この恋を軌道に乗せようか

※藤代くんがAスタジオに出演したというお話です。イタリアのチームで頑張ってる設定です。

 

( 2009年7月放送)

 

 

 

 お風呂から上がると、リビングには誰もいなかった。時計の針を見れば23時を回ったところ。私以外の家族は既に就寝したんだな。

(明日は土曜日、お休みだし…夜更ししてもいっか)

 私はタオルで髪を拭きながらテレビの前のソファに腰を下ろした。
 なにやってるんだろー、テレビの電源をつけてチャンネルを回していると、中学高校が一緒で見知っている彼が、思いもよらない番組に出ていた。

「うわ、藤代くんじゃん」

 なんと、スポーツ番組ではなく、あの山田洋次監督の「おとうと」でも主演に抜擢された人が番組司会を務めている例のトーク番組に、藤代くんがゲストとして登場していたのだ。
 既に登場場面は終わってしまったみたいだけど、それでもスタジオにいる観客の黄色い声は途絶えていなかった。司会の鶴瓶さんがスタジオのやかましい、と言っている声もマイクが拾っていながら少し聞きづらいくらいだ。
 藤代くんはシャツに半ズボンと夏らしい格好だった。
 どこか印象が変わった。
 ちりめん加工した水色の七分シャツの下、濃い色のTシャツが映えている。首からぶら下がっているチョーカーも別に違和感がない。何が違うんだろうと思っていたら、髪の色が茶色から黒色に戻っている。
 鶴瓶さんと女の子のあいだに挟まれるような形で座った藤代くんはカメラに一度目を向けてにこりと笑った。

(うわー、すごい、なんか不思議な感じがする)

 そうして藤代くんはスタジオの観客たちに手を振った。きゃーとという声が聞こえてきた。

「うわあ、すごいすごい」

 誰にいうでもないけど、この際独り言くらい言わせて欲しい。
 藤代くんは鶴瓶さんと既に話を始めていた。

——いやあ、まだニンジンは食べれないっすね〜
 腕を組んで藤代くんが顔を渋くしている。
———こいつな、どんなに小さくしてもニンジンを発見するねんて。んで、ハンバーグ、好きなんやろ?
——はい、好きっす
———ニンジンをすりつぶして入れて食べさそうしたらな、口つけんで気づいてんて

「えー」

 観客と混じって驚く。なにこれ、すっごく面白い。
 食い入るように見ていると、藤代くんが「一体誰が暴露したんですか」なんて尋ねた。途端、割烹着を着た女の人たちにパッと画面に移る。

———この人らや
——・・え? 寮行ったんすか!? マジで!?

 右下に“武蔵森学園 松葉寮”って書かれている。
 うわー寮のおばちゃんたちだ、懐かしい。
 私が女子寮でお世話になった人も写ってる。少し年をとった気がしないでもないけれど、元気そうだ。
 食堂のおばちゃんから聞いたらしいFUJISIROメニューというものについて鶴瓶さんが説明していた。
 松葉寮の入口でMCの二人がポーズを撮っている。

———どうや、凄いやろ?
——うわーすげーAスタジオ

 藤代くんは驚いて手を口元にあてていた。写真が切り替わってさっきのおばちゃんたちとは違う優しそうな顔の人が出てきた。

——お、寮母さんだ
———ええ人やな、今も寮に住んでいる子の面倒しっかり見とったで
——寮母さんは、面倒見良かったですよ
———たまに先輩と一緒に抜け出しとったんやってな
——……そうですけど……?

