糸繰草の懸想

糸繰草の懸想
 
 
しづやしづ しづのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな 【静御前】
 
 
「じゃーん」

 そんな言葉と共に差し出された手には花がこぼれそうなくらい抱えられていて、それは白い紙とプラスチックシートに包まれ太めの赤色のリボンに束ねられていた。わたしはおっかなびっくりしてしまい、すぐに受け取ることもできずただただ呆然と瞬きを繰り返し呆然とそれを見てしまった。

「ん」

 そんなわたしの反応に不満な声を出すでもなく、彼は受け取るようにさらに眼前へと押してくる。我に返り慌ててそれを受け取ると花独特の香りが鼻腔を擽って胸のあたりがほっこりした。

「誠二、どうしたのコレ」
「どうしたって買ってきたの」
「コレを?」
「うん」

 にこにこと満面の笑顔で返されてわたしは何故、と聞くことができなかった。今日という日がなにかの記念日だった覚えがないのだ。それともわたしが覚えていないだけでもしかしたら何かあったのかもしれない――普段から大雑把だとよく言われるけれど、ついにこの性格が災いしてしまった。
 尋ねることは容易いけれど、そうすれば誠二はきっと落ち込むかも知れない。
 聞くに聞けず、わたしは曖昧に笑むとありがとう、嬉しいと彼の喜ぶであろう言葉を返した。

「…うん」

 相手の喜ぶだろう言葉を言ったはずなのに、何故か誠二はどこかよそよそしそうに笑顔を“作り直し”たのだ。そう表現するのが正しいと思う。
 それくらい、本当にほんの少しだけの違いだった。自然と首を傾げていたらしい。左の首が凝るなぁ、と思い手を首筋に当てる。

「ねぇ」
「ん?」
「ナマエのこと好きだからね」

 何を今更、と。
 思わず眉を寄せて相手を見返す。意志の強い眼差しで見つめられながら言われたこともあり照れくささもあって思わずごまかすように鼻で笑ってしまった。胸のあたりがこそばゆくなり、次いで首筋から顔にかけて熱くなった。視線に堪えきれず思わず花束に目をやって、わたしはただ一言、うんと頷いた。
 花束の向こう側には黒のスーツを身に纏った誠二の太腿あたりが見えた。手持ち無沙汰な誠二の右手が玄関の扉の向こう側を揺れている。その向こう側はマンションの廊下の蛍光灯の淡い光が誠二の姿をほの暗く照らしている。

 今日は残業もなく定時に仕事場を後にした。ワンルームマンションに帰宅し自分のために夕飯を作って食べて、さてそろそろお風呂に入ろうか、としたときに突然の来訪者がやって来た――それが恋人の誠二である。
 会う約束をしていてもなかなか会えない相手が突然、それも一切の連絡もなくやって来ただけでも吃驚したのに、そんな人物がまさか花束を持ってくるとは寝耳に水だったのだ。いや、青天の霹靂? 窓から槍?

「は?」
「へ?」
「ナマエは、俺のこと好き?」

 いつになく甘えるような口調に聞かれたわたしが恥ずかしくなってしまった。普段から好きだなんて口に出すような性格ではないのだから、聞かないで欲しい。返事に困って眉根を下げて誠二を見る。けれども彼は口を真一文字に括りじっとわたしを射るように見つめてきた。これは言うまで喋らない気だ。

「こんな玄関先で言えないよ」
「いいじゃん、今教えて」
「誠二が中に入ってきたら」
「ごめん、もう行かなきゃダメだから」

 そう言って誠二はコンクリートから根が張ってしまったかのように動かない。微動だにしないのだ。
 普段ならこちらが言わずとも中への入ってくる誠二が、誘いすら受けてくれないということは余程時間がないらしい。

「時間ないの? 大丈夫?」
「…あんまよくない」

 凛々しい眉を寄せ目を細めて拙そうな誠二の顔を見て、わたしは慌てふためいた。

「そうとは知らずにごめんね」
「いいから、、返事」
「う」
「ねぇ、早く」

 そう言った誠二の表情にどこか焦りが滲み出していた。余裕が無くなっていく。そんな滅多にない彼の挙動に、わたしも挙動不審になりつつ答えた。

「好き、好きだよ」
「誰を?」
「誠二を」
「繋げて言ってよ」
「あーもう、誠二が好きだから」

 恥ずかしさを誤魔化そうと自棄になりながら言えば、誠二は一度寄せていた眉を解いて彼にしては珍しく“優しい笑顔”と喩えたくなるような微笑みをくれたのだ。
 その瞳が一瞬だけ蛍光灯の淡い光で光ったような気がした。

