星の遺言

星の遺言

 

 

 ちりんちりーん。
 正月ぶりの我が家は、煌々しい夏の日差しや騒がしい蝉の合唱とは無縁のように静かで、網戸越しに通ってくる生ぬるい風と軒先に吊るされた風鈴の微かな音がやけに響いた。

 一階の和室で寝転がる。
 二つ折りにした座布団に頭を乗せ、イナゴ天井のある一点を見た。黒い染みが隅の方にできている。それをじっと見ていると、まるで自分の心の中の穴までもまさに「それ」のように思えてくるから不思議だ。あの墨でも撒き散らしたような点々とした染みが体の中に染み込んできて、私の心まで闇へと引き摺り込もうと蝕んでいくのだから。
 壁の柱のぼんぼん時計へ視線を移すーー時刻は間もなく4時になる。

「よっこらせ」

 上半身を起こすと、剥き出しの肩や肘に畳の跡が赤く浮かんでいた。片方の肘を摩りながら、私は障子を開け放した縁側の向こう側へ視線を向けた。ブロック塀の手前の庭は、手入れされていないから草がぼうぼうに生えている。毎年、春になると母が帽子をかぶって雑草をむしっていた。――あの子のために。

「はぁー」

 汗をかいた膝裏に手を差し込み、体育座りをした膝に顔をうずめた。部屋の隅に置いた扇風機がぶーんとやたら鳴りながら首を振っていて、暫くして右肩や右耳に風が届いた。ぼうっと膝の間から、色褪せ擦り切れた畳をじっと見つめる。
 涙はもう出し切った。後はこの虚無感をどう受け入れて生きていくか、それだけだ。
 縁側から衣擦れの音が聞こえて、ハッとして庭を覗いた。
 そこには、何もいなかった。
 荒れ放題の庭、道路と区切るためのブロック塀と柵。そのあいだに手作りで作った色が剥げた小屋。そばには水を入れるためのステンレス容器。チェーンの先にいたはずのあの子は、いなかった。
 ーーああ、本当にいないんだなぁ。
 じわり。目の奥から何かが溢れそうになる。咄嗟に目を見開いた。しまいこんだ感情が出てきそうで、顔を中心に寄せるようにきゅっとすぼめる。落ち着こう、大丈夫。そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと呼吸をする。

「変な顔」

 低く軽い声に、静かに目を開けた。開け放した障子に目をやると、縁側のその向こう――雑草が生え放題の庭に、藤代誠二が立っていた。焼けた肌はこんがりしていて、手元に持っている白い紙袋が妙に映えて見えた。
 目があうと、楽しそうでも悲しそうでもない、ただまっすぐ強い目を向けてきた。その目に答えるように、私は静かに頷いた。

「よっ、久しぶり」
「久しぶり。来てくれてありがとう」
「上がっていい?」
「うん。そこからでも玄関からでもどっちでもいいよ。お茶入れてくる」

 私の言葉に幼馴染みは頷くように俯くと、一度雑草の生えた中にぽつんと浮かんでいる小屋を見た。それから、そのまま縁側に腰かけると、靴を放るように脱いで上がった。

「おばちゃーん、久しぶりー」

 
 
 一昨日、我が家の柴犬のシンが亡くなった。

 夏の暑さと寿命だった。仕事の都合で実家から離れて暮らしていた私は、母からの突然の連絡に取るものもとりあえず実家へ急いだ。
 正月から見ていなかったシンは、見るからに痩せていた。苦しそうに息をする彼を、妹と両親で囲むように見つめた。シンは私たちに看取られ最期を迎えた。蝉の声も鳴き止んだ夜の出来事だった。

「あらあ誠二くん、テレビで見てるわよ」
「おばちゃんありがとー」
「頑張ってね、日本代表! あ、チームも応援してるからね」

 母から差し出された烏龍茶を受け取った彼は、一気にコップを空にすると、すぐに洗い場へ向かった。もう一杯、おかわり! なんて声が聞こえてきて、昔と変わらないーーそんな誠二に思わず懐かしい記憶が浮かんだ。

