絆創膏だらけの君の指

 この手を包むその手から、いつもぬくもりと優しさを貰ってきた。丁寧な手つきで指を一本ずつ撫でるその手に、心は嬉しさに満ち溢れていた。
 その右手で、薬指の付け根のあたりをぐるっとなぞられれば、まるでそこに透明な色の絆創膏でも巻きつけられているようで、思い出せばいつだって胸がいっぱいになって、それと同じくらい苦しくなった。
 名残惜しそうに君は人差し指をきゅっと掴んで、ゆっくりと手を離す。
 増えていくのは、その行為と――。

 

 

絆創膏だらけの君の指

 

 

 高校二年の夏。帰省した我が家で、誠二はナマエと出会った。

『こんばんは、お邪魔させて貰ってます』

 きちんと目を合わせたのは、台所で。母親に頼まれた買い物を渡しに行った時だ。あの時は驚きと親の介入できちんと話すことはできなかった。
 けれど、誠二はそれより少し前にナマエを知っていた。見た、と言ってもいい。
 その買い物に駆り出された道で、彼女を見ていた。泣きながら歩いてるのに、きちんとまっすぐ前を見据える姿。澄んだ瞳の奥に光が見える強い眼差し。あの時のナマエの姿は印象的で、誠二は目を逸らすことができなかった。その時から、誠二はナマエに惹かれていた。

 ナマエは、世話好きで有名な誠二の母親が通っている美容院の新人スタッフだった。年は、誠二より一つ上で、家の事情で中学を卒業してすぐ働き始めた。
 器の大きい女性オーナーは、遠くからやってきたスタッフの為に部屋を借り、ナマエには働きながら通信課程のある美容師専門学校へ通わせるという大業もやってのけていた。そんな彼女の事情を聞いた、誠二の母親の世話好きに火がついたのだ。何かとナマエを気にかけ、よく食事に家へと招待していた。

 はじめは互いに距離を測りかねて気まずさ漂う二人だったが、打ち解けるとすぐに仲良くなった。年の近さと、二人の相性が良かったのもある。

 

 

「ナマエ、手、見せて」
「うん、はい」

 出会って二日目の夜。
 ナマエの部屋で、二人は向かい合っていた。同室の相手が帰省中で不在だったのを理由に、誠二はこっそり上がった。
 電気も付けず、カーテンを開けたままの窓から差し込まれる月明かりを頼りに、誠二は差し出されたナマエの手を掴んだ。

 昨日誠二の部屋でナマエの手を見たときに、約束していたことだった。

『後でばんそうこう貼ってあげる』

 触れたナマエの手はふくよかで、若さあっての弾力があった。その指には少しの切り傷が見える。美容師を目指すナマエが、未熟な腕で鋏を持った結果に出来た無謀な傷は、見ていて痛々しい。

 たった二日で、二人の距離はすでに近かった。手を伸ばして抱き合える距離。けれどそれができない心の距離。
 短い間に誠二の心は、ナマエという人間の魅力にぐっと引きこまれていた。その負けん気の強さも、家族に憧れを持つ純粋さも、澄んだ目に宿す真面目さも、すべてが眩しく輝いて思えた。

 誠二はナマエの指を一本一本丁寧に掴んだ。愛情を持って、慈しむように。

「はい、終わり」
「ありがとう」

 ナマエの両手に四枚の絆創膏を貼り終えて手を離す。彼女は掌をじろじろと感慨深げに見ていた。

「家族って、こういうこともするの?」
「うん、するっていうかしてもらった、かなー」
「わぁ…いいね、家族って」

 嬉しそうに両手を見ているナマエの姿に、誠二の胸に温かな気持ちが込み上げる。
 叔父叔母の子供たちと共に育てられたナマエは、誠二にとって当たり前のことを与えて貰えずに生きてきた。いつだって愛情が回ってくるのは最後で、嫌なことのお鉢が回ってくるのは最初だったのだ。