 藤代くんは少し焦ったような顔をした。そんな藤代くんを見ながら笑ってしまった。
 次の写真に私と同じように会場の観客の人たちもわーと歓声を上げた。

「渋沢さんだー、わー、やっぱり仲良かったんだ」

——あー、この人っすか。そっかー

 渋沢さんから聞いた話をMCの女の子が話していた。
 渋沢さんと藤代くんといえば、中高と二人は年代別代表によく一緒に招集されていた気がする。よく集会や総体の発表の時、二人が前に並んで立っていたから覚えている。
 藤代くんは、海外にいる今でも渋沢さんにまめに連絡を入れているらしい。ことあるごとに連絡をしているのだと、話が進んでいた。

——え、渋沢さんが案内してくれたんですか
———そうや、可愛い後輩の為言うて案内してくれはってんで
——いやー嬉しいっすね。ありがとうございます

 藤代くんが照れたように笑っていた。
 渋沢さんって、確か今は日本代表のキャプテンだよね。この人と取材が取れているだけでもすごいのに。――わざわざ藤代くんの為にここまでしたんだと思うと、二人の信頼度が見て取れる。

———これ、何かわかるか?
——え? 部屋でしょ。

 寮の部屋が映し出されている。私が住んでいた寮とあんまり変わらない。そういえば二人部屋だったな、なんて思っていると写真が切り替わり机の横がアップで撮られたものにかわった。

——うわ! よく見つけましたね!
———お前中学の時、机に彫りよってんてな
———あれ、これ“fugisiro seiji”って書いてますよ
 女の人がぽつりとこぼした。
——うっそ、マジで。まだ残ってたのかー

「自分の名前書き間違えるって・・はは」

 私と同じように観客が笑う。

———お前ほんまこれでよう海外に行けたなー

 鶴瓶さんが呆れたように言った。

——いやーあの頃毎日サッカー漬けだったんで。もう勉強する暇なんてなかったんスよ
———しかしまぁ13歳から親元離れて寮で暮らしてたんやろ?
——ああ、ハイ、そうっすね
 藤代くんの方を向いていた鶴瓶さんが、観客席に体を向けた。
———1年って13歳や、みんなホームシックかかってよう泣いてたんやって。やけど藤代はな、全然泣かへんかったらしい

「へえ」

 観客もさっきまでの藤代くんへの反応と違って少し感心したような声音を漏らした。

(そういえば、私もそうだったなぁ)

 大勢の人と同じく慣れない寮生活で、毎日こっそりベッドで泣いていた。ホームシックと団体行動が必要な寮での生活にうまく順応できずに難儀していたのだ。
 高校三年になると、その頃を振り返ってみんなであんなこともあったねーと笑ったなぁ。
 藤代くんは腕を組んで首を捻っていた。

——ああ、そうでしたっけ?
———サッカー関係では泣いたりはしたんですか?

 女の子が、首を傾げて尋ねた。藤代くんはやっぱり首を捻って考えるような仕草で天井の方を見ている。

——んーそうっすねー、中学の時とかもありましたけど、やっぱり高校の時は国体かかってましたから、負けた時は悔しくって泣いてましたね
———負けず嫌いやってんな
 ちょっと切ない雰囲気がスタジオに流れた。そんな空気を切り替えるように、女の子が言葉をかけた。
———負けず嫌いといえば、藤代さんはゲーム強かったんですね
——え?
 観客が少しざわっとした。
——そうや! 中学の時寮の中で格闘ゲーム無敗記録更新しとったらしいやないか

「へえ」

 とつぶやいた私と違ってスタジオは「えー」なんて言っている。昔噂で聞いたことがあったからなあ。なんて思いながら、少し観客の子達が知らないことを知っている自分に優越感を感じてしまった。恥ずかしい。

———先輩にも勝ちにいっとったら怒られたらしいやん

(藤代くんらしい)

——ゲームでも勝負は勝負っすから
———今でも休みの時にゲームはするんですか?
——いや、最近はショッピングに出かけますね
———どこに買いに行くんや
——イタリアでもちょこちょこ回るんスけど、日本戻ったら行く場所決めてて

 そうか藤代くんはいまイタリアでサッカーしてるんだから、イタリアで買い物するのは当たり前なのか。

———今日の服は?
——あ、私服っす
———オシャレですね
——そうっすか? 昔から買い物が好きだったんで
———彼女できたら買い物には一緒に行くんですか?
 女の人が、藤代くんに切り込んだ。

(ナイス女の人!)

