02 :時候の挨拶を書き足す

02 :時候の挨拶を書き足す

 

 

 

「いつもの夏休みでした。ある日突然幽霊が見えるようになったあたしは、おばあちゃんの家での有意義な夏休みを、ある一人の幽霊によって過ごせなくなるのです」
「彼は黒い長髪を女の子のように束ねています。見た目は今の男の子たちよりも体格はいいけれど、身長はいまいち。あたしと目を合わせるのも簡単なようだ」
「それで、ナマエさんはこれをどうするつもりなんですか」

 自転車を漕ぐ。白線で歩道と境界を貼った道路の狭さは田舎特有のもの。左右田園風景に囲まれた道を、山へ向かうため、ナマエはゆるやかな坂の続く道をひたすら自転車のペダルを回転させた。蝉の合唱、風を切る音に耳を傾け、麦藁帽子をもう一度被りなおす。ナマエは漕ぐ足を止め、右手のブレーキを押さえたまま上体を後ろへ捻る。
 蜃気楼のたなびく道路と緑色に染まった田園、眼下から広がる小さな家々の先に見える、漁船の停まる港町。そして小さな漁船が波に揺れ、きらめく青色のグラデーションの海。ナマエの頬を軽く風が撫ぜると、彼女はふと体を元に戻し、ペダルにかけた足に力を入れた。
 首筋に浮かぶ汗、じわじわと素肌を焦がしていく日差しに眩しさを感じ、ナマエは奥にある山の麓へ急いだ。

 自転車を麓に置き、近くに設置されている自動販売機に小銭を入れる。二枚の銀貨を入れてから、ボタンを押す。ガタン、と物が落下して生じた音を聞くと、プラスチックの入り口を引いて、目的のペットボトルを手中に収める。蓋を力を入れて回転させ、開いた蓋に口をつけ、液体を乾燥した喉に押し込んだ。
 麓から幾らか登った所にある休憩地点目指し、今度は自分の足で彼女は坂道を登り始めた。
 チュニック調の刺繍の施された白のトップに紺のタンクトップを着、ボトムに黒のショートパンツを穿いている。足元は蛍光の緑の鼻緒のビーチサンダル。
 コンクリートの敷かれた山道を登る服装としてはいまいちで、ナマエは息を切らしながら足を前に進める。
 暫く歩いたナマエの前に木陰にベンチを設置した休憩地点と書かれた看板が目に映る。ナマエはベンチの前まで着くと、膝元に両手をつき、がくりと項垂れた。
「お疲れ様です。ナマエさん」
 足元を見ていたナマエは顔を上げる。先にあるベンチに、沖田総司が腰をかけていた。袂からと取り出した扇子が目に入る。ナマエは膝から手を離し、ゆっくりベンチに腰掛ける。相変わらず彼は白の着物に、紺の縞模様の入った袴である。
 暑苦しさに耐え切れなくなったナマエは目を逸らした。
 ――なぜあたしには幽霊がみえるのだろう。
 頭上から響く蝉の鳴き声、足元の木陰、数歩先の直射日光、眼下に広がる町並み、きらきら眩しい海。ナマエはそれらの景色を目を細めて見つめる。ふと、横から風を感じ彼へ視線を戻した。彼は先ほど取り出した扇子を広げ、上下に扇子を動かしていた。
「…総司、あたしにばっかりしないで良いよ。暑いでしょ」
 ナマエの言葉に彼は「いいえ」と首を横に振った。
「私は大丈夫ですから」
「そう」
 ナマエは被っていた帽子を外すと、膝に置き体をベンチに預けた。
(風、ほんとにきた)
 ナマエの顔にあたる微かな風は総司の扇子から生じたものだ。幽霊の風でも届くものなのだと知り、何故か彼女は胸が軋んだ。

「ところで総司、あれを返して」

 ナマエの言葉に総司は目を丸くし、首をかしげる。扇いでいた扇子の手を止めると、彼はそれを膝元に置いた。
「何のことです」
「とぼけるなー、私のメモ帳勝手に読んだでしょ。しかも勝手に持ってくし」
 その言葉に彼は「ああ」と何かを思い出したらしく、掌を下にし、握り締めた片手をその下に置いた。ぽん、と音が鳴った後、懐から彼は丸く包んだ紙を取り出した。
「これのことですか」
「そう、それ! ほら返して」
 伸ばした手は紙に届かず、ただ空を切る。ナマエは総司を睨むと、返せと少し言葉を荒げて呟いた。彼は静かにその筒状の紙を広げると、右から左へ目を動かした。ナマエはその彼の様子を見ながら、唇を少しかみ締める。書いた本人に直接内容を読まれているという状況に羞恥心を感じる。
「いつもの夏休みでした。ある日突然幽霊が見えるようになったあたしは、おばあちゃんの家での有意義な夏休みを、ある一人の幽霊によって過ごせなくなるのです」
「うん、本当のことでしょ」
 文章を読み上げる総司に楯突くようナマエは言葉を言い返す。その言葉を聞き流した総司は、ふとある場所で視線を止めた。
「彼は黒い長髪を女の子のように束ねています。見た目は今の男の子たちよりも体格はいいけれど、身長はいまいち。あたしと目を合わせるのも簡単なようだ」
 その文を読んだ総司は紙から視線を外すとナマエをじっと見つめた。女の子のようだと言われれば、やはり嫌だろう。ナマエはそう思い、その文についての弁解のことばを捜した。
「えーとね、総司」
「拙い文章ですね」
 彼の言葉に、ナマエは言葉を詰まらせた。視線を外そうと試みたがそれは困難で、彼から視線を外すことができない。
「文章に使っている単語、熟語が幼稚で、使う言葉も滅茶苦茶」
「べ、別にそれは良いじゃない! あたしが好き勝手に書いてるわけだし」
 ナマエの言葉に彼は「そうですか」と軽く返事をした後、紙をくるくる巻き戻し、筒状になったとき、紙の紐で括り直す。
「それで、ナマエさんはこれをどうするつもりなんですか」
 その言葉と共に総司はナマエに紙を返す。ぽとりと可愛らしい音と共に麦藁帽子の上に紙が落ちる。