 
 シンを拾ったのは、私と誠二だった。

 小学校の帰り道。私たちが道草をくっている時だった。公園の隅からか細い声が聞こえてきた。そこに、ダンボールの中にちょこんと汚れた犬が捨てられていた。震えている犬を最初に掴んだのは誠二だった。
『なんかかわいくない?』
 そう言って頭を強く撫でると、柴犬はきゅうっと鼻の上辺りに皺を立てた。慌てて私は誠二の手を跳ね除けた。
『この子おこってるよ、誠二』
 私がおそるおそる耳元をくすぐると、彼は嬉しそうに目を細めて汚れた短い尻尾を振った。

 
 始め、誠二が飼うと言って名前をつけた。それが『シン』だった。理由は公園の電信柱のそばに捨てられていたから。
『電が俺で、柱がナマエだから、そのあいだをとって『信』!』
『……』
『え、なに?』
『誠二、言っていること変だよ? 意味わかんない』
 誠二の名付けた理由はよくわからなかった。今思い出しても、あの時の誠二の言葉を理解できそうにない。首をかしげる私を不思議そうに、あの頃の誠二は見ていた。
 
 そんな誠二が中学で武蔵森に行くことが決まり、シンは藤代家から我が家へと引っ越してきた。
 藤代家で育ったシンはすっかり大きくなっていた。
『俺、休みになったら来るから』
 そう言って頭を撫でた誠二を、シンは縋るような寂しそうな目で見ていた。しっぽが心なしか震えている。捨てられた小さい頃の恐怖を思い出したのかもしれない。
『シン、大丈夫だよ、私が一緒にいるから』
 後ろから抱え込むように抱くと、シンは嬉しそうにパタパタと尻尾を振った。
『あ、シンずりぃな!』
 そう言って誠二が私の上からシンを抱えた。シンの少し尖った毛が顔に当たってくすぐったかった——。
 
「シンは?」

 台所から私のいる和室へ戻ってきた誠二は、私が枕にしていた二つ折りの座布団を広げると、そこにあぐらをかいて座った。シンの姿を探すように、誠二がきょろきょろと首を動かす。

「ごめん、葬儀は昨日すませたの。その、腐敗の進行が早くて」
「そっか、そうだよな。…火葬?」
「うん」

 そう言って私はそっと指さした。
 私の寝転がっていた部屋の向かいに、ご先祖様の仏壇がある。その傍にちょこんとシンの写真と骨壷を置くことにした。
 誠二は仏壇に向き合うと線香を手にとった。仏壇の前で、静かに合掌する誠二の後ろ姿を、私は悲しいような懐かしいような気持ちで見た。
 薄かった体は、鍛えられしっかりぶあつくなっている。肩幅も頼もしい。こんなに大きな背中だったっけ?ーー真っ黒に焼けたうなじを見ていると、誠二が静かに振り向いた。

「シンはどうするの?」
「お墓ができたら、そこで眠るんだって」

 当初はうちの庭に掘って埋めようとしていた。けれど、誰でも気軽にシンのそばにいけるようにした方がいいなーー妹がそう言い、チラシを差し出してきた。そこで近場にペットを弔う墓地が最近できたことを知った。再びどうするか話し合って、結局シンの為に墓地を建てることに決めた。そこは、ひと月ほどで完成するらしい。
 誠二のシャツから、瞳へ視線を移す。目が合った誠二は、伏せるように私から視線を逸らした。

「そっか」
「うん」
「じゃ、連れてって」
「え?」
「今から、そこに」

 そう言って誠二はポケットに手を突っ込んだ。現れた手には車のキーが収まっていて、どこぞのブランドのキーホルダーがぶらぶらと揺れていた。
 静かな和室に、キーホルダーのかちあう音と、近くの木にとまったヒグラシの切ない声が響いた。

 
 
***
 
 
「――きじゃん、俺ら」
「え?」

 シンの墓地へ向かう道すがら、助手席の誠二がぽつりと呟いた。運転に集中していた私は、その言葉を聞き逃した。赤信号で停車したタイミングをはかって、隣りの誠二を見ようと首を捻った。

