どこまでも愛して

どこまでも愛して

 

 

 ——あれは、もしかしたら。
 音もなくほどけた推測に、ほんの一瞬気を緩めたのがいけなかった。
 瞬間、後頭部を激しく殴打された。脳みそが揺れて脳震盪を起こしているのがわかった。
 宙に浮かんでいた体をうまく着地させることも儘ならず地面に転がされて、普段の条件反射で勝手に上体を起こして膝をついた私は、ぐるぐると回る視界と意識に呪霊の状態も全く把握できなくなっていた。
 吐き気がする。唾液がこぼれた。もう右手に呪具をちゃんと握っているのかさえ感覚がわからない。聴覚なんて、外の音よりも内耳に響く地鳴りのような大きな耳鳴りを拾っていて役に立たない。
 もうダメだ。万事休す。
 鼻から垂れてくる生暖かいものがダラダラと顎を伝う。今のでどこかの血管も切れたらしい。拭きたいけど、もういいや。どうせ気にしても意味なんてないんだから。
 次にやってくるだろう人生最期になる一撃を待つ。息をつく暇もきっとないだろうと思いながらヒューヒューと喉から呼吸する。さよなら、我が人生。
 そうしてその一撃を待っている間に、徐々に呼吸が落ち着いて、大きな耳鳴りが静まり、手にある呪具の感覚を取り戻し、回っていた視界と垂れていた鼻血を拭ってしまった。いつまで待ってもやってこないので目を開けると、手と袖に付着した血の色が朱色というより錆色に近くて気持ち悪かった。思わず眉根を顰める。と、目の前を隼の如く飛来するものが見えた。顔をあげる。
 私を攻撃してきたはずの呪霊の姿は肉片と化し、既に塵になろうとしていた。すでに討伐し終えてしまっている。
 おかしいな、呪術者は私一人の筈なんだけど。——もう一度ひらりと羽を見せびらかすかのように、鳥が眼前を通過した。
「また君か……」
 私の前をヒラヒラと通りすぎて、それは闇夜に溶けるようにどろりと消えた。

 フラつきつつ帳の外に出ると、補助監督がこちらを目にとめた。途端、ぎょっとした面持ちになると慌てて駆けつけてくる。
「鼻血と後頭部にたん瘤、だけだと思うんだけど」
「大分腫れてますよ、血も止まってませんし、脳震盪も起こしているかもしれません」
 誘導されるように後部座席に乗り込んでシートに凭れたら、案の定呪霊に殴られた後頭部があまりに痛くてヘッドレストに頭を置けなかった。

 高専の医務室で、打撃を受けた後頭部を治療してもらう。治療してもらいながら硝子に「また死に損なった」と伝えれば「またあれが出てきたのか」と例の鳥について話を切り出してくれた。
「一体アレが何なのか、長年ずうっと考えてたんだけど、今日闘ってるときにもしかしたらって推測が浮かんだんだよね」
「まさかそれで気が緩んで死にかけたとか、言うなよ?」
 脅しにも似た口調に、反省した顔色を示して私は口を開く。
「アレは傑の呪霊だと思う」
「ここを出ていったアイツのか?」
 深く頷く。相手は胡乱な眼差しを向けてくるだけで、なにも言わなかった。
 呪術師としての討伐生活の中で何度か死にかけたことがある。今日みたいに意識がふらついてしまった時だったり、時空の歪みに放り込まれたり、エトセトラ。
 ああ、もう駄目だと諦めの境地に至る度に、あの鳥のような呪霊がふらっとどこからともなく現れて、呪霊を祓っていた。
 どんなに等級の上の呪霊であろうと瞬きすら許さぬ速さで。あまりの瞬殺に、私が呪霊にかけた時間が何だったのだろうと虚しく思うくらい、呆気なく。

 硝子には言っていないけれど、実はもう一つ、アレが傑に関連していると思っている明確な裏付けがある。
 じいっと、音がするくらいの視線を感じる。
『またかい? 君は一体何度死にかけたら気が済むの』
 高専の服を身に纏い、髪を後ろに一つで束ねた傑が、腕組みをして椅子に腰を下ろしこちらを見ている。懐かしい姿だ。
『ごめんなさい』
 かくいう私はというと年相応の姿で、傑の真正面で地面に正座して頭を垂れている。もちろん手は膝の上。頭上で盛大なため息が聞こえてくる。
『おかしいな、反省して改心している人はここに来てないはずなんだけどね』
『……だって弱いんだもの、仕方ないじゃない』
『いけないよ、死に急いでは』
 私の心を見透かすような物言いに、ドキッとする。
 思わず顔を上げれば、傑が私を観察するように目を据えている。鼓動が早くなったのを誤魔化すように俯く。
『傑が決めることじゃない』
『いいや、私が決めることだよ、君は死んではいけない』
 椅子を降りてきた彼は屈んで私の前に膝をついた。
『いいかい、また会える日まで、絶対に死んではダメだよ』
 顎を持ち上げられて、唇を塞がられる。腹の奥になにかが流れ込んできた感覚がする——。

 勢いよく起き上がる。なんの変哲もない寮の一室。時刻は夜明け前。
 また。また同じ夢を見た。
 死にかけてあの鳥が出てきた日、私は必ず夢を見る。そしてその夢には傑が絶対に現れるのだ。高専時代の姿で、私の見知った仕草で。
 いつからだろう、もう覚えていない。彼が高専という場所から追われる身になってもう長い時が流れてしまった。
 夢の中のことを振り返る度に、私と彼はそういう仲だったろうかと首を傾げたくなる。わからない。だけど、悟曰く「ムカつくけど傑にめっちゃ愛されてたよね、オマエ」と言うだけあって、向こうからは好意を持ってもらっていたのだと思う。
 秒針の音が静かな部屋に響き渡る。
 硝子のおかげですっかり痛みの消えた後頭部を枕に置く。今日も死ぬかもしれない日が始まる。

 呪術師なんて真っ当じゃない。
 それは高専に学生としてこの身を置いている時からずっと思っていた。どれだけ死にかけながら呪霊を祓っても、見返りなんてものは金だけで誰からも感謝すらされない。こんな一方的なもの、耐えられなくてさっさとおっ死んでしまいたいと何度も何度も思った。肉片の欠片も残らないような陰惨な死にかたでもいいから、なんて。
——いいかい、また会える日まで、絶対に死んではダメだよ。
 だけど、夢の中で傑にかけられた呪いの言葉と、彼が毎度触れていく唇に残った生々しい感触を思い出せば、呪術師として、闘おうと立ち上がってしまう。そして、死にかけて、またあの夢で傑に繰り返し怒られたい、なんて疚しい気持ちが湧く。
 彼が夢に出てくると悟の「めっちゃ愛されてたよね」という言葉が頭のなかを何度もリフレインして、幸せな気持ちで満たされる。こんな愛情の確かめ方は異常だろうか。だけど今はまだ会えないのだから、こんな方法を取っても許されるよね。
 そんな周囲にくだらないと言われるような理由で、私はもう少し生きてもいいかな、と思っている。
 

 


2021.06.19
Twitter「#juju版深夜の真剣夢書き60分一本勝負」お題:繰り返す/どこまでも愛して に投稿したものを加筆修正しています
診断メーカー#書き出しと終わり「音もなくほどけた」で始まり、「また同じ夢を見た」がどこかに入って、「もう少し生きていようと思う」を使用しました。