想いあふれて

*若干藤有希気味です。苦手な方はご遠慮ください。

 

想いあふれて

 

 

 授業終了のチャイムが鳴った。教科書とノートの角を揃えて学校指定の鞄に収めていると、席を立った人たちが扉を開けて出ていく。騒めき出した廊下から、激しい振動が徐々に近づいてきて。
「ナマエちゃん元気ー? あ、今日もかーわいー!」
 駆け足でどこかへ向かう最中だろう藤代誠二が、本人以外にも間違いなく届く声で叫んでいった。
 余韻を残した教室の中は、一度しんと静まり返ってそれから何事もなかったかのように日常を回しだす。叫ばれた私は当初の喜びや嬉しさなどこれっぽちも見つけ出せず、唇を噛み締めるのだ。
 こんな高校に入るんじゃなかったと、あのまま上水高校を受けていればよかったと、後悔ばかりが積もっていく。

 桜上水中学から私立武蔵森高校へ入学が決まったのは私と水野だけだった。出身校だった両親は私の合格を大いに喜んだ。あそこは色々と学べるから、男女別学と言ってもたまに混合で授業を受けることもあるよとか。いろんなことを教えてくれた。
 小島有希と仲の良かった私は水野ともそれなりに顔見知りだったから、一緒だと聞いた時どこか心の拠り所にしていた。一人ぼっちよりも同じ中学出身だった男子が一人でもいることで安心していた。
「藤代って男子もいて、アイツ、多分顔広いだろうから困ったことがあったら何とかしてくれるかも」
 アメリカへ発つ日、去り際空港で有希にそう言われてもいた。同郷出身と友人の知人。ある意味心強かった。
 それに高校に上がるのだから、きっと他にも他中からの出身者がいるだろう。大丈夫だろうと。公立出身の私は中高一貫校の厳しさを侮っていたのだ。

 入学初日から、私は教室で完全に浮いていた。他中から高校へ進学してきたのは私と水野を含めてたったの20人だった。男女で20人。女子は半分も居なかった。校長室の前で顔を合わせた私たちはそれからバラバラに教室へ放り込まれた。
 女子しかいない教室は初めてで正直異様だった。「名前、何て言うの?」尋ねてきた彼女に自己紹介するも、相手はそうと笑って名前を名乗ることはなかった。中学から上がってきたのであろう彼女たちは私を仲間に入れる気など微塵もなかった。出来上がった集団、友人関係、女子特有のカースト制度のようなもの。そんなドロドロした見たくも聞きたくもないものばかりが視界や聴覚から強引に入り込んで来て、心を不安定にした。
 さらに私の頭をガツンと殴ってくれるものがあった。授業だった。
 私が高校受験に明け暮れ、後輩と共に泣き腫らした引退や送別会、卒業式――それらを行っている間にここは既に高校一年の授業へ突入していた。最初の授業からちんぷんかんぷんで混乱した。一発目の学期テストは散々で、先生に呼び出されて追試もさせられた。隔離で勉強を指導される程に。
 それでも親の期待を無碍にしたくないから必死に勉強した。部活になど入る余裕はこれっぽっちも無かった。夏休みは地元に帰っても友人たちと遊ぶこともせず、ずっと机に齧りついた。おかげで冬休みが明けるころにはなんとか授業についていけるようになった。同じ立場の他中出身の子とも励まし合って、教室では浮いた存在でありつつも、話しかけてくれる人も増えてきた。グループには入れてあげれないけど、が条件だったけれど。
 そうして何とか一年が終わって、二年になって。
 そう、二年になってついに、男女共通授業が始まった。
 水野と同じ授業を受けるようになった。一年ぶりに顔を合わせた水野はすっかり学校に馴染んでいて小さく胸が痛んだ。彼の周りには誰かが一緒に立っていて。一人の私を見つけた彼は話しかけてきた。久しぶり、うまくやってんのかと過保護に尋ねてくる。
「なかなか難しい。水野はいいな、友達がいっぱいいて」
 ため息を溢すように言えば水野は目を丸くした。
「アイツらただ同じ部活だから」
 距離を置いた言い方をしているけれど、それでも私には水野が羨ましかった。
「でもいいなぁ」
「何が」
「だって部活、してるんでしょ? 私馬鹿だから入る余裕なかったよ」
 へらっと笑って自分を卑下して嫉妬を誤魔化す。こんなの些細なことだ、些細。大体他中から進学してきた男子全員がどこかに入部していた。当たり前かもしれない。スポーツ校としても名門と呼ばれているここなのだから。水野が眉根を寄せた。何か言いたそうに口を開く。
 その時だ。
「おーいみーずのー」
 名前を呼ばれた水野が視線を動かす。声のする方へ自然、私も顔を向けた。その時初めて私は藤代誠二を間近で見た。全校集会で教員と同じように前に立つ姿を遠目から見た事はあったから、すぐに彼がその人だと気がついた。
 彼より少し身丈の低い猫目の男子が隣りに立っている。猫目の彼と目が合った。驚いて瞬きを繰り返している間に、彼の視線はすいと別の方へ向いていた。この人も見たことあるなあ。
「あ、ミョウジ悪い」
 水野が私の方へ断りを入れて離れようとした。その一歩を留めるように、藤代の声が響いた。
「あ! 小島の写真に写ってた子!」
 人差し指の先は間違いなく私をさしていた。
 ずかずかと近づいてきた彼は私に手を差し出した。
「こんにちはー! 名前なんて言うの?」
「え、ミョウジ、ナマエです」
「誠二でもなんでも呼んで、よろしく! 仲良くしよーぜ」
 差し出された手に戸惑っていると、随分強引に手を握られた。ぶんぶんと振る力も雑で力強い。呆気に取られている間に彼は用件を思い出したらしく水野を引っ張っていってしまった。
 好奇な目が教室の至る所から突き刺さってきて、居た堪れない思いの私は、向こうから藤代誠二だと自己紹介されていなかったことに気付きもしなかった。
 それから。
 顔を合わせれば向こうから手を振られるようになった。彼が私の教室を通り過ぎる時は、周囲の目など気にする気配も見せずに私の名前を呼んできた。
 屈託ない笑顔を向けられれば、男子であろうと誰であろうと嬉しいものだ。特にこんな環境のなかで親しく話しかけてくれたのは嬉しかった。
 けれど。
 けれど、けれどけれども!!