「嘘つきじゃない? 俺ら」

 窓の桟に肘を乗せて、夕暮れの町並みを見ていた誠二が此方を向く。静かな目に、私は素直に後ろめたさを感じた――シンに。

「……そうだね」

 ――一緒にいるから。
 
 
 小学生を卒業した春休みに誠二の家からシンを預かった。暫くは私もシンの世話をしていた。
 だけど、思春期に突入した2年生の頃から、私は構ってほしいとそばに寄ってきたシンを邪険に扱うようになっていた。
 部活から帰宅した私を、シンは玄関の前で喜びを全身で表すようにめいいっぱい尻尾を振って迎えてくれた。そんな彼を抱きしめるでもなく、私は鬱陶しいと無視して自室まで早足で歩いた。シンが部屋に入れないよう隙を作らず身体を部屋に滑り込ませて扉を閉める。今思えば意地悪だ。最低だ。
 くうん。部屋の向こう側で寂しそうに鳴いている。声を消すように、ヘッドホンを耳につけて机に向かった。お母さんが、部屋の向こうのシンを宥めてリビングへ連れていっていた。

 いつからか、シンの世話は母が当たり前のように焼くことになって。その事について両親から叱られる事もなかった私は、それに甘んじてシンの世話をしなくなっていた。
 さらに高校から私も武蔵森に編入し、寮生活が決まると、益々実家にいることがなくなった。シンと会うのは、お盆と年末。それとゴールデンウィークのあいだ。それだけになっていた。

 だんだんと老いていくシンを見ながら、それでも生きていることを当たり前に思っていた。
 あの頃の私は傲慢で、シンが永遠の眠りにつく日がやってくる、という事をわかっていたつもりになっていた。まだまだ先だろう、と。
 現実味の薄さに託けて、優先順位はいつだって自分のやりたい事だったのだーー。

 
「ここだって」
「へー、いいじゃんここ」
「何が?」
「山奥だから空遮るもんないし、ここだとシン、安らかに眠れるじゃん」

 新しい墓地が徐々に出来上がりつつある。そこに立って、誠二は笑った。私には誠二の言葉が刺のようで、自分の喉元を刺されているようだった。
 じわりと浮かんだ涙を無視して沈んでいく夕日を見た。

「そう思わない?」
「……そうだね」

 肯定の言葉を出したら、つられるようたくさんの後悔が溢れ出した。

 どうして、傍に居てあげなかったんだろう。
 なんで、構ってあげなかったんだろう。あんなに大事にするって言ったのに。
 どうして。どうして。

 年々老いていくシンは、私が帰省するとあの窮屈な小屋から出てきて尻尾を振って出迎えてくれた。撫でて欲しそうに顔をこちらに向けて。
 どんな時も、どんな私でも。

 シンとの思い出が次から次へと溢れだす。

 シンに顔を舐められたこと、散歩で一緒に走ったこと。
 近所の犬と吠え合っていたシンを怒ったこと。
 散歩中に、お姉さんたちに可愛いねと言われて、私がとても嬉しかったこと。
 寮へ向かう時、寂しそうに揺れていたシンの尻尾。
 くうん。不安げなシンの声。
 私が落ち込んでいたとき、傍に来てそっと尻尾を揺らしてくれたこと。少しとんがっている毛並みが、私を守るように傍に寄り添ってくれていたこと。
 ああ、シンは最期までずっと、一緒にいてくれようとしていたのにーーぼたぼたと、大粒の涙が溢れる。悲しみに感情が大きく揺れる。

「ごめん、悪かった」

 誠二の声に顔を上げる。彼は空を見上げていた顔をゆっくりと下ろして少し潤んだ瞳で傍のーーシンの墓前を見ていた。

「さっきさ、仏壇の前で手合わせてて、俺それしか浮かばなかった」

 頬を涙が伝う。顎から落ちた雫がじわじわと服に染み込んでいく。
 じっと墓前を見ていた誠二が、私の方へ振り向いた。慌てて腕を上げて顔を隠そうとしたけれど、間に合わなかったらしいーー腕からはみ出た先の誠二は、とても困惑した顔をしていた。額に手を当てて困ったようにため息をこぼす。

