光
アルミの中の蕎麦があと少しだけ残っている。茫然とそれを見つめて、私は泣いていた。悲しみに涙がどんどん溢れてこぼれていく。
藤代くんが吐くように言った言葉が私の胸に突き刺さっている。不愉快、お説教、だって。結構直球で言われるとグサッてくるな。でも、私だってそういうつもりで言ったんじゃないのに。しょうがじゃない、藤代くんがあんな事を言ってきたんだもん。
だって藤代くんが――あれ、ちょっと待って。
私はしゃくり上げながら、なにか大事なことを見落としていることに気付いた。視界が滲んで揺れている。
藤代くんはさっき、電話の子は彼女じゃないって、言わなかった…?
自分が傷ついたことに手一杯になってしまっていて、今になるまで気づかなかった。藤代くんは、今誰とも付き合っていないって言っていた。それは、つまり。
つまり、私の勝手な思い違いのせいで、藤代くんは本来言われなくていい事を私に言われてしまったのだ。ただ優しくしてくれただけなのに、慰めてくれようとしただけなのに。
そうとわかった途端、私はやってしまったという大きな衝撃と後悔に嵐にかられた。
ああ、なんで私はこんなにばかで弱虫なんだろう。
勝手に彼女がいるんだと決めつけて、一人で傷ついたような顔して、被害者ぶって。ここまで駆けつけてくれた藤代くんを加害者のように扱って。
私が弱虫なばっかりに、きちんと藤代くんに確認することができなかった。ちゃんと聞いていれば、こんなことにならなかったのに。
唇を噛む歯がガタガタと震えている。鼻がヒクヒクと痙攣してしゃくりが止まらない。
どうしよう、どうしよう。このままじゃ、もう謝ることもできなくなるかもしれない。
目だけ忙しなくきょろきょろ動かす。唾を飲み込んだ時、カサ、と小さい音が聞こえた気がした。
音がした方を振り向いてあっとした。玄関口に、恋の欠片がコロンと転がっていた。
薄い桜色のそれが、じっと私を見つめているようにみえた。
いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。そんなこと、わかってる。
わかったから!
そう念じたら、急にお腹の辺りにすとん、と何かが落ちた。オロオロしていた気持ちがスッと体から抜けていく。気付けば体が勝手に動き始めていた。テーブルに手をついて立てば、そのまま玄関へ体を向ける。地面に転がっているそれを私は力強く掴んだ。
それはとても柔らかくて、優しくて、けれども私の哀しみを帯びたせいでとても冷たくなっていた。でも、微かに脈を鳴らしている。どくん、どくん。
一呼吸の後、私はそれを口元に運んだ。頬張れば、掌と同じくらい大きかったはずなのに口の中に収まった。コクン、と喉を鳴らす時には何も口に残っていなくて、言うなら空気を飲み込んだようだった。けれどそれは、確実に私の体の中に戻ってきた。そう、戻ってきたんだと思う。胸の辺りがざわざわする、それと同じくらい体の奥から熱が込み上げてくる。
藤代くんのあの目が、力強い腕が、笑わせてくれるところが――好き、好き、好き。
部屋を飛び出していた。コートも羽織らないで、こんな寒い中飛び出してしまったけど仕方がない。だって、その間にも藤代くんがどこかに行ってしまう。
空気は私を瞬時に冷やすほど冷えていて、薄着の上半身の至る所に鳥肌が立った。階段を下りて、道に抜ければ既に藤代くんの姿が見当たらなかった。
駅へ向かったのかな、それしか浮かばない。