「ナマエ、サンキュ」
「元気、出た?」
「うん、満タン満タン」

 ニッと歯を見せて笑って。それから誠二は片手を上げてじゃあと言ったのだ。

「お花、ありがとね」
「おう」
「気をつけてね」

 そう言うと扉の向こう側の誠二が目を細めて口を閉じたまま頷いた。

「いってきまーす」
「いってらっしゃい」

 どこかに行くのだろう。普段ならばバイバイ、おやすみと言って別れているから何だか不思議な感じだ。きっと今後もしも一緒に暮らすようになればきっとこういう会話が日常になっていくんだろうな。誠二の姿が消えるまで見送りながらふと考えて、考えたことに照れくさくなってしまった。思わず貰った花束を代わりにぎゅっと抱きしめる。中の小さな白い花や、淡い青色の花がゆらゆらと揺れた。
 扉を閉めて、とりあえず花瓶なんてないからテーブルに置いて、とりあえず携帯を手に持ち写真を撮った。撮った、というよりも嬉しくて何枚も何枚も同じようなアングルの写真を沢山撮りまくったといった方が正しいかもしれない。

 
 
 

 その翌日、わたしは誠二が亡くなったというニュースをテレビ越しに知り、そのすぐ後に彼の安置場所を三上さんから電話で聞くこととなった。
 それからの数日の間、激流に飲み込まれるような日々だった。一体何があって、一体どうして誠二は動かなくなったのか。わかっている、夜道を歩いていた小さな子供が道を飛び出したのを見て助けたんだ。普段そんな善人のようなことをしないくせに。なんでそんな時に限って動いたんだ。誠二らしくないじゃないか。お陰で誠二の顔は拝むこともできなかった。腕も脚も、見れなかった。
 親族や親戚、サッカーを共にしていた仲間たちの後ろに、ひっそりと立っていることしか出来なかったわたしは、一体彼にとってどんな存在だったのだろう。言われずしてわかったのはわたしは“一番新しい彼女”であり、彼らの後ろに立つくらいの位置に値するのが当たり前だったのだ。あなたを死装束に着させることだって、体を拭いてあげることだってわたしはできなかった。それくらい遠い存在でしかなかったのだ。

『いってきまーす』
『いってらっしゃい』

 あの時に思ったことが、ふと脳裏を過ぎった。ああ本当に、なんで婚約でもしておかなかったんだろう。そうしたらあなたの近くに寄ることができたのに。あなたの骨を拾うことだってできたのに、わたしが藤代になっていれば、その骨壷を四十九日の間そばに居れたのに。

 濁流に飲み込まれているあいだに、気付けば一週間、二週間と日が経っていて。
 サッカー界のスター、悲劇の死から皆が別の報道へと目を向けていくころ。わたしはテーブルの上に花束が置いてあることにいま気がついた。
 一体なんだっけ、と思って見れば中の花は水気が無くなり色も失い枯れてしまっていた。それを見た途端、腹の底から大きな感情のうねりが登ってきて鼻の奥をツンと刺激した。じわり、と目に涙が滲んでいたのは一瞬でどっと洪水のように涙が溢れ出した。
 ぼたぼたとテーブルに雫がこぼれて、視界はぼやけてしまった。

『どうしたって買ってきたの』

「うそつき」

 随分と掠れた声が出て、唾を溜飲したら何故かしゃっくりが出てきてしまった。テーブルに手を付けば、こぼれた涙が当たって手の上を伝った。

『時間ないの?』
『…あんまよくない』

「ばか、ばか、ばか」

 なにがよくない、だ。全然ダメじゃないか。

「なにしに来てんのよっ…」

 親のところでも、先輩のところでも、わたしよりももっと心残りのあった人のところに行きなさいよ。なんでよりにもよって、わたしのところなのよ。
 あの時、気づいてあげれば良かった。大雑把な性格を、こんなに恨むことになるなんて思わなかった。
 テーブルの花束にそっと手を伸ばす。指で触れるとそれはカサリ、と音を立てた――存在する。存在しなかったはずの人から貰ったソレは枯れた花びらをビニールシートの上に散らしていた。
 死に際の大切な時間に、彼はやって来て、私に好きだとだけ伝えて去ってしまった。
 さっさと好きだと返してあげればよかった。何故あの時指だけでも触れなかったのだろう。
 一日の間に何度後悔の波に飲まれればいいのだろうか。足に力が入らなくなりその場に崩れ落ちる。

「……誠二」

 びしょびしょになった手で涙を拭う。
 名前を呼んでも返してくれる人はもうここにはいない。
 死に際にやって来るんなら、死んだあともやって来てよ。わたしのわがまま聞いてよ。
 もう一回、わたしの名前、呼んでよ。

「っばか誠二…」

 
 
 

糸繰草…別名苧環(おだまき)ともいう。花言葉に「必ず手に入れる」「愚か」「断固として勝つ」「捨てられた恋人(紫)」「あの方が気がかり(白)」がある。
しづやしづ しづのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな…(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
自分の名前「静」を「倭文(しず)」とかけつつ、頼朝の世である「今」を義経が運栄えていた「昔」に変えることができれば、と歌っている。『伊勢物語』32段「古(いにしえ)のしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」を本歌とする。Wikipedia「静御前」より引用

 

[2014年4月26日]