 もっと何か、喜ばせれたらなぁ。

 絆創膏を見ていた誠二はふいに閃いた。

「ナマエ、ペンかして」
「ペン?」

 彼女は通学に使っている鞄の中から筆箱を抜くと、黒のペンを取り出した。それを受け取ると、誠二は再びナマエの左手を掴んだ。
 不思議そうに目を丸くするナマエを尻目に、誠二はキャップを外したペンを絆創膏の上に。昔、母親や病院で看護師にこんなことをして貰った記憶がある。例えば注射を終えた後にカッコイイシールとか言ってガーゼの上に貼って貰ったり、頑張ったらここに絵を描いてもいいよ、と絆創膏を差し出されたり。

「できた」

 誠二がペンを離せば、一枚の絆創膏に、黒の絵が描かれた。
 ナマエがコトリ、と首を傾げた。

「…なにこれ?」
「サッカーボール」
「ぜったい違うよ、これおにぎりに見えるもん」
「えー俺センスあると思ったんだけどなー」

 唇を尖らせて不貞腐れた顔をしていると、ナマエが嬉しそうに笑った。ああよかった、喜んでいる。誠二も嬉しさに笑みがこぼれた。
 それから、あとの三枚にも落書きすれば、ナマエはおかしそうに笑った。誠二の絵、センスないよ、と言いながらも絆創膏を剥がそうとは決してしなかった。
 一頻り笑いあって、それから誠二はもう一度ナマエの指をそっと掴んだ。

「誠二? もう描くところないよ?」

 ナマエが片方の手で目尻を擦りながら笑いかけてきた。誠二は静かに首を振って、それから床に散らばっている絆創膏の一枚を拾い、彼女の真っ白な薬指の根元にぺたりと貼った。

「…誠二?」

 誠二の行動に戸惑うナマエを置いて、先ほど貼った絆創膏の真ん中に線を二本引いた。線をぐるりと一周ずつさせる。
 誠二の描いた線は、手の上でなぞったこともあり歪であった。まっすぐというよりはみみずのようだ。

「見てみて」
「どうしたの?」
「こうしたらさ」

 誠二はナマエの手を遠く伸ばした。歪な線が、少しまっすぐ見えて肌色の絆創膏は肌に馴染んでみえる。

「指輪してるみたいじゃん?」
「え?」
「俺さ、ナマエを守りたい。そんで、いつかナマエに指輪をあげたいなー」

 ナマエは澄んだ目を一度揺らしただけで何も言わなかった。何を突飛な、とでも思っているのかもしれない。
 それでも誠二は懸命に気持ちを伝える。

「って今思ったから言った。そんで、やってみた」
「……」
「んだけど…正直これがずっと続くか、自分でも自信ない」

 明け透けな言葉に、呆気にとられたナマエがふっと笑った。強張っていた表情が幾分か和らいだのが見て取れ、誠二は心の隅でほっとした。

「それって、ずるいよね?」
「…ずるいかも」
「誠二って夏の浮かれ者?」
「え? なにそれ」
「夏のまやかしに騙されて、そんな気分になってるってこと」
「あー…」

 強ち間違いではない。
 暑さで思考があやふやで、ただただ理性を置いて感情に流されているだけじゃないかと問われれば、否定はできない。
 よく考えれば、誠二には他校に彼女がいたのだ。すっかり忘れていた。

「でもさーわかんないじゃん」
「…そうなの?」
「わかんないよ、もしかしたらこれが本物の恋ってやつかもしんないし」
「あははっ…面白いなぁもう」

 笑うナマエの顔を見て込み上げるこの感情は一時かもしれない。――けれど、と誠二は少し思った。

「……どうしたの、もう絆創膏貼るところないんでしょ?」
「あのさ、俺以外には絆創膏貼らせないで」
「…それは」
「お願い、約束してよ」

 誠二が差し出した小指を、ナマエはその澄んだ目で静かに見た。少しの逡巡のあと、彼女はコクンと頷いた。
 誠二の小指に伸びてきたナマエの小指は熱かった。絡めた指先の頼りなさに、誠二は胸の奥から守ってあげたいと思った。そして、これも夏のまやかしなのかと思った。

 

 

 

 