 挨拶の一言もなく引き戸の開く音がした。先生が戻ってきたのだろうかと思っていたけれど、違った。
「あれ、ナマエちゃん? どうしたの」
 振り向きかけた首を戻して、ソファに座ったまま続ける。
「藤代くんこそ、どうしたの」
「え、俺? 俺はちょーっとお腹が痛くなって、先生は?」
「先生は今職員室、もうすぐ戻ってくるよ」
「へえ、そうなの?」
 入口で靴を脱ぐ音がする。
 消毒液の匂いのするこの部屋など似合わないような彼の気配が近づいてくる。弾力あるソファに深く腰掛けたまま、私は身動ぎもせずじっと相手の様子を窺う。
 ソファの傍まできた彼は、向かいの保健医の卓上から白い間仕切りカーテンの方までぐるっと見回して、それから私を見下ろしてきた。
 じっと、見つめられる。視線に気付いていたけれど、見返す気などない。
 そうすれば、彼は同じように隣りに腰を下ろした。反動で私の座っているところまで一度沈み揺れる。
「ナマエちゃんはなんで? それで?」
 それ、と指してきたのは私の膝の絆創膏。そんな訳ない。たかが擦り傷で一時間も授業をサボれる訳が無い。
 私は口元にあてていたタオルをそっと外す。やっと幾分か落ち着いてきたのに、肺のあたりがチリチリしだす。
「過呼吸で」
「え? ナマエちゃんが?」
 目を丸くして驚いた様子。過呼吸って何か知ってるんだ。
「うん」
「なんで、だって運動してるわけじゃないのに」
 首をかしげてこちらを不思議そうに見つめてくる。
 心配しているわけじゃない。ただ、どうしてなのか知りたいだけ。
 それが分かるから、わかってしまうから、余計に腹が立つ。小さく繰り返す呼吸がだんだん早くなっていく。ああだめだ、気を落ち着かせないと。
「誰のせいだと」
「え?」
「何、でもない」
「なに、俺のせい?」
 わかっているのに、お腹のあたりが痛みだしてくる。誰のせいでこうなったと思ってんの。
 膝の絆創膏だって、この過呼吸だって、女子からの風当たりが強くなったのだって、私のせいじゃないのに。
「……そうだよ、藤代くんの、せいだよ」
 ソファの離れた場所の顔が不満、と言いたげに歪む。
「なんもしてないんだけど、俺」
「毎日顔を合わせるたびに、あんなこと言わないで」
「あんなことって?」
「かわ、あ、挨拶以外のこと。大きな声で言うの」
「あ、可愛いとかって? えーそれ? それの何がダメなの?」
 別にいいじゃん、だってそれが俺だし、と悪気など毛頭ないと言いたげに追及してくる。
 なんで分かってくれないんだろう。やめてほしいって私の気持ちを、なんでわかってくれないんだろう。それのせいで、やっと話しかけてくれるようになったクラスメイトたちからの眼差しに刺が含まれるようになってしまった。調子に乗るなと他クラスの子に呼ばれるようになった。
 ふつふつと怒りが煮たぎる。これで、藤代くん自身がもう少し私を見てくれていたなら。
 ちゃんと見てくれていたんなら、私だって。

