1:影

 

 

 もうすぐ日を跨ぐというのに、駅のホームは賑やかな声で溢れている。日が日だから仕方ない。そんななかを、私は一人ぽつんと立っていた。
 木枯らしが吹いて、肌の出ている部分がぶるっとして鳥肌が立った。うう寒い、なんて思っていたら、つい声になってしまった。恥ずかしくなって頭を俯けて、顔をマフラーに突っ込む。ポケットに突っ込んだままの手首には今日の晩ご飯がぶら下がってる。肩にかけた鞄がやけに重たい。
 会社からの帰り道はなぜか身体がだるくなる。きっと仕事のあいだ、着ている服以上の重荷を背負ってるからだ。ミスできないプレッシャーや悪口に上司からの期待、たくさん私の上に乗っかってくる。だから、会社から離れるとその気負いを下ろせて、反動で疲れてるのかもしれない。

 大晦日に仕事をするのはサービス業くらいだと思っていた、そんな昔の自分を恨みます。昔の私、サービス業じゃなくてもこんなに遅くまで働いてるよ。

 まわりの人たちはみんな、どこか浮き足立っていて、もうすぐやってくる新しい年にそわそわしてる。どこかから、今年一年を漢字一文字で表現したら、来年はどんな一年にしたい、なんて話題で盛り上がっている声も届いた。

 そっか、もう明日は来年なんだ。

 こうも毎日毎日働いてると、季節の変わり目だとか年の瀬もあまり実感がわかなくなる。
 きっと今頃、実家ではお母さんがお節を作り終えて紅白を見てたり、お父さんやお姉ちゃんが年越しそばでもすすってるのかな。その様子が頭に浮かんで、急に実家に帰りたくなった。一人で年を越すのは、やっぱり寂しくなる。
 ビニールの中の蕎麦が風に吹かれてゆらゆらと揺れる。

 元旦ということは、あの人の生まれた日でもあるんだよね。さっきから隅のほうでちらついてた意識を表に引っ張りだしてみる。ずっと無理に隠しているよりはいっそ清々しいじゃん、なんてね。
 いつだって私は、藤代くんのことを忘れられずにいる。遠いようで、遠くない記憶。すぐそばに見える片割れを失ったままの恋の欠片。

 あの恋をどうして私は落としてしまったんだろう。

 時が流れてるのに、いつだって思い出す相手は藤代くんのことだった。
 慣れない会社という場所に心が不安で揺れたり、上司の厳しい言葉に落ち込んでる時、いつだって藤代くんが私を笑わせてくれた。一人暮らしの私のアパートと、藤代くんの寮の間にある小さな公園は、気づいたら二人で会うならここ、って決まり場所になってた。
 二人で暗闇の公園でブランコに腰かけて、時には笑かせてくれたり、時には私の片思いを聞いてくれたあの優しい時間。

『それなら俺を好きになったらいいのに』

 藤代くんはそんな冗談をよく口にして、私を戸惑わせた。優しいけど、ちょっと意地悪だ。カッコいい人にそんなこと言われたら、他の人に片思いをしてるのにぐらっとしちゃう。私が優柔不断なだけか。
 こんな、お友だちというには少し近すぎて、でもそれ以外にいい言葉が見当たらない関係だけど、藤代くんはどんな時も一緒いてくれるのかもしれない、と。わたしはそれがずっと続くことを疑わなかった。

 脳裏を過る藤代くんはいつだって笑ってる。あの日――サッカーチームの寮を出るって言った時も、笑ってた。

『ナマエちゃん頑張れ!』

 そっと頭を撫でてくれた藤代くんの掌はおっきかった。

『やっぱり俺にしとけばよかったのに』

 藤代くんはもう一度やっぱり冗談めかしに言って、それからバイバイと手を振った。
 最後と言う言葉に私の足元は、ぐらぐらと地面が揺れるようだった。バランスを取るのに精一杯で、私は私の気持ちに驚き戸惑っていた。
 離れたくないとすぐに思った。そして、さよならってあっさり言っちゃう藤代くんに私は思った以上に大きなショックを受けていた。どうしてなのか――その理由を見つける前に、藤代くんは笑って踵を返した。
 私はただ立ってるだけで、背中を向けて遠ざかる藤代くんに、なにも言えなかった。
 ――まぬけで弱虫な私、ばかだ。
 その日、気づいた感情に悔しさを感じた。そして遅い芽生えにお風呂で湯船に浸かりながら少しだけ泣いた。夏が秋へ移る切ない季節のことだった。