 がやがやと、部屋の外が騒がしい。半開きの扉から聞こえてくる会話に、誠二は沈ませていた意識を浮上させた。
 女性の交わす談笑に、カチャカチャと食器の鳴る音。母親の渋くなった声が、彼女の名を呼んでいる。その声と音を聞いてああそうか、と誠二は思った。
 自分は懐かしい夢を見ていた、と。

 あの夏から、五年の月日が流れていた。

 昔の恋を久しぶりに思い出した、と誠二は思いたかった。本当は、そう思うような恋をしたつもりだった。

 だが、そんな誠二の思惑を弄ぶように、あの一夏の恋は誠二の心に棲みついてしまった。誠二の胸に過るのは過去の恋ではなく、今も続く焦れったく胸を締め付ける感情と燻り続ける熱い気持ちだ。

『絆創膏貼ってあげる』
『ありがとう』

 あれから、誠二はナマエと会うたびに彼女の手に絆創膏を貼り続けた。家族の間でもそれが日常の一つになり、誰もそれを不思議がらなくなった。
 救急箱の置いてある部屋で二人向かい合い、絆創膏を貼る。それだけの行為に、誠二は少しずつ別の意味を含ませるようになった。

 なかなか連絡先を教えてくれないナマエに痺れを切らした誠二が美容院に行った時の事だった。
 その日、ナマエは学校でお店に居なかった。美容院で他に気になる客がいるのかもしれない、と探りにでた誠二に、店のスタッフがこう言った。

『ないですよ。お客さんとの恋愛沙汰はうちではタブーなんです。オーナーがそういうの厳しくて』

 それは誠二の心を大きく揺さぶった。そして納得したのだ――どうして何も教えてくれなかったのか。

『もし破ったら辞める事になりますし…あの子は真面目だからきっとしないと。もしもそうなったとしたら、うーん、そうですね、きっとナマエは辞めて実家に――』

 俺、ナマエに好きって言えないんだ――誠二の脳裏を過ったのはそれだった。ナマエは真面目な上に頑固だ。こうと決めたら揺らがない芯の強さは、普段から監督や先輩に食らいつく誠二が一目置くくらいだ。
 もしも誠二が好きだと口に出せば、ナマエが誠二の家に来なくなることは考えずとも浮かんだ。最悪、仕事を辞めるとまで言い出しかねないことも。
 ナマエが藤代家を慕っているのは周知の事実だ。誠二の告白は恐らく、ナマエから大切な場所を奪うことになる。
 もしも辞めることとなれば、ナマエはここから離れてしまう。それだけはダメだと誠二は強く思う。だって、ナマエの実家はナマエを不幸にする。
 いつか言える日まで待つ。
 その時、誠二は気持ちを留める決意をした。だって、ナマエを守るって決めたんだ、たとえ――その気持ちが必要とされてなくても。

 付け加えたのは、薬指の付け根に絆創膏を貼るふりをすること。こうすることで、誠二はあの夏のことを何度も伝えてきた。
 自分は忘れていない、あの夏のまやかしはまだ続いている。いつかきっと、そこに嵌める指輪を贈るから。
 人差し指を掴むのは、好きと口に出せない代わりだ。いつかサッカー部の誰かが女性誌に書かれているそれを口にしていた。人差し指には好きという秘密の意味があると。

 増えていく行為に、ナマエは何も言わなかった。

『はい、終わり』
『ありがとう』

 両手を感慨深げに見て、静かに目を閉じたナマエの顔は、いつも悲しそうだった。

 どうしていつも、そんな悲しい顔をするの。
 俺のやっている意味を、ナマエはわかっている?
 何も言わないのはどうして――。

 ナマエのことが好きだったから、いつだって喉元まで込み上げてくるその感情を言えなかった。
 ナマエが、藤代家を好きで離れたくないと知っているから。
 だから五年ものあいだ、誠二はずっと、ナマエに告白できないでいた。――今日までは。

 

 

 

