2:闇

 

 

 一人暮らしのアパートの前まで来たら、気が緩んで余計に涙がどっと溢れた。
 よく考えたら、弱虫なりにかなり頑張ったと思う。今までの私だったなら、きっと電話をかけることも一切できないまま終わってたもの。濡れた頬を手で撫でる。冷気に触れて手が寒いけど構うもんか。新年早々頑張った、辛いことに正面から向き合えた。
 自分を慰めて、気持ちを前向きに持っていこうと心がけながら、私はアパートの玄関扉を潜る。そして階段を上がろうとした時だった。

「あ」

 階上から降ってきた声に顔を上げれば、踊り場に藤代くんが立っていた。

「え?」

 一瞬何が起こったのかわからず、私は呆然としてしまった。今日はこんなことばっかりだと頭の片隅で思いつつ、じわじわと混乱が押し寄せてくる。一体どうしてここに藤代くんが?――私があんな電話をしたから来たんだ!
 理解と同時に心臓が早く鳴り出した。さっきまで考えていた事が吹っ飛ぶ。

「ナマエちゃんどこ行ってたの」

 一歩も動けない私の代わりに、藤代くんが降りてきた。近づいてきた藤代くんが手を伸ばしてきて右腕を掴まれた。その拍子に私の手首にぶら下がっているビニール袋がガサガサ音を立てた。
 驚いてびっくりして、未だなにも発せないでいると、藤代くんが一人喋りはじめた。

「さっきナマエちゃん止めたのに電話切ったでしょ? 俺あの後すぐ掛け直したのに元旦だから何回かけても繋がんなくって。もういっその事直接会った方が早いかなーって思ってここまで来た!」

 そう一気に捲し立てるように言ってから、藤代くんはにへらって笑った。よく見れば首筋に、季節外れの汗を掻いている。

「着いたら家明かりついてないし、ピンポン鳴らして出てこないからちょこっと近くを回って、そろそろ帰ってきたかなーってまたピンポンしたけどいなくて。で、もう一回探しに行こうとしたら、ナマエちゃんが帰ってきた」

 とりあえず会えてよかった、って笑う藤代くんに罪悪感を感じる。私が電話をかけたばかりに、あの電話の女性と何かあったのかもしれない。それで、ここまで来たのだ。本当に悪いことをしてしまった。そう思いながら、どこかで私が傷ついている。思わず俯いてしまった。

「あの」
「ん?」
「藤代くん、ごめんね、私が電話なんてかけたから」
「……」
「一緒にお正月、楽しんで」
「ッくしょん!」
「……え?」

 藤代くんが盛大なくしゃみを溢して、私は自分が言おうとしていた言葉を忘れてしまった。顔を上げれば、藤代くんは掴んでいない方の手でごしごしと鼻を擦っている。手が離れた藤代くんの鼻は赤くなっていた。啜った鼻からずずって音まで聞こえてきて、どうしたんだろうと思わず目を見れば、言いにくそうに藤代くんは目を逸らした。

「ナマエちゃんとこ早く行こうって急いだら、その」

 実はダウンの下パジャマで、なんて照れながら言うもんだから、私は落ち込んで泣いていたのもすっかり忘れて、急いで藤代くんを部屋の中へ引っ張った。

 

 

 部屋の中に藤代くんを招いた私は明かりをつけ、暖房を入れ、一人用炬燵のスイッチも入れて藤代くんを炬燵の中に押し込んだ。私はコートを脱ぎ手洗いを済ませると、急いで電気ポットでお湯を沸かした。

「ナマエちゃんって手際いいー」
「そう、かな」

 藤代くんが後ろから声を掛けてきて、私は仕事服のまま着替えることもできず、ビニール袋の蕎麦を食べる準備をした。
 お湯が温まるまでのあいだ、部屋の中が静かになった。けれど、私は肝心な言葉をかけることもできず、ただガスコンロの上の蕎麦を見つめた。ゼリー状だった出汁が液体に変わっていく。ぐつぐつ蕎麦が煮込まれて、白い湯気が出てくると、ワンルームの私の部屋はあっという間に暖まった。

「ナマエちゃんご飯まだだったんだ」

 後ろから藤代くんが話しかけてくる。私は背を向けたままそうなの、と答えた。今になってようやっと状況を掴めてきたからだ。さっきまで私は泣いていたのだ、後ろで炬燵にいる人を想って。想いが願わないと知って。
 どうして藤代くんはここに来たんだろう。どうしてここだとわかったんだろう。私に会った方が早いって言っていた。それはどういうことだったのかな。うっかり上げてしまったけれど、却って電話の女性に怒られないだろうか。心配すればするほど胸が痛くなる。

「藤代くんは食べた?」
「うん、もうお菓子もすっごく食べたからおなかいっぱい」
「よかったね」

 火を止めてミトンでアルミ部分を掴んで、炬燵の上に蕎麦を持っていく。一旦キッチンに戻ってお茶を作ると、マグに入れて藤代くんの前に差し出した。

「ありがとー」

 藤代くんは既にダウンを脱いでいた。さっきの言葉は本当らしく、長袖のグレーのスウェット一枚でなんだかとても寒そうだった。
 マグを受け取った藤代くんは両手で持とうとして熱かったらしい、一度びくりと肩を揺らして手を離した。それから恐る恐ると言った様子でマグに触れた。
 私は蕎麦を持ってきたのはいいけれど、藤代くんに食べているところを見られるのが恥ずかしくなって、なかなか箸を進められない。