 あの時、どちらも拾いに行かなかった恋の欠片。家の近くに落としてきたはずのそれが、どうして私の足元に転がっているのか。
 私は理由を知ってる。知ってて、ずっと見てみぬフリをしてきた。

 駅の電光掲示板の文字がが明滅して、電車がやって来ると報せる。騒がしいメロディが耳に届いて、眩しい光とともに冷たい風を引き連れた電車がやってくる。
 寒さに堪えながら、今日は蕎麦であったまろうと思った。お風呂入って髪を乾かしたら、明日の朝まで沢山ねるぞ。それから、鞄に荷物詰めてみんながいる実家に帰ろう。

 これから初詣に向かうだろう大学生たちが電車の中に数組居た。来年の干支はこれだとか、年女だ年男だ厄年だとわいわい喋っている。
 電車の端に腰を下ろそうとした時、後ろから肩を叩かれた。

「はい?」
「これ、落としましたよ」

 振り向けば先ほど一緒に駅に居た女の子がグレーの手袋を差し出していた。一瞬意味が解らずきょとんとして、それから慌てて受け取った。

「あ、ありがとうございます」
「いえ」

 そう言って彼女は笑って軽く手を振ると、そのまま一緒に居た男の子の傍にかけていった。鞄のチャックが開いていたなんて。慌てて鞄の中を覗いたら、落とした手袋の片割れが財布とキーケースに挟まれていた。よかった、これは大事なものだから無くしたくなかった。
 藤代くんがプレゼントしてくれた、大事な手袋だから。そっと受け取った手袋を胸元でぎゅっと抱きしめる。

『ほらナマエちゃん、手出して』

 ふいに隣りのブランコに座っている藤代くんが、手を差し出してくれたような気がした。
 思い出のフラッシュバックに、私も思わず胸がどきどきする。嬉しさと、それと同じくらい胸がきゅうって痛くなった。だって、私の冷たい手を温めてくれたあの人の手は、もう遥か遠くだ。

 みんなが年を迎えようと喜びで溢れている場所にいるからかな、一人ぼっちだっていうことが余計強調されてるみたい。家に着くまで我慢していようと思った淋しさが込み上げてきた。思わず目が熱くなって、きゅって強く瞑る。こういう時は、他の事考えよう。
 そうだ。今年はみんなにデコメ作ってないや。もう年を越えるから、きっとネットに繋がりにくくなるよね。素材ダウンロードするのはもう無理かな。今年は携帯に元々入っているテンプレートで仕方ない、か。
 電話も通じないくらいだもんね。仕方ない。

 ――。

 ふと、私の脳裏に賭けが浮かんだ。ちらりと足元を見下ろせば、薄い桜色をした恋のかけらが私を見上げているように見えた。

 そうだ、かけてみよう。
 この電車を降りたら、藤代くんに電話をかけてみよう。元旦はみんなが電話をかけて集中するから回線が混雑してしまうって誰かが言ってた。たぶん、繋がりにくいはず。
 だけどもしも、もしも繋がったら。
 あの日言えなかった言葉を言おうと思った。あけましておめでとう、お誕生日おめでとう、藤代くんが好きです。
 鞄の中の携帯を取り出す。ぱかりと折り畳みの携帯を開けば液晶画面が光った。アドレス帳の中の名前を押せば、藤代くんのメールアドレスと電話番号。右端の時刻はまもなく0が三つ並びそう。
 私が降りる駅まであとふたつ。

 今、藤代くんは何をしているのかな。チームメイトと飲んだり騒いだり? もしかしたら実家に帰ってるとかかもしれないし、もう寝ている…ことは藤代くんだもん、それはないか。
 窓ガラスに映る自分がほんのり笑っている。その向こうの景色は真っ暗な闇で、町の明かりがぽつぽつと横に流れていく。電車の速度がゆっくりになって、駅のホームに到着するアナウンスがスピーカーから届いた。あと一駅。