 総司の一言に、ナマエは敗北感を味わった。言葉を返すが、彼の発する言葉にナマエの言葉はは、すべて飲み込まれてしまっている。太刀打ちできない。返せば返すほど、己の言葉が総司の言葉で言う「稚拙で幼稚」なナマエへとなってしまう。

 空は晴れていた。蝉の声は聞こえる。項に感じる、汗をナマエは払うように拭うと、地面についていた足をベンチへ持ち上げた。足と体に挟まった帽子が押しつぶされ、紙が隙間へと入り込む。
「別に、どうするつもりなんてないよ。ただ、こんな新鮮な毎日を、これまで過ごしたことがなかったから。それを文章に書き残しておきたいなって思ったの。だって、さ、忘れてしまうのが怖い。その気持ちを残したままの時に書いておいたら、いろんなことが思い出せるんじゃないかなって思って。ただ、それだけ。別にみんなに見せるために書いてる訳じゃないよ」
 最後の言葉は総司に投げるように呟いた。ナマエは心の奥から突いて出た自分の言葉に驚いていた。素直な言葉を口にするのが久しかったからだ。喉の奥に詰まっていた黒い靄のようなものがふっと追い出されたような開放感に、ナマエは気づいた。

「やっと泣けましたね」
 その言葉に、ナマエは顔を上げた。横を見ると、彼はにこりと微笑んでいた。そういえば、とナマエは先ほどの彼を思い出す。

(総司は別に、あたしを責めているように思えなかった。ただ、尋ねてるだけで)
 己を責めていると感じたのは何故なのだろう。ナマエは自然と彼のことば一つ一つを尋問のように取っていた。そうしてもう一度ナマエは気づいた。――あたしがその言葉を素直に聞くことができなかったからだ。
 ぽろぽろ地面に黒い染みができた。木漏れ日に照らされた地面に、轟音を轟かせた空を見上げる。青い空に一点の飛行機、その形跡を残すかのように一本の白線が浮かんでいる。
「ナマエさんの本当のことばは綺麗ですよ」

 彼の声が蝉の合唱と共に聞こえる。

「とても純粋で、きらきらした宝石のようで」

 少しの間をおいて、彼はくすぐったくなるような声音を洩らした。

「あなたの素直な気持ちに沿えて、書いてみたらどうですか」
 ナマエは急に間に挟まっていた麦藁帽子の感触が消えたことに気づいた。そして、頭に何かがかぶさったのがわかる。

「ね」

 総司の声にナマエがこくりと頷くのを見ると、彼はそっと麦藁帽子の上から数回軽く頭を叩いた。ナマエの垣間見せる素直な言葉に、総司は毎度驚かされる。いつもの揶揄や野次ではない、こころとことばを直結させた声。膝元の扇子をベンチに置き、彼は立ち上がった。

(一瞬、そんな気がした)
 顔を上げたとき、隣に沖田総司の姿はなかった。かわりに、ナマエの隣に黒を基調とした扇子が置いてある。そっと手を近づけてみるとそれは、実体を持っていた。少し年季の入ったもののようで、漆塗りの剥がれた部分も見える。
 それを手中に収めたナマエはズボンのポケットに挟むと。持っていたペットボトルの蓋を開け、それを地面に置いた。
(扇子のお礼)
 そして持っていた紙を近くのゴミ箱に放り込む。そうして麓まで歩いた。
(さっき、あたしが泣いてたとき、頭、撫でてくれた)
 俯いていたナマエに帽子が被った際、帽子越しに何度か頭を叩くような感触がした。
(少し、おっきかったな、手)

 風鈴の鳴る窓を開ける。網戸越しにみえる電柱や、近隣の一軒住宅。それを眺めた後、ナマエは父が使っていたという机に腰掛ける。
 スタンドを少し奥に置き、そっと縦紙用紙を広げる。
 筆箱からボールペンを取り出すと、一番端に、そっと字をつづる。
「沖田 総司 様」
 父の机に並んでいる本の中から辞書を取り出す。
「拝啓 蝉しぐれ…」

沖田 総司 様

拝啓

蝉しぐれ裏山に聞こえる季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、先日は私の文章に対する批評、ありがとう御座います。
その批評を聞き、私はひとつの決意をしました。
これから毎日沖田総司様宛ての手紙を書かせていただきます。
何卒ご迷惑をお掛けしますが、どうぞよろしくお願いします。
乱文乱筆失礼します。

敬具

ミョウジ ナマエ

 書き終えると、ナマエはその紙をそっと引き出しの中に入れた。
「ナマエちゃん、手伝っておくれ」
 階下から祖母の声がし、ナマエは椅子を引くと、ドアへと足を動かした。

 

 


2007年 7月 21日