弱い君が好き

弱い君が好き

 

 

 冬の寒さも本格的になり、普段から冷えに対して完全防備で挑む彼女も部屋の中になると途端薄着になる。丸襟のニットの下に一枚着込んだだけの姿で彼女はベランダから和室へのわずかな道のりを何度も往復した。
 ひんやりと冷えた畳に正座し、まる二日かけて乾いた衣服たちをたたみに掛かる。シャツやニットは外気の冷たさを孕んだままで、触れるたびに温もっていたはずの指先が徐々に冷えていくのをなんとなしに思いながら彼女は作業を進めた。
 寒い日は苦手だが、別段嫌いではなかった。
息も凍りそうな空気の、その静寂の中にある清らかさや、静謐さの漂う冷気に剥き出しの素肌が触れる瞬間、改めて己のぬくもりに気づき――ああ、生きている――そう実感できるこの季節を彼女は嫌いどころか寧ろ親しみを覚えていたのだ。
 乱雑に盛っていた服がきちんと折りたたまれた状態で畳の上に重なっていく。タオルの山が崩れそうに揺れているのを見ながら、彼女は不意に背後に感じた気配に畳に向けていた視線を上げた。上げた彼女の視線の先に細い影が薄く伸びていた。誰が来たのかなど、とうに理解している――寝室で連日の試合でクタクタの体を休ませていた彼しかいない。なにか用があるはずなのに、相手は何も言わずにこちらが話しかけてくるのを待っている様子である。相手の甘えたい気持ちを悟りつつ、彼女は振り向きもせず乾いた衣服の片付けにせっせと励んだ。無言のやり取りの中に意味を込める――用があるのならば話しかけてこい、と。
 畳の上の影がゆらりと揺れ、床を踏み締める音が彼女の耳に届いた。ふいに、背後から腹部に回された腕に体を捕まえられる。それから右肩に感じる重みと、背中を包むような温もり。彼女はついはにかみ緩いため息を零してしまった。
「誠二?」
 優しく名を呼んでも声は返ってこず、替わりに右肩に置かれている頭を頬ずりするように狭い肩に擦り付けてくる。重みでぐらりとナマエの右肩が傾く。「こらこら重い、肩が疲れるから」そう言っても、彼女の言うことなど右から左に抜けているのかますます額を擦りつけてくる。
 呆れた顔をした彼女が首を回すと、額の半分も隠していない短い前髪と少し赤くなった額が視界に入った。その向こうに見える胡座をした長い脚も、腹部に引っ付いている筋肉の引き締まった腕も、どこか悲哀が漂っている。

 彼女がこの季節を慕っているのとは対照的に、彼はこの季節があまり好きではなかった。遠くない記憶の中での苦い思い出が、この寒さに乗ってふいに訪れるのだそうだ。それは夕暮れどきの運動場や、雪が降るグラウンドで、思いも知らぬ形でやってくるのだという。例えば彼が着ているユニフォームが青色や白色だったとしても、仲間のユニフォームがふいに黒と白の縦縞の入ったそれに“見えてしまう”のだ。“視えた”と彼が理解した途端、忘れていた後悔や懺悔にも似た感情が箍が外れたように溢れ出し、彼の心を濁流のように飲み込んでしまうのだという。その時の彼の放心状態を知る者は数少なく、彼女もやっと長く一緒にいるようになり、心を許してくれたのか彼がぽつりぽつりと涙を零すように伝えて知ったのだ。
 普段、周りに愛嬌を振りまいている彼からは想像だにできぬ姿を見ても、しかし彼女はなにも変わらなかった。狼狽するでもなく心を痛めるでもないし、かと言って無関心でもない。負の感情に溺れてもがいている彼の空気に寄り添うように共有し、ここに自分がいるよ、と示すかのようにそっと立ち続けた。彼自身が気づかぬうちに青春時代に置いてきた後悔を彼女は同じ場所まで戻り傍観する。このことが彼の精神が不安定に陥ったときの拠り所となっている事に彼女はまだ知らない。

 いつの間にか手を止めていたらしい。膝の上でハンカチを握ったままだったことに気づき、それを一先ず膝に置いて右手をそっと持ち上げた。畳むことで冷えてしまった指先を右肩に埋めている藤代誠二の頭に置くと優しく撫でた。
「よしよし、頑張ったね」
 返事の代わりに、腹部に回っている腕に力が入る。その手に左手を重ねると指を絡め取られた。
ナマエ
「はーい」
ナマエ
「うん、わかってるよ」
ナマエ
 いつものからりとした声が明るさを潜めてしまっている。枯れるような掠れた声音に返事を返すと絡めた指を強く握りしめられる。何かに怯え堪えるように丸めている背中を想像し、相手の頭を何度も撫でてやる。
「いいんだよ、誠二」
 弱くても、と続く言葉を口から出さなかった。明確な理由はない、ただの直感である。
「ん」
 肩に押し当たっている頭の方からくぐもった声が返事をした。返事を返せるようになったということは、彼の中を支配していた闇みたいな昏いものが薄くなった証拠である。
「夕飯なににしよう?」
 明確な料理名の代わりに「ん」と一言が返ってくる。小さな声でお肉、と溢れたのと彼女の耳は拾うと「うん、サイコロステーキがあったかな」と努めて明るい声を返す。絡めていた指をするりと解くと名残惜しそうに温もりを求めた指先が彼女の腕を這う。そんな相手の手を払うでもなしにナマエは洗濯物の片付けに勤しんだ。
ナマエー」
「はぁいー」
 先程より幾分かしっかりした声量で名を呼んでくる彼に返事を返せば甘えるように喉を鳴らし首元に顔を摺り寄せてきた。
 普段と似て非なる相手の状態に彼女は微かに笑む。いつも元気よくナマエの体を抱え込み逞しい体で包む彼も、哄然として笑う彼のことも彼女は好きだ。しかし、彼が時々見せる心の昏い感情に支配され暗雲低迷している姿も――実は愛しいのだと言えば、この男は傷つくだろうか。
「じゃあ洗濯物片付けたら作ろうかな」
 きっと彼は心の奥でこっそり傷つきながら笑うのだろう。だから言わないけれど――と、ナマエは思案するとそっと次の乾いた洗濯物に手を伸ばした。背中越しに伝わる温もりが彼女を求めるように擦り寄り、それから腹部の腕にますます力が入った。
「誠二いたいいたいー」
 静止を求める声はどうしたって優しくなってしまう。くすくすと口から笑いをこぼしながらナマエは彼の腕にもう一度その手を絡めた。外気でほんのり冷えてしまった指が、再び彼の皮のあつい指に絡め取られた。じんわりと温もる指を見つめながら、彼女は瞼をそっと下ろした。
 ひんやりとした部屋はどこか温もりを感じ、穏やかな空気が二人を包んでいた。

 
 

title、画像を宵闇の祷り様よりお借りしました。
[2014年2月 11日]