 下車する人と乗車する人が扉で入れ替わるのと同じように冷たい風が温もっていた車内に入ってきた。寒さに思わず膝を寄せ合う。きゅうって目を閉じた時、ふたつの声がこちらに近づいてきた。目を開けたら、前の席に手を繋いだカップルが腰掛けようてしていた。男性が女性を気遣って扉寄りに座っている。寒いね、って彼女が彼に笑いかけていた。とても微笑ましいふたりだった。
 私にもいつか、誰かとこんな風に時間を共有できる日がくるといいな。
 電車がゆっくりと進んでいく。もうすぐ着く最寄駅。そこから私の家まで徒歩十五分。この十五分を一緒に歩いてくれる人が、藤代くんだといいな。なんてね。思っちゃうと無理だったときに悲しくなるから他の人でもいいって思う事にしよう。
 急に手の中の携帯がブルブルと震えた。ぱって見下ろせば、時刻は0時を丁度回ったところだった。しまった、みんなにメール作るの忘れてた。

「あー新年あけちゃった」
「だから早く行こうって言ったのに」

 前に座っているカップルが言いあってる。だけど顔は怒ってない、むしろどこか嬉しそう。二人で顔を合わせて新年の挨拶を口にしていた。いいなあ、うん、いいなあ。
 羨ましさに胸がまた寂しくなったから、紛らわすように携帯を開く。友達から手の凝ったデコメが数通届いていた。みんな可愛いスタンプ用意したんだ。やっぱり後で作ろう。
 新しい新着メールが届いたの同時くらいに、電車が速度を落としてきた。もうすぐ着くんだ。
 もうすぐ、私は藤代くんに電話をかけるんだ。
 駅員さんのアナウンスが私の耳を空回りする。寒いのに、胸がどきどきしてきた。緊張して震えてくる。携帯は藤代くんのアドレスを開いたところでとめた。

「ご乗車ありがとうございました。――駅、――駅」

 停車した電車からホームに降りる。同じように下車して改札へ向かう人たちの流れに棹を差すように、私はひとり立ち止まる。
 携帯画面の番号の上で止まったカーソル。通話ボタンを押せば、私の恋の行方が決まる。ああもうダメだ。ボタン一つ押せないなんて情けない、弱虫。時間が経てば経つほど、私の体は冷えていくし、おまけに押す勇気も消えていく。このままじゃダメだとかわかっているのに、怖い。もしもダメだったときのことを考えたら、怖いのだ。

 こうしてるうちに、次の電車がやってきちゃう。携帯の時刻も一分、一分と過ぎていく。
 カサ、と足元で音がして見れば、そこに恋のかけらが転がっていた。薄い桜色の恋――。
 ええい、なるようになれ!

 私は通話ボタンを押した。画面が変わって、電話とCALLという文字が表示される。
 携帯を耳にあてる。向こう側は無音だった。プープーと切れる音もコール音でもない。なにも聞こえない。
 かけれてなかったのかな。画面を見るけどやっぱり電話を掛けたときと何も変わってない。

 これは、掛け直すべきかな? それとも実らなかったって受け取るべきか。

 どうしたらいいか戸惑っていると、不意に画面のコール中という文字が通話中という文字に変化して、下に「00:01」って数字が出てきた。繋がったんだ!
 興奮した気持ちのまま携帯を耳に当てる。反対側のホームから、電車が到着するメロディーが鳴り始めた。

「もしもし、あの、藤代くん、ですか」
『え、誠二? あれ、これあたしの携帯じゃないの?』
「え?」
『ナマエよね?』
「あ、はい。ミョウジナマエって言います、けど」

 ドクンって胸が大きく鳴った。
 頭の中が混乱してぐるぐる回る。あれ、私藤代くんにかけたんじゃなかったっけ。でもこの人は藤代くんじゃない。女性の声だ。

「えっと、私、掛け間違えて」
『あーちょっと待って! 絶対切らないでよ?』

 急に電話の向こうの女性に止められる。寒いなか立ってるからか足元がふらつく。
 向こう側ががやがやと騒がしい。何かを探してるような雑音と、さっきの女性が私の携帯知らない? って誰かに叫んでる。
 ざわざわ、ざわざわ。胸に不安が満ちていく。嫌な予感がする。自然とポケットに突っこんでいた手を握りしめてた。

 向こうで誰かが何か言った。
 もう一度、さっきの女性の声が聞こえた。そして、誰かの声が大きく聞こえた。
 ――それ俺の携帯じゃん。同じ機種にしたからって間違えんなよ。