「誠二くん、起こしてきますね」

 階下で彼女がそう言ったのが耳に届いた。けれど聞こえない振りをして、誠二は畳の上で横になったまま居眠りのフリを続けた。

 廊下を歩む足音が徐々に大きくなり、反比例するように蝉の鳴き声が小さくなる。ほんの僅かな静寂(しじま)の後、障子が桟の上を滑らかに滑った。
 体重がかかる度に畳が撓み、近づいてくる足音と、背中に感じる人の気配。そして再び響き始める蝉の鳴き声。

「……誠二」

 ナマエが誠二の名前を呼ぶそれだけで、こんなにも胸の奥が熱くなる。
 ナマエは二人きりの時だけ誠二と呼んだ。だから、誠二も同じように使い分けた。二人のあいだで交わされた秘密は、花の蜜のように甘く誠二を痺れさせる。

「…誠二? 寝てるの?」

 再び呼ばれたが、それでも誠二は寝たふりを続けた。背中から伝わる気配からは、どこにも戸惑いや困惑を感じない。
 畳に膝をつく音がした。誠二の剥き出しの腕にナマエのあの指が触れた。それはとても熱くて心地よい感触で、もっと触れて欲しいと思う。その反面、心の中は切なさに波紋が広がっている。
 とんとん、と。そっと触れて起こそうとしてくるナマエの優しさは上辺だ。ナマエはこんなに優しくない。ナマエが本当に優しいのであれば、誠二は今こんな感情に苛まれることなどなかった。
 指が誠二の腕から離れるのを感じた。ナマエの触れた箇所がじんわりと熱の名残をとどめている。離すかと咄嗟にナマエの指を何本か掴めば、指先の震えが掌に伝わってきた。

「ナマエ」

 名前を呼んだだけで、ちりちりと喉が焼けるように熱い。愛しさが込み上げてきて苦しい。冷房の効いたこの部屋で、誠二の体の至るところが熱を持ち始める。

「ん?」

 上から降ってくるナマエの声は前と変わらない。何も変わらない様子が余計に腹立たしい。
 ぐっとナマエの指を掴む手に力を入れれば、なんとなくギリ、と皮膚に爪が食い込んだ感触がした。
 どうしてナマエはこうも平然としていられる。なんで、今日までそんなに普段通りなんだ。なんで――。

「もう、うちに来ないの」
「うん」

 間を置かずに返ってきた言葉に、誠二は一度目を瞑った。
 こんなにも大事なことを、どうしてナマエは事もなげに返せるんだ。
 悲しみも帯びていない声は、寧ろいつもより冷静だ。こんな気持ちなのは誠二だけなのか。誠二はどうすることもできない悔しさにただ唇を噛む。じっと畳の目を数えながら、ナマエの顔を正面から見ることもなくたずねた。

「…結婚、するから?」
「……うん」

 階下から聞こえるのは、誠二の兄の声と母親とナマエではない若い女性の声。

 誠二の頭を、そっと何かが触れた。ナマエの指が、優しく誠二の髪を撫でていると気づいてさらに唇を強く噛んだ。

「お母さんに、寂しいって言われちゃった」

 カナカナカナ…――蝉の合唱に混じって鳴く日暮らしの声が、寂寥としたこの部屋まで届いた。

 

 

 兄が婚約者を家に連れてくると聞いて、昨日誠二は急いで寮から実家へ帰ってきた。
 ついに兄が結婚するんだ、相手は一体どんな人だろう。心が躍っていた誠二は、そこで母親の口からナマエのことを聞いた。
 明日でもう、ナマエがこの家に来ることがなくなると。これからずっと、もう来ないと。それは、家という接点しかない誠二にとって、別れを告げられるのと同然だった。

『ずっと昔から決めてたんです。誠一くんか誠二くんにお嫁さんが来ることになったら、私はここには来ないって。お母さんはこう言えばきっと遠慮しないでって言ってくれるとわかってたので。でも、決めた事です。これからも美容院ではよろしくお願いしますね』

 突然の報告に誠二は愕然とした。丸太で頭でも打ん殴られたような衝撃だった。
 誠二は知っている、ナマエは一度決めたことは絶対に変えない。どうあっても。
 躍っていた感情が急下降していく。停止していた思考が働き始め、理解と共に胸の中に黒い鉛が落ちていく。
 何のために今までずっと、この気持ちを言わなかったのか。
 言わなければきっと、ナマエはずっとこの家にいると思っていた。そんな考えは浅はかだったと突きつけられたようだった。