「藤代くん、テレビでも見る?」
「んーいい」

 断られて、リモコンをテーブルに置き直す。藤代くんがじっとマグを見ているのを確認して、蕎麦を啜った。麺が熱くてなかなか飲み込めない。

「ナマエちゃん、なんでこんなに遅かったの?」

 麺と格闘していると、話しかけられてしまった。口の中の麺が熱くて目の端に涙が浮かんでる。こんなタイミングで尋ねられて困っていても、藤代くんはじっと私を見ていた。恥ずかしくなって口元を手で隠して飲み込む。

「今日は、仕事で」
「大晦日に!?」
「うん」
「うわー大変じゃん。それでご飯食べれてなかったんだ。あ、気にせず食べてよ」
「……」

 気にせず食べられる訳がない。どうしたって、藤代くんがいれば気になっちゃう。

「俺が食べさせてあげよっか」

 向かいに座っている彼は、冗談なのか本気なのかわからない様子で言った。
 私は慌てて蕎麦を食べる。このままじゃ麺が伸びちゃう。
 どうせフラれた相手だ、もう気にしないでいこう。
 私は眼前の蕎麦に集中してひたすら食べることに専念した。どんなに向かいから視線が刺さっても、気にしないことにした。

「ナマエちゃん、さっきの電話、俺になにか用があったでしょ?」

 麺が伸びちゃう。あげもはやく食べちゃわないと。

「新年の挨拶だけで電話なんかかけてくんないよ、ナマエちゃんって人は」

 ネギも出汁を吸っていて美味しい。お汁溢さないようにしないと。

「俺、知ってるよ、ナマエちゃんがどんな時に電話くれるか」

 あと少しで食べ終わるのに、なんで今言うかな。
 私は残りの蕎麦を食べるのを止めた。箸を持ったまま顔を上げれば、優しく笑った藤代くんの目が私を見ていた。

「生半可なことじゃ連絡してこない。決まったことや本当に大事なことでしかかけてこない。だから俺、ここまでやって来たんだよ」

 優しく笑いかけないで。余計に辛くなっちゃうよ。
 藤代くんはきっと、私が片思いしていた人に告白でもしたんだと思っている。きっとそう思っているんだ。だから、それが例え成就していてもいなくてもいいから、傍にいてくれようとして、駆けつけてくれたんだ。
 マグに触れていた手が伸びてきて、頭を撫でられる。

「一人で抱えて泣いちゃダメだって言ったじゃん」

 違うよ、フラれたけど、彼じゃない。勘違いしないで、私は藤代くんにフラれたんだよ。
 泣いたのはやっぱりばれていたらしく、藤代くんはナマエちゃん目真っ赤っか〜なんて軽い口調で言って、一呼吸のあとに、こういった。

「だから、俺にしとけばよかったのに」

 軽く言われた言葉に、私の心は大きく傷ついた。止まっていた涙がぶわって沸き上がる。
 ぽたぽたぽた。
 藤代くんは悪くない。悪くないのは解っているけど。それでも、その言葉に酷く苛立ちも感じたのだ。彼女がいるのに、どうしてそんなことを言ってのけるんだ。
 涙を溢しながら藤代くんを睨むように見れば、彼はきょとんと目を丸くしていた。

「…え? どうしたの? なんで泣いてんの。俺何かひどいこと言った?」

 訳が分からないと言った様子で藤代くんはあたふたと戸惑っている。

「藤代くんは、いま、ひどいことを言ったよ」
「ん? 俺言った? どれがいけなかった?」
「言ったんだよ」
「えー言ったの?…わかんない」

 腕を組んで、唇を尖らせて明後日の方向を見つめている。

「彼女さんがいるのに、そういう事、冗談でも言うのは、ダメだと思う」
「……」
「すごく、ひどいこと言うんだって思ったし、私にも失礼だよ」
「なにそれ」

 視線を感じたけれど、怖くて顔を上げられなかった。

「ここまで来てお説教されると思わなかった」

 そうじゃないのに。

「俺、ナマエちゃんの為にと思ったんだけど…結構傷つく、そういう風に言われんの」

 ぐって唇をかみしめた、その横を涙が流れる。
 向かいに座っていた藤代くんが動く気配を感じた。心がざわり、ざわりと嫌な音を立ててる。

「ごめん、俺帰る」

 あっと思って顔を上げれば、藤代くんは既に立ち上がって私に背中を向けていた。横顔を覗き見ることも叶わない。ダウンを羽織ると藤代くんは数歩で玄関までさっさと行ってしまった。

「あとさ、勝手にさっきの子彼女って決めないでくれる? 俺今一人だし、そういう勝手な解釈っていうの? 不愉快だから」

 扉に手をかけて、こちらを少しだけ向いた藤代くんはそれだけ言うと、真っ暗な街へ消えてしまった。バタンと扉が閉まっても、私の涙は止まらなかった。
 だって、傷ついたのは私だよ?