「上っ面な言葉ばっかり! 私のことなんて何とも思ってないくせに!」

 いっちゃダメだ、言ったらダメだ。
 これ以上先のことを口に出したって報われない。自分自身が傷つくだけ。それに相手がそれを認めてしまえば、ただの憶測で終わっていたものが真実になってしまう。
 わかってる。わかってるのに!
 私の心は荒々しい波のように飛沫をあげている。目尻はつり上がっているに違いない。藤代くんは突然大声をあげだした私を驚くでもなく――静かな顔で見ていた。どういう心理状態なのかわからない表情で、口を開いた。
「どうして?」
「どうしてですって?」
 かあっと頭に血が昇っていく。
「私、知ってるんだから。藤代くんが有希に言われて話しかけてくれてるの! 頼まれたんでしょ? 仲良くしてあげてって。聞いてたわよ有希から。藤代くんは有希との付き合いがあるから、別に興味もなにもない私にずっと声かけてくれていたんでしょ」
 自分で言いながら、胸がじくじくと痛くなっていく。
「ありがたいって思うわ。私も有希に感謝しなくちゃって思ってる。でもね、もう少し言葉を選んでくれない? なにも思ってないのにあんな言い方しないで。だって、私以外はそれを知らない、みんな知らないじゃない! だから周りが勘違いして」
「勘違いって?」
 最後まで言い切る前に、藤代くんが声を挟み込ませてきた。静かで先程よりも低い声に、熱くなっていた私も勢いを削がれてしまう。
「それは、藤代くんが」
「俺が?」
「藤代くんが……」
「俺が、なに?」
 最低! わかってるくせに! わからなくてもここまで言えばわかるでしょ!
 藤代くんが私のことを好きだと皆が思っていて嫌がらせを受けているなんて、本人に言えるわけないのに!
 自惚れだと言われそうだし。それに、「まさか、好きなわけないじゃん」――そう否定されるのも嫌だから言えないっていうのに。だって有希が好きなんだ、この人は。その相手から私を頼まれたから渋々声をかけてくれてる。なのにまんまと惚れちゃったなんて。あーもう本当いやだ!
 そんなのも全てわかってて、でも、それでも強い引力で引っ張られるみたいに好きになってしまったんだもの。惚れた自分が悪いのはわかってる。ジリジリと怒りと胸の痛みが私を苦しめる。
 泣くもんか、こんなことで涙を安売りなんてするもんか。
 気持ちを押さえ込もうとすればするほど呼吸が荒くなっていく。やばい。浅く呼吸しないと、二酸化炭素を吸い込まないと。わかってるのに思うように呼吸ができない。どんどん指先が冷えていく。
 私の様子に気がついたのか、彼は顔色を変えた。手が伸びてきて、私の腿に落ちていた無地のタオルを拾い、口元に差し出してくる。震える手で受け取り、口で息を吸い込む。
「苦しい? 大丈夫?」
 丸まった私の背中を摩ってくる。あなた腹痛でここに来たんじゃなかったの? なんて厭味を吐いてやりたいところだけど、生憎それどころじゃない。
「ゆっくり息吸いなよ、ほら」
 それができたら苦労しないんだけど。憎まれ口を叩きたくなる一方で、私の心臓は高鳴っている。だって、好きな人が私の背中を摩ってくれているんだもの。嬉しくないわけがない。ああ、そんな自分が。
 悔しい、悔しくて悲しい。それでいて、情けない。
 真横で大きな体を小さく屈めて私の様子を窺うところは、本当に心配してくれているみたい。
 うまく呼吸ができなくて浮かんでいた涙が、ほろっと溢れた。口元にあてていたタオルにあたり、ころりと転がり落ちていく。落ち着かせようと目を閉じた――目尻に温かい感触を感じる。それが、ぐいっと横に線を引いた。藤代くんの指だと気づいた途端、顔が強ばった。徐々に顔が熱くなる。
 横を向けば、思いのほか近く、藤代くんがこちらをじっと見ていた。心境の読めない顔は、私を混乱させた。
 だから、小さく息を吐くのと同時に声がこぼれていた。私も性格が悪い。きっと相手を動揺させたかったのだ。

