03 :転がる万年筆、滴る黒

03 :転がる万年筆、滴る黒

 

 

「じゃあナマエちゃん、一緒に畑見に行こかぁ」

 祖母に連れられて畑に足を運ぶ。足元はスニーカーにジーンズ。上は土にまみれたTシャツ。使い古された麦藁帽子をかぶり、耳元にゆれる伸びたゴム。滴る汗を首元に巻き付けたタオルでぬぐいとり、空を仰ぐ。
「うん、おばあちゃん、喉渇いた」
 作業に取り組み、胡瓜や瓜を笊に放り込む手を止める。被りの上に帽子をかぶっていた祖母はナマエの言葉にうなずくと畑と道路の脇へと指をさした。それはナマエに休憩に行って良いという合図であった。彼女は一度縦に顔を動かすと、すぐさま笊を抱えたまま畑の端へと足を運んだ。ざくざく、と砂を踏む音の遠くで車の騒音が聞こえた。
 川のそばに佇む木。太陽の光を受けて煌めく水に、ナマエは目を細めた。木陰に潜り込み根元あたりに腰を下ろす。しばらくして麦藁帽子をはずすと、その帽子で顔を扇いだ。生ぬるい風が火照った顔を冷ますことはなく、こめかみに一筋の汗が流れた。
 腰脇に置いたペットボトルに手を伸ばし、キャップをまわす。祖母の家のお茶は少しぬるく、しかし渇ききったナマエの喉には打ってつけだった。
 ごくごくと喉を鳴らしながらお茶を飲んでいると、凭れかかった木の後ろから声が聞こえた。

「お手伝いですか」
「総司」

 ナマエが首を捻ると、既に見慣れた紺の縞模様の袴が目に入った。そのまま顔をあげれば、総司が涼しそうな顔でこちらを見ている。
 一度離したペットボトルに再び口をつけながらナマエは顔を上下に動かした。
 容器の中の液体が徐々に減っていく。
「美味しそうですね」
 ナマエの腰元に視線を止めた総司が呟く。
 彼の見つめている先に気付いたナマエはペットボトルから口を外すとまぁね、と答えた。
「おばあちゃん達が作った物だもん。当たり前だよ」
 自慢そうに話す彼女に総司は少し目を丸くすると小さく微笑んだ。
「そうですね」

 山での出来事以来、ナマエに少し変化があった。
 今まで自分を強く見せようと着飾った言葉で総司と話していた彼女が、少しずつではあるがそのままの言葉を使うようになったことである。
 元来、彼女はそういう性格だったのかもしれない。

「あ、そうだこれ」

 ナマエは立ち上がると後ろポケットに手を突っ込んで探し物を取り出した。
 長方形のそれは、漆塗りの部分が少し剥げてはいたが、上等な扇子である。

「こないだ。貸してくてれて、ありがとう」

 たどたどしくはあったが、丁寧に扇子を差し出す。
 差し出された扇子を総司は一瞥すると、すぐにナマエに目を向け軽く首を振った。
「よかったら、使って下さい。私は暑くないですから」
「いいの?」
「構いません」

 にこりと微笑まれ、ナマエは差し出していた手を引き戻すと、扇子を後ろポケットに突っ込んだ。
 そうしてもう一度腰を下ろす。

 首元に巻いているタオルで流れる汗を拭う。

 ふいに、頭上で騒がしがった蝉の合唱が止んだ。
 川のせせらぎが妙に大きく聞こえる。
 地面に置いていた麦藁帽子を拾おうと手を伸ばした時、総司が口を開いた。

「ナマエさんの生まれは、こちらではないんですよね」
「ん? そうだよ、ここはお父さんの実家」

 内側にひっついた草を払う。
 座り込んだナマエに合わせて総司もしゃがみ込む。

「どうしてこちらに?」

 その言葉に、ドキリとナマエの心臓が高鳴る。

 訳を伝えるのは簡単なことだ。

 ただ、その簡単な事をナマエは今口に出したくないと思った。
 そして、それを以前のように誤魔化そうとしたが、何故か出来ないでいる自分がいた。

 口を開けるが空気をただ無闇に食べてしまう。
 心の中が冷たい汗をかいている。呼吸が難しい。

「色々と、あるんですね」

 沈黙を破ったのは総司の声。そして頭上の蝉だった。
 ナマエは、この話が終わったのを悟った。そしてその事に安堵している自分と、少し後悔している自分がいる事に気がついた。