「誠二は悪くないよ。だって、別れた相手の家には行きづらい」
「そーかな」
「そうだよ。喧嘩別れしたんだから。ーー私なんかもっとひどい」

 語尾が震えて、ひくついた喉が音を鳴らす。
 そんな私を、手を伸ばしても届かない距離に立つ誠二が静かに見ていた。

「いつでも会えたのに、会わなかったんだから」

 
 高校の時、私は誠二と付き合っていた。
 男子棟と女子棟に分かれていたけれど、そんなのお構いなしに誠二と一緒にいた。毎日が新鮮で楽しかった。見えていたものがどんどん変わるたびに、いろんなことに興味が湧いた。
 記憶の中での初めてのキスはシンだった。その次が、誠二。
『ねえ、キスしよ』
 言われた時の興奮と緊張を思い出す。顔が真っ赤になって、バクバクと音を立てる心臓を抑えるように両手を胸の前で祈るように当てて目を閉じた。
 いつくるんだろう、いつくるんだろう――ドキドキして呼吸を忘れていたときに、ふいにカサカサしたものが唇に当たった。幼いキスをして、そうしていろんなこと二人で覚えていった。

 けれど、順調ではなかった。私たちは3年生になる頃に別れた。
 原因は、誠二のファンの人達と折り合いがつかなかった。それだけだ。
 疲れたと言った私に誠二は猛反発した。それがきっかけで大喧嘩へと発展した。そして仲直りすることなく、別れという道を辿るしかなす術がなかった。
 もう少しお互いの状況を尊重し合えてたなら違ったんだろうなぁ。
 幼かったのだと、年月が経った今だからわかる。
 それからずっと、誠二とは音信不通のまま時が過ぎた。
 ただ、帰省すると、たまに誠二のお母さんやお兄さんに会って、彼の近況は人づてに聞いていた。ーーきっと誠二も同じようなものだろう。

 シンが息を引き取った時、正直なところ誠二に伝える気はなかった。けれど、母が誠二の両親に連絡しているのを聞いて、決心した。
 しっかり世話をすると約束したのだ。最後くらいきちんと守りたい。
 数年ぶりのメールだった。何度も同じ文面を読み返し、送信ボタンを押すまで少し躊躇った。
「久しぶり。急だけど、誠二から引き取ったシンがさっき亡くなりました。15歳でした」
 別れてから初めてのメールは、愛想も前略もなにもない、ただの報告だけ。
 もう随分連絡もしていないから、アドレスは変わってしまっているだろう。メールエラーで返ってくると思ったそれは、――「ごめん、今日広島だから明後日行く」――きちんと返事としてかえってきたのだ。

 
 
 
 
ナマエん家、時々見てた」
「え?」

 帰路の車中で、誠二がそう言った。薄明の景色のなか、照明のついた車とすれ違う。行きと運転手が逆なので、今度は私が運転席の誠二を見返した。ーーナビの明かりが妙に眩しくて、思わず目を細める。

「実家帰るとき。どうしてもナマエの家の前通るじゃん」
「…目の前だからね」
「ん。だろ? だから、庭覗いてたの」

 誠二の口から出てきた言葉に驚いた。対向車線のライトが強かったのか、光の残像で誠二の横顔が黒くなった。

「そしたらさ、シンが俺に気づいて小屋から出てくんの。いつも尻尾振ってくれてたよ」

 誠二の言葉を聞いて、容易に想像できた――玄関の門を覗くと傍の小屋からシンがのっそりと出てくるところを。

「手、伸ばしたら届く距離で、インターホン押したら入れるのに…なんでかさ、俺、しなかったんだよな。しなかったっていうより、できなかった」
「できなかった?」
「……ナマエがいるかもしんないって思ったらさ。ま、一人暮らししてるんだからいなかったんだろ?」
「うん、きっとね」
「俺も意気地なしだなー。シンにもっと会っとけばよかった」