 反対側のホームに電車が到着した。

 私が立ってるホームにまで風がぴゅうっと吹いてマイクに音が入った。
 その声は、紛れもなく藤代くんの声だった。
 女性の声が、向こう側で私の名前を口にした。えって戸惑う藤代くんの声が耳に届いた。

 そっか。そういうことだったんだ。バカだな私ってば。

 ガタンゴトンって大きな音が耳に痛い。ガサガサって音の後に、一呼吸の間。

『もしもしナマエちゃん?』

 藤代くんの声だ。まぎれもない、藤代くんの声が、慌てたような声で私の名前を呼ぶ。

『アレ、ナマエちゃん? 聞こえる?』

 様子を窺うような、恐る恐るって声音。

 聞こえる、聞こえてるよ藤代くん。
 でもごめんなさい、声が出ないんだよ。一番最初に出した声が、もう一度出したらダメな気がして、震える気がして。こんな電話気持ち悪かったかなって、藤代くん困ってるんじゃないかって、そう思ったらあけましておめでとう、って言葉も浮かんでるのに出てこなくて。

『もしもーし、ナマエちゃん、俺誠二。聞こえたら返事して』
「…………もしもし」
『もしもしナマエちゃん! 聞こえる?』
「ごめんね、さっき急に電波が悪くなって、何も聞こえなくって」
『あっそうだったんだ』

 藤代くんがほっとした声を出した。
 嘘を吐くならこんなにすらすら言えちゃう。本当、弱虫。

『それで、どうしたの?』
「あの、新年の挨拶をしようかなって思って」
『え?』
「かけたんだけど。邪魔しちゃった。ごめんね、彼女さんといるのに」
『えっ! えっ?』
「さっきの人にも謝ってて、ほしいです。私は藤代くんのおともだちだって、藤代くんは悪くないって」

 なにやってるんだろう。
 藤代くんに告白しようとしてたのに。これじゃあ私は藤代くんにただのおともだちだっていってるようなもんだ。

『ナマエちゃん何言ってんのち』

 隣りのホームのアナウンスが大きくなる。電車が発車する音に負けて、藤代くんの声が聞こえなくなった。

「新年早々ごめんね、なんだか電波が悪くなったみたいだから切るね」

 携帯を耳から離して、そのままパタンって閉じた。
 ポケットに入れて、そのまま改札に向かった。蕎麦が入ったビニール袋が風に吹かれてガサガサと音を立てた。

 帰りの道は誰にも会わなかった。
 歩く道は静かで寒くて、星は瞬けば零れ落ちるんじゃないかってくらい輝いてて。それがじんと胸に沁みた。
 まさか、こんな恋の終わり方は予想してなかったなあ。

「はぁ、ほんとに」

 言葉がこぼれて、白い空気がふわりと空に浮かぶ。胸の中にぽっかり空いた空洞にもこの冷たい空気が入り込んだみたいに冷たい。
 徒歩十五分の道のりが、ひどく長く感じたのはきっと私の歩調が遅かったからだ。
 足先まで冷えてきた。街灯がチカチカして眩しい。
 新年早々、こんなに落ち込むなんて――こんなに傷つくなんて思っていなかったんだよね。

 とぼとぼと歩いていたら、あの公園に辿りついた。もうアパートはすぐそこだ。なのに、私の目は公園の中のブランコに向いてしまった。
 真っ暗な中にぽつんとある二つのブランコは、街灯に照らされてまるで舞台の上のセットみたい。入り口近くにある背の高い時計が、一時に向かってる。
 なんだか自分が惨めで無性に悲しくなった。気付いたら、目に浮かんだ涙がぽろぽろとこぼれた。ひとつ、ふたつ。
 こぼれたら、なんだか止まらなくなって、とめどなく流れる。

「ふっ……うっ……ははっ」

 あーあ、明日実家に帰るのに。これじゃあ目が腫れてしまうよ。
 それに、彼女がいるかもしれないって選択肢を忘れていた私がばかだ。親身になってくれたからって、私も変に心変わりなんかして…そこに好意があるかもしれないなんて、そんな都合のいいことあるわけないのに。

 こんなに悲しくなってもお腹はぐうって鳴る。そりゃそうだ、生きてるんだもの。早く家に帰って蕎麦食べよう。指が悴んで動かなくなってしまう前に。