 きっと今、藤代くんファンの人はそう突っ込んでいるに違いない。そういうの知りたいよね。
(私は別に、藤代くんのファンでもないけど)
 恋愛話はいくつになっても聞いていて楽しい。
 藤代くんは別段嫌な顔を出すことなく、そうっすね、と頷いた。

——一緒に見に行くと思いますよ。女の子の服一緒に見るの楽しいですし
———それは、彼女は嬉しいですね
——え、嬉しいもんスか?
———女の子としては、一緒に見てくれる人は嬉しいですよ
——ふうん

 きっと今、藤代くんファンは悶えてる。妄想もしているハズ。
 そんな事が浮かんで、なぜか私の顔がニヤついている。
 けれど藤代くんは少し浮かないような、納得いかない顔をしていた。
 もっと、こういう会話したらいいのに、なんて思っていると話を聞いていた鶴瓶さんがふいに口を挟んだ。

———まぁ、藤代は慣れてるもんな
——え?

 鶴瓶さんの言葉を聞き返した藤代くんは顔をきょとん、とさせた。

———中学の時もよう女の子の服見に行っとったんやろ?

「えええー」

 鶴瓶さんの言葉にびっくりした。というよりも、きっとスタジオの女の子たちの方が驚いているに違いない。
 藤代くんはとびきり驚いたような顔をして、なにか考えるような顔をしながらハイ、って答えている。きっと誰から聞いたのか必死に頭の中で探そうとしているに違いない。

——いや、そんなことないっすよ
———いやいや、幼馴染みが言っとったで
———言ってましたねえ

——幼馴染み?

 

「幼馴染み?」

 

 藤代くんの声とかぶるように私も声を漏らす。眉間を寄せて考えるような仕草をしている藤代くんが画面隅の小さい画面に切り替わり代わりに大きな写真がぱっと現れた。
 現れた容姿に、私は驚かずにはいられなかった。
 彼女は、私の寮生活で一年間だけ一緒の部屋で暮らしたことのある子だった。

「ミョウジナマエちゃんだ」

 彼女は女子部でかなり目立っていた。高等部から編入してきた成績優秀な子。整った顔立ちと穏やかな性格、女子高ではあまりいない中立の立場にいる子で――そうだった、すっかり忘れていたけど、彼女は藤代くんの幼馴染みだった。
 藤代くんは大きく開いた口を手で隠すように覆って、静かに画面にうつるナマエちゃんをじっと見つめた。

——いや、すげー。アイツ、よく出るって言いましたね
———綺麗やな、ミョウジさん。モデルですか? って聞いたらカフェのオーナーしてますって言うてはったわ。同い年やろ? この年でオーナーやで

 すごいやろ、って鶴瓶さんがスタジオの観客たちに尋ねたけれど、スタジオの女の子たちはとても複雑そうな声を漏らしていた。それは当たり前だ、藤代くんのファンの人としては彼に女の影があったのだと思うと嫌に決まっている。
 しかし、ナマエちゃんが藤代くんの幼馴染みだったなんて――私も驚いた。

———帰国したら、店に絶対寄ってるんやろ?
——……ああハイ、そうっすね。寄りますね

 藤代くんがどこか上の空で返事をしているように思える。彼女はカフェのオーナーらしく、髪を後ろで一つに括っていて、耳には小柄なピアスがはまっていた。
 おそらく経営しているカフェの中で写真を撮っているのだと思う。少しナチュラルな雰囲気のほっこりしそうなテイストのカフェである。

———紅茶専門のお店やのに、帰ってきて早々にオレンジジュース注文するって言ってたで

「ハハ」
 観客も笑っているし、藤代くんも少し困ったように笑っている。

———紅茶が上手いねんから、まずは紅茶飲んだりいな
——まあ、そうなん・・ええ! うわ、みんな来てるじゃないすか!