さっき通ったばかりの道へ私は走り出した。風を切れば肌を空気が刺して痛いし、シャレにならないくらい耳も頭もキンキンする。藤代くんはさっき私を探していたって言ってた。それは、こんなことをしていたってことだ。こうまでして探してくれた相手に、言う言葉じゃなかった。安易だったと、思うのは今さらだけど。
公園の横を通り過ぎようとして、急ブレーキをかけた。だって、そこに藤代くんが立っていたのだ。
あの舞台でスポットライトを当てられたようなブランコの前で、藤代くんが俳優のように立っていた。影が落ちて、藤代くんの顔が見えない。
「藤代くん!」
私の声は思いの外あたりに響いた。こんな夜も落ちた時間に車も飛行機も動いていないから当たり前っていえば当たり前なんだけど。
藤代くんは私の声に振り向いて、驚いた顔をした。
「ナマエちゃん……」
藤代くんが私の名前を呼んだ、でもそのあとの言葉は公園の入り口に居た私には届かなかった。前へ前へと進んで、私はスポットライトに照らされるまで近づいた。
寒いのに、なんだか照らされているからかな、ちょっぴりあったかい。膝に手をついてそんなことを思っていたら、肩に何かが被さった。とても、温いそれは。
「なにしてんの、そんなカッコで」
顔だけ上げれば、藤代くんが少し怒ったように私にダウンを掛けてくれていた。私の肩から伸びている腕が筋張ってて男らしいなとか、フリースの隙間から見える首筋やうなじが寒そうだとか色々頭の中に浮かんだ。けど、それよりも――。
「すき」
「……え?」
「すき、私、藤代くんが、すき」
私の心を占めているそれが、考えるよりも先に口から飛び出していた。
――やっと言えた。そう思うと胸の中にじわりと温もりが広がって、何故か急に涙が込み上げてきた。涙がこぼれる。
落としていた腰を上げて、向かい合った藤代くんをまっすぐ見つめた。
「気付いたら、藤代くんのこと好きになってた。でも言えなくて、ずっと言えなくて、だから今日電話したの。
電話の人、彼女だと思って落ち込んで自分のことでいっぱいになってしまって、私藤代くんに変なことばかり言っちゃった。ここまで来てくれたのに、ごめんなさい。でも、私は藤代くんがすき」
一気に言ったけど、それでも私の胸の中はまだ気持ちがとめどなく溢れて止まらない。込み上げてくる衝動を止められなくて、藤代くんから視線をそらして、下を見ながらもう一度口を開いた。
「私に冗談でも好きになったら、って言ってくれて嬉しかった。だから、好きになっちゃったのかもしれない。ここまで来てくれた藤代くんの優しさが好き、笑ってる藤代くんが好き、嘘じゃないよ、本当に、す」
好きなんだよって言おうとした私の口は、藤代くんの手のひらに押さえこまれてしまった。
ぱちぱちと瞬けば、涙が零れてさっきまで滲んで見えなかった視界が広がる。
「ちょっと、マジで、ストップ」
顔を横に逸らした藤代くんが、私の方を見ないでそう言った。見えている耳やうなじが赤い。――それを見た私も、つられて真っ赤になった。
「…むぐ」
「はぁー」
藤代くんは、私の口を塞いだまま盛大なため息を溢した。
私は足が冷えてきて感覚が麻痺して来たり、冷たくて耳が痛いのに、なぜか熱いと感じていた。特に、藤代くんの手のひらが当たっている口とか頬が熱くて、そこに神経が集中して余計に心拍数がはやる。
「…………あのさ」
藤代くんは地面と睨めっこしながらぽつりと言葉を発した。
私は、藤代くんの手のひらが邪魔をしてただ見つめる。
「俺、結構負けず嫌いなの」
……なんで急にそんな話になるんだろう。
私は、いま告白したんだよね。だから、普通ならここでその返事がかえってくるはずなんだけれど。