 

 

「寂しいって思ってるのは母さんだけじゃないと思うけど」

 首を回し顔を逸らすと、誠二の体の向こう側にナマエの姿を捉えた。目だけ動かせば、困ったような顔でナマエがこちらを見下ろしていた。
 その背中に腕をまわして、誠二の元に寄せることが出来たらどれだけいいか。
 横になっていた体を仰向けにすると、誠二は腹筋で上体を起こした。

「親父や兄貴も思ってる。俺だって」

 正座しているナマエの前で、誠二は胡坐を掻いた。真正面からナマエを見下ろして、時が経ったのだと実感する。
 あの頃の指の傷は細やかなものだった。今誠二が握っているナマエの指は皮が厚くなったのに、以前よりも皸が酷くなっている。短く切られた爪先には、カラー剤が付着してほんの少し黒くなっている。
 変化したのは指だけではない、容貌だってそうだ。黒かった髪は明るい栗色に、頬は桃色に染まり、マスカラの塗られた睫毛は長く、綺麗な曲線を描いている。

「そっか」

 彼女はそう言って目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とし、リップの塗られた可憐な唇がきゅ、と小さく閉じる。その様子が、誠二の胸をさらに苦しめる。

 ナマエが成長したのと同じように、誠二だって逞しく成長した。
 幼さの残っていた声にその名残が消えた。ずっと世間から注目を浴びることで、目の力が強くなった。よく、人にその目で見られるのが苦手だと言われるほど。
 筋肉がつくことで体の線が太くなり、精悍とした顔つきには、数年前の幼さはどこにも見当たらない。

「なんで急に来ないなんていうの?」
「ずっと前から決めてたの」
「なんで?」
「だって嫁ぎ先に家族じゃない女性がいたらお嫁さんが大変だもの」
「どうして大変なの?」
「お嫁さんがお母さんと仲良くしたいのに、私が邪魔になるの」

 ナマエはあの澄んだ目を誠二に合わせることなく、すらすらと言葉を返してきた。
 誠二はじっと床を見つめているナマエの顔を見ていたが、同じように視線を落とした。その先にあるのは、ナマエの酷い手だ。握っていた手を広げれば、そこにうっすらと爪の食い込んだ痕が残っていた。
 そっと両手でその傷だらけの手を包み込めば、ナマエが体を強張らせたのがわかった。

「うそつき」

 言葉は冷酷に、けれど誠二はナマエの手を丁寧に広げた。そうっと傷跡を一つ一つなぞる。
 誠二は知っている。ナマエはそんなに優しくないことを。

「嘘じゃない」
「嘘だ。だってナマエは、本当はあの人のことが羨ましいんだ」

 ぐっと言葉を詰まらせたナマエの顔を見ずに、誠二は続ける。小指から順に、ナマエの指を愛しみながら握る。薬指、中指、人差し指、親指。

「本当の家族になれるあの人が妬ましいんだ。そんなことを思う自分が嫌だから、もうここに来ないなんて言うんだ」

 言い切ってから、ナマエがこちらに視線を寄越しているのに気付いた。けれど誠二は知らんぷりを決めた。きっとナマエはこちらを恨めしそうに見ているに違いないから。
 気づけば口元が笑ってしまっていた。胸は苦しいのに、ナマエの本心を見通せたことが誠二には嬉しかったのだ。それほど、好きだというのに。
 薬指と中指の股を親指と人差し指で摘まんでいると、ナマエが視線を逸らした。

「………誠二は、彼女とどうなの?」

 ナマエが話を変えたいのはわかった。けれど、振ってきた内容がいけなかった。さっと色が落ちるように誠二の顔から笑みが抜ける。
 誠二は加減も考えず、思わず摘まんでいた指の股をぎゅうっと強く抓った。肺の辺りからじくじくと怒りが湧いてくる。ナマエの指が大きく震えている。それでも気にしなかった。
 なんで今、そんな事を聞いてくる。誠二の胸を怒りと痛みがぐるぐると混ざる。