 藤代くんが驚くのも無理はない。写真が次々と変わっていくにつれて、お店のカウンターに鶴瓶さんと女の子のほかに、続々と人が埋まり始めたのだ。
 その中には同じ中学高校だった笠井竹巳くんやJリーグで活躍している人たちがずらっと並んでいた。
 鶴瓶さんが藤代くんから観客のほうを向いた。

———藤代って結構子供っぽいし、面倒見てやらなって思われてるやろ。やけどミョウジさんがな…藤代、小さい頃からサッカー選手になる、てずっと言っててんてな
——そうっすね
———小さい頃から誰よりもしっかりプロ意識を持ってたって言うてたで。好きなものがハンバーグやお菓子で、嫌いなものがニンジンて子供みたいな奴がやで!

 鶴瓶さんが熱弁する声とモノクロ写真のナマエちゃんが、鶴瓶さんにむかって何か話している写真が映る。
 彼女は高校生の頃と変わらず穏やかな表情で、鶴瓶さんと話している。少し皺も入ってるし顔の輪郭も少し削げ落ちていて歳を重ねている感じはするのだけど。
 ナマエちゃんは目が本当に綺麗だったなあ。写真でまっすぐ鶴瓶さんと女の子を見ている彼女の視線を見て、芯のある人だったことも思い出した。
 鶴瓶さんの言葉に続くようにMCの女の子も口を開いた。

———笠井さんっていう、そうです、あの左から二番目の人が言ってましたけど、『彼は同じ部活動をしている自分たちが見ているものよりもずっと上のものを見ていた、それが同い年の自分としてはすごいと思っていた』って言ってました
——はあ、そうですかね
———渋沢も言っとったで。ほんまは嫌なとことか教えてくれって言ったんやけど、あいつ真面目やな、寮を抜け出してたこと以外言わへんねん
——うわー、キャプテンありがとうございます
———まあ日本代表のキャプテンに選ばれるだけあるな、渋沢は
——そうですねー、あの人はよく人を見てます

 そういって藤代くんが渋沢さんについてあれこれ話していた。
 その間も写真がころころと変わって武蔵森時代、Jリーグ時代の藤代くんの写真が映っている。Jリーグ時代の写真を見ていて気づいたのだけど、やっぱりこのころは藤代くんの髪が茶色い。

———ミョウジさんにな、こんな幼馴染みが傍におったらやっぱり恋愛感情とか出てこないんか? って聞いてみたんや

 この言葉にきっとスタジオの女の子も、私みたいにテレビ画面に食いついているファンの子たちはさぞ唾を飲み込んだことだろう。
(いや、私は別に藤代くんのファンじゃないけれど)
 藤代くんはなんとも言えない表情で少し顔を上下に動かして相槌を打っている。
 固唾を飲みながら鶴瓶さんの言葉を待っていると、ぱっとナマエちゃんの顔がテレビ画面に映りこむ。カウンターの向こう側でにこやかに笑いながら布巾を片手に持っている。

———そしたらミョウジさんは『せいちゃんには幼稚園の頃に失恋してるのでもういいんです』って言ってたわ
——ああそうなんですか。え、ええ!? 何すかそれ? 失恋?

 流すように返事を返していた藤代くんの目が飛び出しそなくらい見開かれている。驚いてぱっと鶴瓶さんの方を向いている。
 その様子にMC二人だけじゃなく観客のみんなも笑っていた。いま慌てふためいている藤代くんとは打って変わって藤代くんファンはほっとしたに違いない。

———お前振ってんねや、ミョウジさんを
——えー!? 全然覚えてないですけど・・・
———木端微塵やった言ってたで。お前勿体ないことしたなあ、美人を一人逃したで
——うはー

 あちゃーって顔をした藤代くんが手を額に充てている。これは、演技なのか本気なのか。
 そんなこと、私にはわからないけれど――私は彼女はどこでお店をしているのか気になった。きっと、彼女もこれを見ているに違いない。

 

 

*

*

*

 

 

「ねえ、このクダリなに? 俺全然覚えてない」

 カウンターに腰かけた大きな図体の彼に、キッチンに立っている彼女はグラスに並々入れたオレンジジュースをカウンターテーブルに乗せた。
 店内はボサノバが流れていて、女性の声が小鳥の囀りのように歌っている。