話の流れが掴めず、私はただぽかんと、話し続ける藤代くんのツムジを見ていた。
「カッコつけたいし、で、負けたままはヤだしカッコ悪いのもヤなわけ」
私の口を塞いでいた手がそっと離れた。その手が、私の両肩を離さないと捕まえる。
「だから、覚悟してよ?」
藤代くんが顔を少し上げて、私を挑戦的な目で見てきた。獲物を狙うような、ギラギラした目。その目と合った途端、私は顔がもう一度紅潮していくのがわかった。寒さよりも何よりも、今目の前の出来事に緊張して体が震えそう。
「まずさ、あれは冗談じゃないから。俺はナマエちゃんを狙ってた」
「…えっと…?」
「ナマエちゃんが俺を好きになればいいってずっと思ってた。いつだって本気で言ってた。ナマエちゃんはいつも冗談って流していたけどさ、冗談なんかで言うもんか」
藤代くんが言っていることを理解しようとして、途中で私の頭の中はフリーズしてしまった。だって、それは――。
「俺、ナマエちゃんと帰るとき、いつだってナマエちゃんが部屋に入るまで、あの入り口で立ってた。電話なんか、ナマエちゃんが切るまでずっと切ったことなかった。きっとナマエちゃんは気にも止めてなかっただろうけど。
…あの人の事相談されるのは辛かったし悔しかった。応援なんてほんとはヤだし、でもやきもち焼いてんのってカッコわるいじゃん?」
藤代くんの独白を聞いていて、私は恥ずかしさに居た堪れなくなってきた。さっき私は、こんなことを藤代くんにやってたんだ。穴があったら入りたい。
視線をそらしたら、両肩をぐらりと揺らされた。前を見たら、藤代くんが拗ねたような目をしていた。心なしか唇も尖っている。
「まだだよ、こんなもんじゃ終わんないから」
ハクハクと口が動くだけで、肝心な声が出ない。こんなの、心臓が持たないよって思っている間に藤代くんは再び話し始めた。
「今日、電話くれてすごい嬉しかったけど、正直言うとかなりへこんだ。新年早々なんの報告だろうって。
けど、ナマエちゃんは新年の挨拶とか言っておきながら何も言わずに切っちゃうし、おまけに従姉妹を彼女扱いするからさー、勘違いや電話の理由はもう会って全部聞けばいっかって思ったわけ!
…なんかさっき色々あったけど、でも本当ナマエちゃんに会ってよかったって、今思ってる」
藤代くんの声が途切れて、あたりがしんと静まった。土を踏む足音一つですら大きく響く中で、私たちはただ無言で見つめ合う。
あの電話の人はいとこだったんだとか、だから藤代くんはここまでやって来たんだとか、さっきまでの私ならその一つ一つに納得している余裕があったかもしれない。けれど、もう無理だ。
だってもう、そんなことにかまけていられるほどの気持ちがないのだから。
「ふじし…」
「俺、ナマエちゃんをずっと見てた。公園で喋ってた時も、本当は家に送りたくなかった」
「……うん」
「離れたくない、ずっと一緒にいたいんだ。――ナマエちゃんが好き」
藤代くんの言葉が私の体を麻痺させていく。ねえ藤代くん、私、胸が苦しくて仕方がないよう。呼吸が苦しくなって、涙がまた、込み上げてくる。
「ナマエちゃん、好きだよ」
そんなに優しい声で言われたら、もう。愛しくて恋しくて、私の胸がきゅうってなったと思えば涙が浮いていた。滲んだ水の向こうで藤代くんが笑っている。なんだろう、なんて言うんだろう、こういうの。
「手、繋ぎたい、ナマエちゃんを抱きしめたいし、キスもいっぱいしたい。――他の人なんか見ないで、ずっと俺の事見ててほしい」
「………うん」
「ねえ、今、全部叶えてもいい?」
心臓がバクバク大きな音を立ててる。本当にこれは現実? 夢じゃない?