 手の中の麦藁帽子を深くかぶる。

 そうして後ろにいる総司の方を振り向いた。
 帽子を深くかぶった為、つばの先からは総司の白い着物から下しか見えない。

「そのうち、話すね」

 声はつとめて明るく。
 ナマエは前を向くと立ち上がろうと下半身に力を入れた。

「待ってますね、ナマエさん」

 背中から聞こえた優しいこえ。
 胸の中が暖かくなり、ふと帽子越しに手の感触を感じた。

「総司、ありがとう」

 後ろを振り向くと、彼の姿はすでにそこにいなかった。

 服に付いた砂を払う。
 眩しい日差しで焼けたのか、腕が少しヒリヒリと痛みをおびている。
 笊と空に近いペットボトルを手に取ると再び祖母の元へ足を運んだ。

***

 夕飯を食べ終え食器を片付けると、ナマエは使わせてもらっている二階の部屋に向かった。

 祖父母は腰が弱くなった為、滅多な事がない限り二階にあがってこない。
 うす暗い廊下を歩き、のぼるたびにギシギシと軋む階段を踏む。
 上った先は正面を挟んで左右に木でできた扉がある。右の取手を持ち手前に開くと、扉の金具が錆びていてギィ、と軋んだ。

 扉の向こうは、朝ナマエがここを降りた時のままだった。

 扉の向かいにある大きな窓は網戸にしてあり、微風にカーテンが靡いている。その端のほうに吊り下げている風鈴が爽やかな音色を響かせていた。
 窓から真っ赤な夕陽が差し込み、床にたたんでいた布団を照らしている。
 その傍に扇風機がぽつんと所在なく置いていた。
 部屋の中は昼間のむっとした空気が立ち込めていた。
 一人で過ごすには広い部屋の中、窓の横に置いてある昔父が使っていた机に向かった。

 机の上は辞書と昨夜取り組んでいた夏休みの課題と、蓋を開けっぱなした筆箱がスタンドの横に並んでいる。
 その手前にある、縦書き用紙と万年筆。
ナマエは椅子を引いて腰掛けると、一番上の引き出しを開けた。
 そこには、あの日以来書き溜めた総司に宛てた手紙が数枚、収まっている。
 自分が書いた文章を少し見て、どんな風に書いたか思い出す。
 再び引き出しをしまう。

 奥に並んでいる辞書の中から国語辞典を引っ張り出し、索引検索欄より後ろの方を捲る。
 季節の挨拶、と載っている場所を見つけるとナマエは早速ペンを握った。
(今日のことを書くけど、これ総司が読むのはきっと今日じゃないから)

沖田総司様

前略

先日はあなたのご質問にすぐお答えできず申し訳ありませんでした。
早速ですが、私がこの町にきた理由をお答えします。
それは私のいた町をすぐに離れたかったからです。
少し、今の自分の状況から逃げたいと

 ここまで書いて、ナマエは文字を走らせる手を止めた。そうして、ペンを置く。
 逃げたいと思って来ました。――本来なら続きにこう書くつもりだった。
 だが、ナマエは書くのをやめた。
(手紙で書くのは、何だか…卑怯だ)

 あの時、総司にナマエは「そのうち話すね」と伝えた。
 話すと伝えたのであって手紙を書くとは言っていない。
 そして彼も待っている、とナマエの言葉にしっかり返した。

 総司との約束は破りたくない、とナマエは思った。

 途中まで書き綴っていた紙をそのまま机の引き出しにしまう。

「ねぇ、総司」

 彼の名を呼んでみた。
 しかし、相手から返事は返ってこなかった。
 部屋の中をぐるりと見回し、誰もいない事を改めて確認すると、ナマエは足元の扇風機の電源を入れた。ナマエまだ明るい外の景色を遮断するようにカーテンを閉め、部屋の中心にある明かりをつけにいく。

(明日、布団干そう)

 畳んでおいた布団を真ん中に持ってきて敷く。
 襖の前に置いている旅行カバンの中から下着を取り、布団の上に置いておいた寝間着を掴むと開けっ放しだった扉に向かった。

 階下で二人がお風呂から上がるのを待ち、最後にナマエが風呂を出る頃には辺りは暗くなっていた。
 離れにあるトイレに向かうため、家の扉を開ける。玄関からトイレまで、静かな暗闇があった。
 遠くに目をやると田舎と言う事もあり、街灯が遠くにちらほらと見える。
 空は曇っているのか、星が見えない。
 通路の電気を灯し、用を済ますと、再び玄関の鍵を閉める。
 台所まで続く通路を蛍光の緑のビーチサンダル歩き、台所の前にある沓脱石(くつぬぎいし)の傍にビーチサンダルを脱ぎ、床に足をつけた。
 うす暗い静かな廊下を歩き、ギシギシと軋む階段をのぼる。