 店内は彼と彼女二人だけ。

 表の看板は既に引き下げられており、入り口付近はレースのカーテンがかかっている。扉傍のテーブルには今日のランチメニューと書かれた看板が立てかけられている。
 時刻は深夜23時をまわり、まもなく半に近づいている。
 テーブルの上に置かれた携帯画面にテレビが流れている。画面の向こう側ではカウンターに座っている彼が腕を組んで笑っている様子が映っている。

「せいちゃんが覚えてなくても、私が覚えているんだもの」

 明日の準備をしているのか、バットの中のナッツや様々な食材を片手に持って在庫を確認するとバインダーの用紙に書き込んでいく。
 彼は差し出されたオレンジジュースを手元に寄せるとストローを咥えた。中では彼女が屈んで冷蔵庫の中を確認しては閉じるからか何度もバタンバタンと開閉音が響いている。

「なにもあそこで言わなくていいじゃん」
「あそこで鶴瓶さんに言ってもらわないと、私のお店がせいちゃんのファンに炎上されちゃうじゃない」
「えーそんなことないって。俺のファン、素行はいいはず」
「どこが。高校編入したとき苦労させられたんだから」

 バタン。
 冷蔵庫の扉を閉めると彼女はそのままカウンターから続くキッチンへと引っ込んだ。彼はカウンター用の椅子の足かけ部分にサンダルを引っ掛け、カウンターに肘をついた。オレンジジュースを半分ほど飲み干しストローを口から離す。
 ボサノバの曲が終わり、夜にふさわしいスローテンポのピアノジャズが流れ始めた。
 ”Along came BEETY”――サックス奏者の作曲をピアノできれいにアレンジしている。

「俺が一緒に買い物行ったら、ナマエめっちゃ嫌がってた」
「だってせいちゃん、私が好きじゃない服着させるんだもの」
「それは、俺がナマエなら似合うと思ったから」

 ひょっこりとキッチンから顔を覗かせて答えた彼女は、再びキッチンに引っ込んだ。

「ねえ、ナマエの初恋は俺だった?」
「・・・か・・」

 キッチンの奥の方から彼女が声を発するが、カウンターまで届かなかった。彼は椅子の足かけ部分から地面に足をつけると身を乗り出した。
 首にかけていたチョーカーがコップにあたった。カラン、という音に気付いた彼は少し上体を起こしてキッチンのほうへ身を寄せた。
 向こうのチェックが終わったのか彼女がバインダーとノートパソコンを片手に抱えて戻ってきた。台の上に置き、入力作業を始めている。

「さっきの、聞こえなかった」
「ん? そう」

 彼の言葉にも彼女は気のない返事を返す。それでも両手はキーボードを打つことをやめない。
 不服そうにむすっとした顔を作ると、彼はカウンターに置いてある携帯に手を伸ばした。そこに映っていたはずの黒髪の彼は姿を消して、番組の司会者が彼に向けてメッセージを送っている。それを見切ることなく、彼はそれに手を伸ばしてテレビを終了させた。

「俺、もうナマエの恋愛対象じゃないの?」
「家族みたいだもの」

 間髪入れずにそう返して、彼女は目をほんの僅か細めた。目の下に涙袋が浮かんでいる。働いたあとだからか、少し化粧は落ちていた。それでも、彼女の整った顔は照明の暗くなった店内できれいに映っていた。
 キーボードを鳴らす音が響き、店内のスローテンポのピアノジャズが終盤へと向かっていく。
 彼はグラスの中のオレンジジュースを一気に飲み干すと、コップを持ち上げてパソコンの横に並べた。

「俺は違うの」
「なにが?」
「家族なんて思ってない」

 パソコンの画面を見ていた彼女の視線がばっと上がった。じっと彼女を見つめる彼と視線が絡み、彼の熱い眼差しに微笑んでいた表情を少し硬くした。 すっと視線をパソコンに戻すともう一度入力作業を再開する。