確かめるように、私は藤代くんの服に手を伸ばした。フリースの生地はやわらかくて冷えた私の手を包み込む。夢じゃないって思いながら、私は言葉の代わりに頷いた。それをじっと見ていた藤代くんが静かに口を開いた。
「じゃあ」
言葉の続きを示すように、藤代くんはフリースを掴んでいた私の手を絡め取ってしまった。その手を引っ張られて前に一歩進んだところで、藤代くんの手が後頭部に回されていた。あっという間に、藤代くんの凛々しい眉や目がすぐそばにやってきて。半分くらい閉じた目はとろけるような熱を含んでいるみたい。
目のふちや傍にあるほくろも、全てがほんのり赤いなあキレイだなあってぼうっと見とれていると、伏し目がちの目がジトッと照れながら私を見た。
「早く、目閉じてよ」
甘えるような声色で催促されて、私はくらりと体が揺れるのを感じた。それは、藤代くん、色気がありすぎるよ。
心臓が壊れそうなくらいドキドキと高鳴っている。壊されまいと必死に堪えて目をぎゅっと閉じる。
藤代くんの唇が、触れた。やわらかい感触に、心臓がドクンって大きく鳴り響く。
離れたと思えばすぐに口づけがふってくる。さん、よん、ご、なんて数えていてもキリがないのはわかってる。けれど、そんな事でも考えていないと、背中を走る甘い痺れに耐えられないのだ。だって、藤代くんが最初は触れるようだったのに、急に音を立てはじめるんだもの。耳の神経まで侵されてるみたいで、それ一色で染まっちゃうみたいで、なんだか恥ずかしい。
ただただ必死に藤代くんの唇を受け入れていたら、絡まっていた指がほどけた。背中にがっしりした腕の感触、胸やお腹にあたるのはきっと藤代くんの体だ。首筋にひやりと触れたのは藤代くんの鼻。吐息がこそばゆい。真っ赤な耳が目の前に来て、ちょっぴり庇護欲を掻き立てられた。悴む指を開いて、藤代くんの背中に回してみる。
「……あのさ」
「う、うん」
「俺、今日生まれたんだけど」
「…」
言われて、ハッと我に返る。そうだ、藤代くんに会ってから、私はまだ一つしか達成できていない。いや、これだけでも十分、なんだけれど。
今日は一月一日、元旦、藤代くんの生まれた日。
「あの、藤代くん」
「ん?」
「その、続きは私のおうちに帰ってからにしませんか?」
その真っ赤な耳元に優しく囁けば、藤代くんが顔を起こした。とろんとしたその目が優しさを帯びている。唇が心なしか笑ってる。
このままじゃ二人そろって風邪ひいちゃいそうだもんね、って言った藤代くんの声が白い息と共にふわりと浮かんでいる。ま、それもいっかなんて言われると、胸の辺りがむずがゆくなる。そうだ、こういうのをしあわせって言うんだ。
公園を抜けて、私の住んでいる家へ二人で並びながら向かう。
入り口から出たとき、ふいにコロンと軽やかな音が鳴ったような気がして。
振り向いたけれど、どこにもそれは見当たらなかった。――そっか、私の心の中で鳴ったんだね。
あの桜色の恋は、今私の中で一つになれたんだね。ありがとう。
「ナマエちゃんち帰ったらさ」
「とりあえず炬燵に入る? つけたままだからあったかいと思うよ」
「じゃあ一緒に入ってあったまろー」
「うん、そうだね」
「…ちゃんと、言ってよ。さっきの」
俺、ずっと待ってたんだから。
そう言った藤代くんにまた胸がきゅうっとする。好きって気持ちが湧いてくる。胸があったかくなる。
もちろんそのつもりだよ、なんて言ったらきっと藤代くんはどんな顔をするかな。考えようと思って、けれどすぐに私はやめた。
だって想像しなくても、今からその反応を見れるんだもの。
お家についたらすぐに誕生日おめでとうって伝えるから。藤代くん、待っててね。
この道を少し歩いたら、左手に見える白い壁のアパート。ワンルームの私の家までもうすぐ。
— end —