夜の隙間からあふれ出すもの

夜の隙間からあふれ出すもの

 

 おやすみ、と挨拶を交わして、夏油の部屋を溜まり場にしていた同級生達が自室へと帰っていく。賑わっていた音が止んで片付けをしていると、しんと静まった空気に深夜だという事を実感する。
 コップを洗い歯磨きをしたら、読みたかった本の続きを読もう。流し台に置いていた二つのコップを洗っていると、トントン、戸を二度叩かれた。
 どうぞ、と答えれば、扉が静かに開いた。さっき挨拶をしたばかりのナマエが部屋の中を窺うように顔を覗かせて、流台に立つ夏油をみとめた。
「どうしたんだい」
「忘れものしちゃったみたい」
「ああ、中にはいっていいよ」
 夏油はコップを洗いながら彼女がスリッパをいそいそと脱いでいくのを見た。お邪魔します、と仕切りの向こうの、さっきまで四人でジェンガをしていた場所へと向かっていった。夏油はコップの泡を洗い流し終えると、タオルで手を拭って彼女の様子を見に行った。ベッドの足元に屈んで、下を覗き込んでいる。
「見つかりそう? 私も手を貸すよ」
 手伝うつもりで声を掛けたところ、向こうが大丈夫、あったよと立ち上がった。手のひらにはレースの誂えられた黄緑色のハンカチが収まっていた。彼女は仕切りの前に立っている夏油の前までやってくると一度立ち止まった。それからこちらを見上げる。
「さっきは停電、びっくりしたね」
「そうだね、すっかり復旧して良かったよ」
「あ、うん」
 何か言いたげにしている顔を見て、夏油は見当がついていたけれど、あえて触れなかった。
「じゃあ、おやすみ。眠れるといいね」
 夏油がそう告げると、彼女はどこか浮かない顔をしておやすみ、と部屋を出ていった。
 それから、夏油の部屋で三人、もしくは四人で集まった時、彼女は度々忘れ物をするようになった。
 あの台風の日がハンカチ。次は髪を結んでいたヘアバンド。次はポーチ。
 はじめこそ何も疑うこともなかった夏油も、度々続く忘れものに、それもあのナマエが忘れていくことに疑念を抱くようになった。これらはどうせ、翌朝夏油が気が付いて食堂や教室で「これ、忘れていってたよ」と差し出しても構わないものばかりだったからだ。それに。
 トントン、と戸を叩く音が静寂な夜に響く。
 夏油はベッドから降り、部屋の明かりをわざわざ点けて仕切りの向こうの扉を開けた。ナマエが、眠たさをどこかに置いた顔をして暗闇のなか立っていた。
「忘れものしたの」
 最初の頃こそ、すぐに取りに来ていたのに、段々と取りにやって来る時間が遅くなってきた。
 夏油は玄関口のそばに置いていたポーチを手に取ると、彼女に差し出す。
「これかな」
「あ、うん。これ」
 前に夏油の部屋に忘れていったヘアバンドで髪をまとめた姿で彼女はそれを受け取った。夏油は彼女の目の縁に広がる細長い睫毛の影にため息を溢した。ほんの僅かに、目の前の相手の表情が強張った。
「最近よく忘れるね」
「うん」
「君はそんなに間の抜けた子じゃなかったと思うんだけど」
 彼女の前髪の隙間から柳眉がピクリと動いた。
「じゃあ傑は、私がそんな性格じゃないの知ってる上での態度なんだね」
 どこか感情を抑えている様子の相手に、夏油は不快にさせてしまったかもしれないと慌てた。別に彼女に嫌味を言いたかった訳じゃない。ただ、どういう意図なのか、彼女の口から聞きたかったのだ。
 ナマエ、と夏油が影で見えない表情を覗こうと身を屈ませようとしたとき、相手が恨みがましい顔を向けてきた。
「傑の意気地なし」
 叱り声に、相手の機嫌を窺おうとしていた夏油も、思わず眉をひそめた。そんな夏油を見返すことなく、彼女はおやすみと挨拶もせずに踵を返してしまった。
 一体、自分のどこが、意気地なしだという。