「じゃあ友達」
「わかってるくせに」

 彼女の少し緊張した声音を遮るように、彼は少し口調を強くしてつぶやいた。
 画面の向こう側から送られる強い視線に耐え兼ねた彼女はノートパソコンの横に置かれたグラスを手に持ってそのまま後ろの流し台に置いた。

「せいちゃん、いつもお店に来てくれてありがとうね」

 先ほどの会話を終わらせるように彼女はそう言った。蛇口を捻り、グラスの中に水を浸す。グラスの中に水があふれてから、彼女はそっと蛇口を閉めて、カウンターに振り向いた。

「なに、今更」
「なんとなく。そろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」

 彼女はそう言ってパソコンに向かいなおすと、入力作業を再開した。

「いーよ、ナマエが終わるまで待っとく」
「入力まだ終わらないからいいよ。今日雑誌の取材受けてここに寄ってくれたんでしょ。終電逃したら大変だよ」

 彼女は彼に言いながらそっとバインダーに視線をずらした。
 パソコンの入力画面は既に送信完了となっている。本当は入力作業は先ほど終了していた。彼女はエクセルのデータを開いて、いまする必要のない表を見つめた。

「待つよ、だって泊めて欲しいし」
「泊まるって私の実家に? せいちゃん家近いのに」
「え、この辺で一人暮らししてるんでしょ?」

 彼の言葉に彼女は動転した。間違えてエクセルのデータを危うく消去しかけた。

「なんで」
「おばさん言ってたもん」
「・・・・」
「泊めてよ、家族でしょ?」

 そう言って彼はカウンターに寝そべるように頭と腕を乗せ、上目遣い気味に彼女を見上げた。見上げてくる視線に彼女は静かにため息をつくと、パソコンの電源を落とした。それをそっと持ち上げてキッチンの更に奥――事務所に持っていった。
 彼は椅子から降りると、そばに置いていたキャリーケースを起こした。持ち手の部分を伸ばしてカウンター横の隙間からキッチンの方へと向かう。カラカラとローラーが音を立てて回転する。
 キッチン奥の事務所まで彼がたどり着いたのを確認すると、彼女は店内の灯りを消した。事務所のテーブルにノートパソコンを置いて、金庫の中のお金を再度確認して彼女は厳重な扉を閉めた。
 彼は事務所の入り口付近で立ち止まり中をてきぱきと動き回る彼女を見ていた。

「せいちゃん、男性を年頃の女性の家に」
「でもナマエにとって俺は家族なんでしょ」

 彼女は机の引き出しの鍵をかけながら、ぐっと言葉を詰まらせた。

「なに、もしかして意識してくれんの?」

 彼はあながち馬鹿ではない――彼女は昔から分かりきっていた事を再度認識するともう一度大きなため息を吐いた。

「わかった、泊まってってもいいけどソファで寝てね。布団ないから」
「さんきゅ」

 渋々承諾した彼女に彼は微かに笑むとすぐに表情を戻した。壁に凭れかかりながら彼は彼女をまっすぐ見つめた。彼女は屈んで有線の電源を落とすと、身につけていた腰元の黒いエプロンを外した。
 感じる視線を無視して彼女はそっと黒いエプロンを片手に持つとその奥の電話ボックスサイズの更衣室に向かった。引き出しから服を取り出して彼の方を振り向いた。

「今から着替えるから、絶対に開けないでね」
「えー」
「開けたら家にあげない」
「別に開けて着替えてもいいのに」

 口を尖らせる彼を無視して彼女はそのまま中に入った。パーテーションを閉めてごそごそとカフェ用の白いシャツと黒のズボンを脱ぎ始めた。

「ねえナマエー」

 パーテーションの向こう側の彼が声をかけてきて、彼女は着替えながら返事を返した。

「んー?」
「俺の初恋の相手、聞きたくない?」
「結構です」
「じゃあ今好きな人、聞きたくない?」

 

 

この恋を軌道に乗せようか

 

「結構です」
「ねー聞いてよー」

 


[2013年5月 28日][一部改編 2020年8月22日]
titleは「 fynch様」より拝借しました。