 部屋の中はカーテンを閉めていた為、真っ暗だった。
 網戸にした窓から、上空を飛ぶ飛行機の風を切る音が聞こえた。
「ナマエさん」
 部屋に一歩踏み入れた時、総司の声がした。

 ナマエはそこから立ち止まり、声のした方をきょろきょろと見回す。
 薄い暗闇の中、布団の傍の影がゆらゆらと揺れた。

「ここですよ、ここー」

 明るい声と、こちらに手を振る仕草。
「女の子の部屋に無断で入るのはどうかと思うよ、総司」
 ナマエは後ろ手に扉を閉めると、布団のそばまで歩いた。
 電気をつけようと途中にある蛍光灯に括り付けてある紐を引っ張ろうとすると、総司がそれを止めた。

「え、光ダメだったっけ」
「駄目じゃないんですけど、良いじゃないですか」

 幽霊だから暗闇が好きなんです、といけしゃあしゃあと言う総司にナマエは呆れると、わかったの返事で布団の傍に行き、彼の向かいに座り込んだ。
 曇っていた空が晴れてきたのか、カーテンから星と月の明かりがほんのり注ぎ込まれる。

「夜にあらわれるの、初めてだね」
「呼ばれましたからね」

 うす暗くて総司の表情全ては見えなかったが、声はとても優しかった。

「ナマエさんに、呼ばれましたから。眠たかったのに起きましたよ〜」

 茶目っ気ある声でそう言うと、総司はくすくすと笑った。
 ナマエは、その彼の言葉に声を詰まらせる。
(私のこえ、聞こえてたんだ)

「寝てた、って幽霊でも寝るの?」
「何言ってるんですか、幽霊だって寝ますよ! 失礼ですね」

 眉間を寄せて抗議してくる総司を見ながら、ナマエは少し心の中があったかくなるのを感じた。
 呼ばれたから、来た。――その事が何より嬉しかったのだ。
「それで」
 言葉を紡いだ総司に、呼ばれた理由を問われているのが解った。
 呼吸を整える。昼間はあんなに緊張したのに、この暗さだからだろうか、ナマエの言葉は自然と口からこぼれていた。
「総司に、何でここに来たのか話したくて」
「そうだと思いました」
 相変わらず優しい声に、ナマエは一呼吸置くと、続きを話した。

「好きだった人がいたの。それを相談していた友達と、その人が付き合う事になって。それだけ。
それだけなんだけど、私の中ではなんでか上手く気持ちの整理ができなくて、そうやってたら人をどうやって信用すれば良いのかわかんなくなったの」

 信じてきた気持ちを踏み躙られた気がした。
 真剣に相談していた。彼女は応援するね、と軽く言って最初から本音を語るつもりはなかったのかと思うと腹の底がぐつぐつと煮えたぎったのだ。
 その悲しみはただ失恋しただけとは違っていた。
 友人のことを大事だと思いたい自分と、今の自分を自分で慰めたいという気持ちの葛藤。
 友人を許したいのに、許そうとすればする程自分の心が悲鳴をあげるのだ。
 そうこうしているうちに夏休み入り、現状に嫌気がさしたナマエは祖父母の家に逃げるようにやってきた。

「私は強くない。けど、意地を張ることくらいはできるから。だから友達の前では平気な振りして、応援するねって」

 そうして出来たのが、意地っ張りで強気な態度のナマエだった。
 総司とナマエが会って間もない時の彼女の姿である。

「逃げてこられたんですね」

 その言葉にナマエは思わず総司を見た。
 表情は見えず、ただ言葉とは裏腹にとても優しい声だった。

「逃げてもいいと思いますよ。ナマエさん」
「総司」
「私は生前恋をしなかったので、ナマエさんの気持ちがわかりません」

 少し悲しそうな口調だった。
 膝の上に乗せていた拳を開くと、皺のあいだに汗がじっとり滲んでいた。

「ただ、そうですね……仲間の裏切りに遭遇し、その人捕まえなくてはならないとき、とても辛かった」

 何かを思い出している、そんな総司の口調にナマエは自分の気持ちよりも総司の心情を汲み取ろうと必死に耳を傾けた。
「だから、逃げてもいいんです」
「総司」
「ね」

 扇風機の機械音が辺りに響く。
 ナマエはこの薄暗さがもどかしかった。――総司はいま一体どんな表情をしているのだろう。それを確かめたいと思う自分がいる。
 正座しているふくらはぎとふとももの隙間が、汗でねっとりしているのがわかった。
 紛らそうと足を少し横にずらし、前にいる総司を窺うように覗き込む。

