたものを脇に置き立ちあがる。祖父がテレビを消したのか中継するアナウンサーの声や応援団の音は聞こえなくなった。

 上がり框に置きっぱなしだったカバンを和室に入れ、三人で夕飯を取る。今日の夕飯は酢のものと焼き魚だ。
 流しで食器を洗い乾燥機に入れて、お風呂にお湯をはりにナマエは向かった。

 和室に置いたカバンと自分の肌着を一度部屋に置きに行こうと思い、暗くなってきた廊下を歩く。木の階段をギシギシと撓らせながら上る。

 二階に上がり右側の扉を掴む。扉に手を伸ばし手前に開くと、窓から夕陽が差し込んでいて部屋全体が橙色に染まっていた。
 奥の机には辞書やナマエが持ってきた課題がブックスタンドに立ててある。
 その手前――ちょうど部屋の中央に白の着物と紺の縞模様の袴を着た彼はナマエに背を向けた状態で正座していた。
 ナマエは扉の取っ手を掴んだまま硬直した。
 昨夜のことや図書館での出来事が一気にナマエの頭の中を駆け巡り混乱する――胸が急に高鳴りだして持っていた肌着をカバンで隠すように持つ。自転車をこいでぐちゃぐちゃになっている髪を必死に撫でつける。
 総司のことが気になっていたとはいえ、自転車を漕いで汗をかいたあとで汗臭い。髪型もぐちゃぐちゃのままだ。ナマエは羞恥に自然と顔を赤らめた。

 扉を開けてもこちらを向かない総司に、ナマエは躊躇った末声をかけた。

「総司」

 いつもならすぐに振りむき返事を返す総司が、こちらを向かない。
 そんな総司の態度にナマエは驚き、次の句を告げずに戸惑っていた。部屋の中にはいり、ひとまず扉を閉める。その際に扉の金具が錆びていてギィと引き摺るような音が鳴った。それでも総司はこちらを向かない。
 先ほどまでの恥ずかしさや自分の格好を気にしていたのを忘れ、ナマエはそっと一歩、前へと進む。

「総司、どうしたの」

 そうっと、そうっと。恐る恐る一歩一歩、ゆっくりすすむ。
 総司の横までくると、窺うように総司の顔を上から覗く。前髪の向こうに見える双眸は床一点をじっと見つめていた。心なしか頬が膨れているように窺える。

「別にいいんですよー」

 発した声は少し拗ねていた。唇の先も少し尖っているように見える。
 ナマエは心配と緊張でどきどきしている気持ちをぐっとこらえて総司の言葉の続きを待つ。

「昨日の食べ物のお礼をしようと思って待ってただけなんです」
「……」
「それなのにナマエさん、なにも言わずどこかに行っちゃうし」
 そう言うと今度は顔ごとそっぽを向いた。完全に不貞腐れている。

 自然と口があいていたことにナマエは気づき、慌てて口を閉じた。窓の端にぶら下げている風鈴が風に揺らされて可愛らしい音色を鳴らした。
 肌着と鞄が腕と身体に挟まれて形が崩れている。それをそっと持ち直し、ナマエは心の隅から湧きあがる嬉しさを隠して呟いた。

「ごめんね」

 謝罪の言葉を述べたナマエの顔を見ようと、総司は反対に向けている頭を正面に戻した。顔を少し俯けたまま上目遣い気味に斜め上に立っているナマエを見やる。見えた表情に再び総司は頬を膨らませた。

「ナマエさん」
「うん?」
「謝ってるのに笑ってたら、全然だめなんですよ」
「うん」
「わかってますか」
「うん」

 相槌を打っているナマエの口角は上がりっぱなしだ。込み上げてくる笑いをこらえるのに必死のようだ。そんなナマエに総司の頬はますます膨れ上がった。堪えきれず、ナマエは笑いだした。
 総司は隣りでしゃがみ込んだナマエを眉間を寄せて恨めしそうな目で見つめる。

「総司が拗ねるからだよ」
「拗ねてません!」

 反抗するように言い返す総司に、高鳴る胸を押さえながらナマエは目の淵に溢れた涙を空いている方の手で拭った。
「総司が何に怒ってるのかわからなくて、緊張してたの」
 指先に付いた涙を他の指で擦る。驚いていた心臓がゆっくりと落ち着きを戻し始めた。
「だから、拗ねてるだけでよかった」
 ナマエは言いきるとそのまま床に腰を下ろした。体育座りの状態で足と身体の隙間に鞄と肌着を挟んだ。

「拗ねてなんか、ないです」

 先ほどよりも幾分か落ち着いた声音で総司はナマエにこたえた。そうして視線を床に落としている。片手を伸ばせば届くような距離でナマエはじっと総司を見つめた。高鳴っていた胸の中はなにか温かいもので埋め尽くされている。口角がどうしても上がってしまい、ナマエは思わず顔を横に向けて手で隠した。

「ナマエさん」

 片側から総司がそっとナマエに呼び掛ける。ナマエは手で口元を押さえながら総司の方を向いた。先程まで尖っていた唇や寄っていた眉間の皺が消えている。

「ありがとうございました」

 優しい眼差しで、礼を述べられてナマエは首を左右に振るだけで精一杯だった。胸の中があったかいもので満たされていく。

「探してくれて、ありがとう」

 精一杯の笑顔でナマエは言うと、総司は目を少し細めて優しく笑った。

「それで、あのそばに醤油を混ぜたものはなんと言うんですか?」
「焼きそば。あと、薄っぺらい煎餅に食べ物が挟まれていたのはタコせんべい」
「へぇー」
「食べれた?」