 ナマエとはどこか気まずい空気を漂わせてしまったので、もう次は忘れものはないだろう。
 夏油はそう思っていたし、きっとナマエも思っていたに違いない。
 その日は珍しく硝子が夏油の部屋にあった酒を引っ張り出してきた。いつもなら悟と一緒に飲まないお子様舌の彼女が、今日は珍しく一献傾けていた。どこか赤ら顔で、周囲に違和感を持たせないように夏油に話しかけつつもそれは大体どうでもいい事で。それ以外はすっかり目を合わせようともせず、悟と硝子とワイワイ楽しんでいるなと思っていた。
「そうきたか」
 夏油は流し台にある折り畳まれた携帯を見た。自分のものではない。ストラップや、見覚えのある形状からも、完全にナマエのものだった。定期的に青いライトが点滅して、着信の報せている。
 これはきっと、今日取りにくるかな。
 夏油はいつもより就寝時刻を遅くして、やってくるのを待っていた。けれど、いつまで経っても彼女はやってこなかった。夏油は布団に潜り込む。そうか、来ないなら来ないで明日渡せばいい。別に構わないし。寝返りを打つと、彼女のあの日の言葉が何度も何度も浮かんだ。
 ――傑の意気地なし。

 もしかしたら忘れていったのは、ワザとじゃなかったのかもしれない。
 夏油は携帯を片手に鈴虫が合唱している寮の、彼女の部屋の前に立っていた。
 これは親切心。と言い聞かせながら腹の内では彼女に言われた意気地なし、がここまで動いた原動力だ。
 ノックもせずにドアノブを捻った。そのまま引けば、簡単にナマエの部屋に入れてしまった。夏油は彼女の無防備さに呆れた。鍵はおろか、部屋との仕切りの扉も全開だったから。己が聞けたドアの分だけ、室内に廊下の蛍光灯の明かりが差し込む。向こう側は闇だった。
 あれから随分経つ。もしかしたら、酒で眠気に負けて寝てしまったのかもしれない。なら、声をかけるのは野暮というものだ。
 夏油はポケットの中から携帯を取り出す。そっと間仕切りの手前、流し台の前に携帯を置くことにした。
 これならきっと、翌朝気付くだろう。下げていた視線を部屋の奥へ向けて、夏油は呼吸を忘れてしまった。
 遮光性のないカーテンからの月明かりが、空虚な空間にぽつんと浮かぶベッドと彼女の陰影を映していた。どこか孤独を抱えるように、死んでいるのかと思うほど静かな。
 見てしまったのがいけなかった。
 入り込んでいた夜風を塞いだ。スリッパはいつの間にか脱いでいた。裸足が冷えたフローリングを踏む。
 近づいて、腰を屈めた。眠る相手の顔を、気がつけば夏油は見下ろしていた。瞬きも惜しいくらい、とてもきれいだった。
 自分の好きな人の顔を、夏油はもっとずっと見ていたいと、あわよくば触れたいとさえ思ったけれど、浮かんだ感情をやっぱり同じように積もった感情の底に落として立ち上がった。誰彼に偽善を撒くことは平気でも、大切にしたい相手には、それがどうしてもできない。
 彼女の寝顔を目に焼き付けて去ろうとしたとき、夏油の服の後ろの裾が引っ掛かった――引っ張られた。
「ここまで来て、何もしないの」
 泣き出しそうなくらい弱々しい声に、胸の奥をくすぐられた。首を捻り後ろを見下ろせば、彼女がやっぱり今にも泣きそうな顔で夏油の服の裾を掴んでいた。ずっと夏油が振り回されていた相手が、夏油に振り回されている。胸に邪な感情が広がっていく。
「なんで何も言わないの。……あの日のことも、なんで聞いてこないの」
 彼女のあの日のこと、という言葉が指すものがどれかなんて、考えなくてもすぐにわかる。忘れものをし始めた――四人でジェンガをした、あの停電の時間に起こった、自分と彼女だけの秘密のことだ。
 落ち込んでいる様子の彼女の手を、夏油は服の裾から離させる。それから、彼女のベッドの端に腰を下ろして、そっと人差し指で彼女の唇に触れた。
「私は返事をしたつもりだったんだよ、あの日」
 あの台風の、暗闇のなかで。
 彼女からの頬への口づけの返事はしたよ。
 あれからずっと忘れものと称してどこか期待したように無防備にやってくるナマエを、夏油がどう思いながら送り返していたのか。その意味に気づいた彼女の目が一度大きく見開いた。人差し指に彼女が吐いた息が小さく触れた。
「もっとわかるようにしてよ、ばか」
 暗闇に涙を光らせた彼女が顔を赤くさせて、唇に触れていた指を握ってきた。夏油は静かに笑むと、床につけていた裸足の足を浮かす。
 月明かりを差し込ませるカーテンの、ほのかな光で浮きでていた陰影が一つになった。

 


2021.10.2
Twitter「#juju版深夜の真剣夢書き60分一本勝負」お題:夜の隙間からあふれ出すもの に投稿したものを加筆修正しています