真夜中は私たちの楽園として

真夜中は私たちの楽園として

 

 

 深夜二十三時。自室のカーテンを捲れば、しとしとと雨が降っていた。振動音に振り返れば、ベッドの上で携帯のイルミネーションがチカチカと光る。
 もうやめておく? 小さな液晶画面に並んだ短い一文に、返信ボタンを押して、もう少しで止むかもしれないから、と早打ちする。どうしたって行きたかった。相手から、じゃああと三十分だけ、と返ってきて、即座に肯定の返事をした。

 

 雨上がりの薄雲が残る夜空の下を、二人で隠れるように歩く。夏油は彼女の小さな手をしっかり握りしめた。時折、先刻の雨で出来た水溜まりに足を取られないよう、雨の滲みた石畳を慎重に踏みしめる。
「真夜中の高専って、こんなに真っ暗なんだね」
「電灯を設置していないし、月も出ていないから。今のところ、滑りやすいから気を付けて」
 返事の代わりに彼女が夏油の手のひらを強く握り返してきた。生温い夜風が二人のあいだをすり抜ける。
 夜の散歩に連れていって、と請われたのは随分前の事だった。彼女からの要求にいいよと快く返事をした時、夏油はすぐに決行出来ると思っていた。けれど、計画を立てる度にタイミング悪く出張が舞い込んだり、五条が邪魔をしたりして間延びしてしまった。日に日に彼女からのメールに覇気が無くなり、教室で顔を合わせる度、こちらを見る表情が曇ってゆくことには気付いていた。気付いていても、夏油にどうすることもできなかったのだ。だから、今日だけはなんとしても、例え雨上がりというタイミングの悪さだとしても中止にはしたくなかった。

 

「あ、傑、北極星」

 夏油は頬を赤くし星を指差す彼女を見た。先程まで呪霊に乗ったことや眼下に広がる暗闇に怯えていたのに、すっかり夜空を見上げることに夢中になっている。
 ふと彼女の耳が赤くなっていることに気付いた。梅雨入り前と言っても地上と上空では温度差があるうえ、遮るもののない今は常に軽風であれど全身を叩いていく。けれど、彼女は存外に小言も言わず喜び続けた。
 湿気た空気が頬を撫ぜて、妙にまとわりつく。約束を随分と果たせなかったことをどう謝ろうか。算段を積もっているあいだに、向こうが「言わないで」と先に口にした。

「傑が忙しいのは知っているし、それを周囲から求められているのもわかってるの。傑がそれを言ったら、私、わがままな女の子になっちゃう。そんな自分になりたくない」

 この話はそれでおしまいだという相手からの先手に、夏油は逡巡してから受け入れることにした。

「あ、さそり座」
「よくわかるね」
「北斗七星みたいでわかりやすいの。蠍座になったさそりって、地球で悪さをしたから懲らしめるためにお空に飛ばされたんだよね」
 そのすぐ近く、そう、あれが射手座。射手座って神話の弓の名手、ケイロンが弓を引いた姿だって言われてるの。で、その弓矢の先にいるのが蠍座。いつでも射殺できるように、蠍の心臓を見張ってるらしいよ。オリオンを殺したのが確か蠍で。
 彼女が饒舌に星座について話すのを聞くのも久しぶりのことだった。硝子とプラネタリウムを見たと話していたのは、半年以上前。もしかしたらずっと話したかったのかもしれない。
「オリオンは蠍に殺されたから夏は出てこない。それから蠍がいなくなった冬に現れるんだよ」
「傑ってギリシア神話にも詳しいのね」
 こちらを振り返った表情を見て得心する。夏油の勘は当たっていそうだ。
「そっちもね。ああ、そういえば、射手座と蠍座は恋愛の相性もよくないって」
「あは、それ、悟と硝子だ」
 彼女は一度笑って、それから私たちの星座の相性はどうなんだろう、とぼやいた。その目は星空を探検している時とは想像もつかないほど暗く、夏油は彼女を腕のなかにそっと収めた。
「止めておきなよ。私は別に構わないけど、君はすぐ影響を受けるから」
 雑誌の末頁にある今月の占い、と謳った二行の文章にすら、自身の感情の行方を委ねてしまう彼女を思い助言する。
「でも気になるなぁ」
「じゃあ、不安になったら必ず言って。それを私が喰らってあげる」
「……うん、そうして」
 腹から回ってきた腕が、夏油の背のシャツを強く握った。呪霊は夏油の指示通り、ゆったりと上空を遊泳する。

 

「時が止まればいいのに」

 胸元から顔を上げるなり、彼女は少し憎々しげに吐く。夏油は眉尻を下げて首を傾けた。
「ケイロンたちみたいに?」
「私が射手座ね。ずっと傑に心臓を狙われるサソリになるのは嫌。私が傑の心臓を狙う」
「じゃあ私が悪さをしたサソリになるの?」
 まぁ構わないかな、君に狙われるんなら。
「……どうせ私が傑に勝てないと思ってるんでしょ」
 ふふ、と笑えば腹部に加減された拳が二発入った。夏油は痛みを感じることのないそれを受け入れる。
 自尊心の高い、己を律しようと懸命に背伸びをする彼女のその姿勢が夏油は好きだった。彼女が見据えるその先にあるのは、いつも夏油自身だと言うことを知っていたから。その事に、このうんざりする暇もない日常を救われている事に、未熟な彼は気づいていないけれど。
 漏らしたあくびの調子を合わせるように、彼女も大きく口を開けた。眠気には抗えない。互いに笑いあう。
「そろそろ戻ろう」

 

 高専の寮の前で彼女にせがまれて身を屈ませる。近づけていた顔をそっと離せば、彼女の睫毛に星の粒が煌めいていた。夏油が案じるように名前を呼べば、彼女は微かに首を振って微笑んだ。

「予感がしたの。私は今日のことを、何度も思い出すんだろうなって」

 そう言った彼女のかんばせを、自分も何度も思い出すだろうと、夏油は予感がした。

 

 


2022.3.7
Twitter「#juju版深夜の真剣夢書き60分一本勝負」お題:雨上がり/真夜中は私たちの楽園として に投稿したものを加筆修正しています