「そんなの、どうでもいいじゃん」
「順調、ってこと?」
「それ以上言うな」

 黙れよ、と言いたくなるのを堪えた。
 誠二がどれだけナマエを好きかわかっていて、彼女は言っているのだ。どう考えたって優しくなんかない。

『誠二くんの彼女は綺麗と言うより、どっちかっていうと可愛くて胸がおっきくて、ちょっと小柄で年下ってイメージかな』

 数年前にナマエが放った言葉が、誠二を縛り付けた。それから誠二は、ずっとそんなイメージの女の子と付き合ってきた。
 色々な子と付き合うことにしたのは、ナマエから自分に向けられない好意への当て付けでもあった。それと、もう一つ。

「ねえナマエ」

 低い声で囁くと、ナマエは脅えた目を誠二に向けた。誠二は、よく人に嫌がられるまっすぐな目でナマエを睨む。

「ナマエはさー、ずるいよ」
「……」
「俺はさ、ナマエがそうだから、だから無理に彼女作って…」

 澄んだ目に、光がちらりと過った。ナマエの目が揺れている。それでも誠二は構わず言葉を続ける。冷房の効いた部屋のはずなのに、今や誠二の全身が熱くて苦しい。

「わかってんだろ。俺、別に年下が好きでもタイプでもない。勝手に決めんな」

 誠二には彼女がいてほしいと――ナマエがそう願っているから。
 ナマエの思いが、誠二にこんな呪縛をかけた。

 それが、誠二がずっといろんな女性と付き合っているもう一つの理由だった。誠二はナマエの事が好きだから、だから相手の願いを無下にできなかった。彼女に誠二は振り回されている。他人が聞けば本当に愚かだと蔑むような理由でも、誠二にはそれが正当な理由だった。

「俺、あの時から変わってないよ。ねえ、ナマエ、あれは夏のまやかしじゃない。…ずっと、ずっと言えなかったけど、俺」

 ナマエの顔に悲痛の色が浮かび上がった。リップの光る唇が開いた。

「言っちゃだめ」
「っなんで! 今日でもう会えなくなるのに?」
「美容院に来たら会えるよ」
「こんな風にはもう会えないんだろ」
「…うん、でも」

 切なげに首を振り訴えてくるナマエの瞳と合ってしまえば、どうしたって誠二は言えなくなってしまう。

 苦しくて辛くて、衝動に駆られて誠二は泣きそうなくらい顔を歪めた。歯を食いしばれば自然と眉が寄る。強く掴んでいたナマエの指を離すと、誠二は拳を力強く握った。
 もう会えないのに。このままじゃ、どうしたってナマエを好きで居続けてしまう。

 ずっとずっと、言える日を誠二は待っていた。待っていたのに。

 苦しさに誠二は顔を背けた。背けた先で、ナマエの皸の酷い手がゆっくりと持ち上がったのが見えた。

「誠二は……」

 先に続いた言葉の意図が読めず、誠二はナマエの顔を見た。その目は傷だらけの掌を見つめていた。

 

 

 *

 

 

「どうしてこれだけの傷があるか、考えたことがあった?」

 ナマエがそう問えば、誠二は訝しげに首を振った。

「ナマエが…早く一人前になりたくて、頑張ってるから」

 誠二からの率直な言葉に、ナマエはやっぱり伝わっていなかったのだと思った。
 どうしてこんなに傷だらけになりながら頑張ってこれたのか。誠二は、自分がどれだけナマエの心の拠り所になっていたのか、知りもしないのだ。
 夏のまやかしと片づけてくれたら、どれだけよかったか。そう思えば思う程、ぎりぎりと胸の奥が締め付けられる。

 五年前、夏のまやかしに囚われてしまったのはナマエだった。

 実家に帰ってくる誠二に会えれば嬉しく、あの笑顔が向けられる度に幸福に心が満ちた。あの手がこんな汚い指に触れてくれるだけでどれだけ胸が躍ったか。ナマエの持っていないものを全て貰って来た誠二に思慕を抱かないわけがない。隠すように、けれど直向きにこちらへ向けてくる誠二の好意にどれだけ胸が苦しくなっただろうか。