 膝の上のカバンの取っ手を弄びながら尋ねる。総司はそれににこりと微笑んで頷いた。その返答にナマエはほっと胸を撫で下ろした。

「今日は、ちょっと外に用事があって」
そう言いながら手元のカバンを総司に見えるように軽く持ち上げた。その際肌着が見えないように一緒に持ち上げる。総司はカバンを見ると納得していた。

「そうだったんですね」
「本、借りに出かけてて」

 言ってから、ナマエの脳裏を二冊の本が過った。「こころ」と――「新撰組顛末記」。
 先ほどまで暖かくなっていた気持ちがさあっと波がひいていくように静まった。
(もし、本を見られたら)
 想像して一気に肝が冷えた。ナマエは持っていたカバンと肌着を掴んで立ちあがりくるりと後ろを振り向いた。その先の襖の前に置いておいた旅行鞄まで行くとカバンを傍においた。隠すように肌着を旅行カバンの中に押し込む。

「ナマエさん?」

 総司は突然動き出したナマエに目を丸くしていた。そんな総司の前を通り過ぎ、カーテンを閉めに向かう。左右端にまとめてあるカーテンを中央まで広げながら持ってくるように引っ張る。網戸にしている片窓から突如強い風が吹き、風鈴がちりんちりんと盛大な音色を歌った。勢いでカーテンが大きく広がりナマエはその中に閉じ込められる形になった。急いで外に出ようと一歩下がる。

「そのまま」

 カーテン越しに突然肩を掴まれて、ナマエはその感触に驚き戸惑った。頭だけ振り向こうと首を捻る――カーテンで何も見えない。

「総司?」

 カーテンの向こう側の存在に、窺うように尋ねる。ナマエの言葉にこたえるように総司はそっと肩を掴んでいる手の力を緩めた。右肩に感じていた手が消える。

「ナマエさん、どうかそのままで」
 ナマエは捻っていた頭に添えられた手で、そっと前を向くことになった。

 カーテン越しに感じる総司の両手の感触に胸が高鳴り、また、これから何が起こるのかという不安でナマエの心臓はどくどくと脈を速めた。体が火照るのは網戸の向こう側の夕陽のせいではなさそうだ。
 頭に添えられていた手が離れる。風で大きく揺れていたカーテンが次第に萎んでいく。カーテンと体がぴったりと張り付く距離になった時、ナマエの頭を何かが何度も撫でるように動いた。

「よかった」

 そっと、呟かれたことばにナマエは真意がわからず答えられなかった。

「あなたが、生きていて良かった。本当に、今日はずっと心配で」
「総司」
「面と向かってだと、なんだか言いづらくて。こうやって言うことを許してください」

 ——ずるい。
 総司の言葉が、ナマエの胸を苦しいくらいにきつく締め付けた。心配をかけたことも、こうやって頭を撫でてくれるのも、どうやったって嬉しくそして申し訳なく感じる。

「総司、ごめんね」

 山の向こうに沈んでいく夕陽を見ながらつぶやく。――意識は頭を撫でる手と後ろにいるだろう総司へ向けて。
 窓の桟にそっと手をかけて、それを少しきつく掴んだ。
 ——いまなら、聞けるかもしれない。
 図書館で見つけた本、永倉新八、土方歳三、近藤勇について。

「総司は、生きていた頃、どんなだった」

 聞きたいことは山ほどあり、それらがナマエの頭の中をぐるぐると巡っていたにも関わらず――出てきたのはこんな陳腐な言葉だった。
 想いをうまく言葉に乗せきれず、そんな自分が歯がゆくナマエは顔を歪めた。撫でられていた頭の手がピタリと止まった。

「生前の私、ですか?」
 困ったような声音で総司が答えた。

 よく考えれば当たり前だ。ナマエだって子供の頃の自分を教えてくれ、と言われれば元気な子だったとか大人しかっただとしか答えようがない。伝わらない気持ちがもどかしく、唇を噛み締めた。

「自分でいうのも可笑しな話ですが、剣だけは誰にも負ける気はしませんでした」
「けん?」
「ええ。ずっと大事にしていたんですけど、一緒には持ってこれませんでした」

 後ろから布擦れの音が聞こえた。総司が何かに触れようとしたのだと気付いた。頭に乗せられていた手がそっと離れる。

「ナマエさんは、不思議な方ですね」
 ころころと、小さく総司が笑ったのをナマエは感じた。
「なにが」
「私の生前に興味を持ってくれるなんて」
「知りたいよ」

 振り絞るように言葉を吐いた。その勢いでカーテンの内側のまま振り向く。そのままカーテンを押すようにそっと手を伸ばした。――そこに、確かに感触がある。
 ドキドキと胸が異常なほど早くなり出した。ナマエの頭の中は破裂しそうだ。それでも、ナマエは手を動かすのを止めなかった。総司の顔が見えないからできるのかもしれない。
 探るように手を上へ上へとあげていく。肩、首、頬、耳たぶ――そこまで触れて、恥ずかしさにナマエは手をそっと離した。その手を、カーテンごと強く掴まれる。驚いて体が大きく震えた。

「知らない方がいいかもしれません」
 苦渋な思いで、総司は呟いた。ナマエには見えていないが、その表情はとても苦しそうだった。

「それでも、知りたい」
 たどたどしく、それでもはっきりとナマエは答え、総司の手を握り返した。

 

 


引用――永倉新八「新撰組顛末記」 新人物往来社 2009年刊行
2013年 3月 6日-2013年 3月 16日