「有希が、好きな、くせに」

 彼の眼が一瞬だけ揺れたような気がした。

 ガラッと引き戸の動く音がした。
「あら、藤代くんどうしたの? ミョウジさんまた起きちゃったかしら?」
 スリッパでこちらにやってくる保健医の声に安堵する。
 藤代くんは腹痛でと言いながら私の前を先生に譲った。私の手を握ってくれた先生の手はぬくかった。
「冷たくなってるわねえ、毛布かぶろっか。ちょっとまって。藤代くんはお薬飲む?」
「あ、だいぶ治まってきたんで大丈夫です」
「じゃあ授業戻れるかしら? ここは休憩室じゃないから元気な人は戻ってもらわないと」
「そーします」
 靴を履く音と、扉が閉まる音を私はソファで毛布にくるまれながら聞いた。

 

 

 

 次は四時間目かあ。なんてうとうとしていると、再び彼が現れた。
「失礼しまーす」
「あら藤代くん、今日は多いわね」
 白いカーテンの向こう側で繰り広げられる先生と藤代くんの会話を聞く。
 私は結局ベッドに移動して一度眠ることとなった。おかげで呼吸は整ったし気持ちも軽くなった気がする。しかし、一体なんの用だろう。
「まあちょっと。ナマエちゃんって戻りました?」
「いいえ、いまそっちで寝てるわ。用って?」
「あ、ナマエちゃんに。入ってもいいですか?」
 藤代くんの質問に心臓が突然ばくばくと大きな音が鳴り出す。
 入っていいわけない。さっきあんなこと言ったばかりなのにどんな顔で会えばいいって言うの!
「そうね、次の授業受けるか聞かないといけないし」
 先生はさらっと了承してしまった。
 来るのか、藤代くんは入ってくるのか。一体何の用で?
 二人分の足音が近づいてくる。シャーっとカーテンが開かれていく。
「……寝てるみたいね」
「本当っすね」
 私は寝ている体を貫くことにした。
 どうしようかなあ、と言って先生が踵を返していく音が聞こえた。
 藤代くんの気配が近くで感じる。まだそこに立ち止まっているのかな。じりじりと、まぶたの向こう側から熱い視線を感じる――熱い?
 脳裏に疑問が浮かぶ。自然眉間が寄ったと同時に、先程よりももっと近くに気配を感じた。

 ――え?

 ガバリと勢いよく私は起き上がった。え、今のって。え?
 パイプベッドの足元辺りでこちらを振り返った藤代くんと目が合う。自然と指先が唇をなぞってしまっていた。
 今のって、口に。まさか、え?
 藤代くんはにやっと含むように笑って人差し指を伸ばした右手を口元へ。
 嘘だ。一体なんで今、私はこの人に――。
「せんせ、ナマエちゃん起きたよー」
 顔真っ赤、お猿さんみたい。
 背中を向けた藤代くんの姿が白いカーテンの向こう側へ遠ざかっていく。
 なんでなんでなんで。
 なんで、だって有希が好きなんじゃないの?!
 先生がパタパタとスリッパを鳴らしながら近づいてくる。開いた口が塞がらない。はくはくと言いたいことも言えずああとかううとか漏らしている。
 この人は一体何なんだ?!

 

 


[2016年02月25日]