 そうっと、誠二の握り拳を作った手を包む。頑なな指を解して広げ、ゆっくりと一本ずつ撫でた。いつも、誠二がナマエにしてくれていたように。
 こんな風に二人きりで会ったり、向かい合って本音をぶつけるのも今日が最初で最後だ。もうこの日常は今から過去になる。だから誠二、言わせて。

「……ずっと、誠二に絆創膏を貼ってもらう時間が楽しみだったから」

 誠二は瞠目して何かを言いたげに唇を開ける。それをナマエは遮るように言葉を畳みかけた。

「って言ったら、誠二はどうする?」
「…うそだ」

 誠二は口をパクパクと開閉させて、それから息苦しそうに顔を歪める。
 俄かに信じられないと、ナマエが好きな誠二の目がそう訴えている。

「本当だよ」
「じゃあ、なんで」

 好きなのにどうして答えてくれなかったのか。どうして彼女を作らせたのか。きっと誠二はそう聞きたいに違いない。理由は単純明快だ。

「私は、あの人たちを裏切れないから」

 ナマエは恩を仇で返すことは決してできなかった。
 ――藤代さんとこの息子さんたちに手を出すんじゃないよ
 何度も口を酸っぱくして繰り返された言葉。オーナーも藤代家もナマエは好きだったから、ナマエはそれはないです、と答えた。そうして分厚い壁の向こうに感情を押しやった。

 

 

 *

 

 

 なんだこれは。ずっと一方通行だと思っていたのに。――これじゃあ却ってひどい。
 片思いじゃなかったとわかったのに、どうしてこんなにも苦しいのだろうか。
 誠二は己の手を撫でる細い指を掴んだ。柔らかい膝に手が触れる。
 止まらない、止まらない。こんなにも熱い気持ちを、誠二に止められる訳がない。

「っやだもう無理。俺、やっぱりナマエのこと」

 好きだと、紡ごうとした誠二の唇はナマエに塞がれてしまった。言いたいのに――ずっと重ねたいと願っていた柔らかな唇を享受せずにいられない。背中を走る痺れに、胸にこみ上げる切なさに、ナマエの体を押し返すことができなかった。蝉の声も遠くなるほど、長い時間だった。

 そっと離れていく唇に唖然とする。本当は、後頭部に手をまわして、腰を寄せたいのにそれすら出来ない。
 キスはしても、好きとは言わせないなんて。――本当にずるい女だと、誠二は思った。
 くしゃりと顔を歪ませる誠二の耳元に、ナマエの唇が寄って吐息を溢した。

「私、あの約束、これからも守るね」

 ――あのさ、俺以外には絆創膏貼らせないで。

 そんなことを言われたら、どうしたって諦めきれなくなる。
 胸の中を何かが崩れていく。ぐっと歯を食いしばって、誠二は目を閉じた。だからナマエは優しくなんかない。優しくなんかないんだ。
 誠二が動けないのをよそに、ナマエの手が誠二の掌から抜け出していく。衣擦れの音とともにナマエの気配が離れていくのを感じた。

「行こう、お母さんたち待ってるよ」

 最後までわがままでごめん。消え入りそうな声に目を開ければ、ナマエが泣きそうな顔でこちらを見ていた。

 ――やめてくれ。なんでそんな顔、するんだよ。最後なのに、言わせてもくれなかったのに。

 例えばこれが、今生の別れだとか、彼氏彼女と言う関係でなくなるだとか。そう言った変化があるならば、誠二だって腹を括れたかもしれない。
 けれど、現実は殆ど変わらない。ただ、ナマエが藤代家に来なくなり二人きりの時間がなくなる、それだけだ。

 どろどろと胸が爛れていく。無理だ、この人から離れるなんて俺には――。

 誠二はこれからも、実らない恋をし続ける。

 

 

 


『雨奇晴好』様への提出させて頂きました。
material:ヒバナ様 / title:さよならデスティニーまた明日様よりお借りしました。
[2014年08月23日]