「総司、私友達と向き合う。自分の気持ちより友達を大切にするよ。きっと、時間はかかるかもしれないけど」

 ナマエの言葉に総司はかすかに微笑んだ。
 彼女は正直者で、やさしい。
 本人は気付いていないが、彼女は誰よりもまわりを大切にする。
 ――生前、総司が慕っていたあの鬼副長を思い出させる。

「大丈夫です。ナマエさんなら」

 風が吹いた。カーテンが揺らめき、浮いた隙間から明かりが漏れた。
 総司の微笑んだ顔が月明かりに照らされている。
 ナマエはその顔を見たとき、心の片隅で彼は本当に幽霊なのか、と疑ってしまった。

「あ、りがとう」

 言葉に詰まらせながら礼を言うと、ナマエはそうだ、と布団の上に掛けてあったタオルケットを持ち上げた。そして頭からタオルケットをかぶり体を覆う。まるでお化けのような姿になった。そんな彼女の動作に不審に思い、総司は思い問いただす。

「ナマエさん、どうし」
「ねえ総司、こうしたら私に触れれる?」

 彼女の言葉に総司は思わず言葉を飲み込んだ。

「まあ、触れますが」
「じゃあ、はい」

 そう言ってナマエはタオルケットから顔を覗かし、タオルケットをぐるぐる巻いて総司の前に手を差し出す。

「握手」

 その言葉に総司は苦く笑うと、そっと手を差し出した。

「本当、急に元気になりましたね」
「いいの、それが私の取り柄だから」

 タオルケット越しに感じる大きくゴツゴツとした手にナマエは改めて総司を男だと実感した。そして、直接触れることのできないはがゆさに胸が軋んだ。
 タオルケットの巻かれているナマエの手を離すと、総司は彼女の頭の上にそっと手を持っていく。

「ナマエさんを見ていると、色んな人達を思い出します」
 くすくす笑いを含みながら、総司はナマエの頭を撫でる。
「どんな人たちなの?」
「そうですね…サイゾーっていう豚を飼っていたんですけど」
「豚を思い出したの?! 人じゃなくて!?」

 思わず抗議しようと顔を上げたナマエはふいに視界が暗くなった事に気がついた。
 頭に感じる手の感触と同じものが、背中に感じる。頭にかぶっているタオルケットの耳元から、ふいに声が聞こえてくる。

「こうやって、可愛がってあげてましたねー」

 総司の声が耳元に届いた時、ナマエは自分の状況をうまく飲み込めなかった。
 背中に感じるまわされた手や腕の感触。
 左側に感じる、総司の肩と顔の感触。
 ――ただ、それらに重さは感じられなかった。

(私の顔、総司の服が当たってるハズなのに、生身の部分は’当たらない’んだ)

 

「総司」
「はい?」
「これ、抱きしめる、ていうんだよ。知ってる?」
「当たり前じゃないですかー」

 ナマエは自分の心臓が早鐘を打っている事に気づいた。平静を装おうとしたが、声は緊張の為震えていた。
 総司はとんとんとリズムを取りながら背中を優しく叩いた。

「あなたが頑張るのを、私は見ていますから。だからナマエさん、頑張って下さい」
「…ん」
 総司の言葉に返事をしようとして。出たのはこれだけだった。
「いいこですね」

 その言葉は耳元で囁かれて。
 ナマエはビクリと体を震わせた。
 まわされていた手がそっと離れる。ナマエの左側にあった総司の感触が消えた。
 総司が離れてもなお、ナマエは動く事ができなかった。

(耳元で言うなんて、わかってやってるんじゃないの)

「あれ? ナマエさん?」

 タオルケットの隙間を覗き込まれ、ナマエは思わず後退した。
 その顔は紅潮していたが、暗闇の為総司には見えなかっただろう。
 蹲りたい衝動を堪えて、ナマエはタオルケットを脱いで汗で引っ付いている髪を払うと恨めしく総司を睨んだ。

「総司、恋はしたことがないって」
「ないですよ。土方さんの後ろをついてまわった事はありますけどねー」

(天然だ…この人)

 土方という人の事はよく分からなかったが、おそらく彼のこの対応はその人の影響だけではなさそうだ。

「寝るから、もういいよ総司!」
「人を呼んでおいてなんですか! 酷いなぁもう」

 布団の上にごろんと寝転がり、タオルケットを頭からかぶると、ナマエは総司のいた場所に背を向けた。

「ナマエさん、おやすみなさい」
「おやすみ」

 ナマエはぎゅっと瞼をとじた。
 先程の出来事に頭がまだ興奮しているのかもしれない。
 暫くは眠れなさそうだ。

 

 


2012年 11月 26日