 誠二の言葉の端々から、それを後悔しているのだと感じた。
 なんだ、そうか。
 私が知らない間も、誠二は誠二なりにシンのことを気にかけていたのだと、初めて知った。誠二の気持ちがわかった途端、私はさっきまでずっと感じていた距離や緊張が薄れていくのを感じた。
 思わず笑うように息を漏らすと、誠二がこちらに視線を投げてきたような気がした。

「私ね、怖かったの」
「なにが?」
「普通に声かけて、誠二に無視されるんじゃないかって。そう思ったら怖くて…ずっと、誠二に話しかけられなかったんだ」
「…はぁー」

 盛大なため息が聞こえてきて、思わずムッとすると誠二が笑った。

「………そうかも」
「え?」
「俺も一緒」
「…」
「えっ何? 一緒じゃヤ?」

 驚きのあまり言葉を失っていると、隣りの誠二がおかしそうに笑った。釣られて私も笑う。
 小さい頃から共に過ごしたのだ。なにを怖がることがあったのだろうか。
 思春期の私は本当に、自分が傷つくことを一番恐れていたのだ――自分本位で、本当にばかで、愚かだ。

「誠二のこと、わかってたハズなのにね」
「ま、いーじゃん。こうやってまた話せたんだし」
「……うん、そうね」

 車内に穏やかな空気が流れる。藍色と茜色の混じった空、その下の街灯をくぐり抜けて車は走る。

 
 

 誠二の家に車をとめて、私の家に向かう。

「シンが小さい頃遊んでた道具とか持ってきててさ」

 そう言って誠二は白い紙袋の中からテニスボールを取り出した。ボールには噛み跡がくっきりと残っている。

「ありがとう。シン喜ぶよ」

 切なくなった気持ちを隠すように笑うと、誠二は前を向いたまま笑った。どっちの笑う声もどこかカラ元気だ。

 家の門が半分空いていた。
 どうしたのかと二人で入口の前で立ち止まっていると、庭の方からおうい、と声がかかった。一緒に扉をくぐり庭に顔を向ける。両親と、誠二の両親がいた。

「母さんたちじゃん」
「どうしたの?」
「今シンの小屋を整理してるのよ」

 尋ねると、おばさんが屈んでいるおじさんの傍で答えた。
 人の壁で見えないシンの小屋を覗くと、屈んだ父親とおじさんが軍手をはめて小屋の中を漁っていた。

「どう?」
「奥の方にたくさんあるな」

 そう言って父がアヒルの人形やボールを取り出す。
 そういえば、シンは大事なものを小屋の奥にしまっていた。私たちが掃除をしようとするとすぐに引き返してきた。それほど大事にしていた、シンの宝物。
 おじさんの手から出てきた髪飾りにお母さんがあらまあ、と仰天していた。誠二は興味津々にシンの小屋を覗き込んでいる。久方ぶりの挨拶もしたばかりだというのに、あっという間に家族の輪に入っている。この人は、本当に空気に溶け込むのが上手い。

「お姉ちゃん」

 呼ばれ顔を上げると、少し離れた場所に大学帰りの妹が立っていた。

「おかえり」
「お姉ちゃん、今日は?」
「仕事休んだの。また髪染めたの? 明るすぎない?」
「別にいいじゃん」

 近づくと、妹は一つに束ねた髪を後ろに払うとちらりと私の後ろを見た。きっと誠二を見ているんだろう。ふうん、なんて言葉が聞こえてきたけれど、私はそれを無視した。

「で、なに?」
「さっきさ、シンの小屋からこれが出てきた」

 そう言って差し出されたのはよれよれの紙切れだった。シンの噛み跡と土で汚れた跡が染み込んでいて、長い年月シンの傍にあったことを伺わせた。訝しんで妹を見ると、さっさと受け取れと言わんばかりに差し出してくる。

「何かわかなくてみんなで見ちゃったんだけど、多分誠二くんの手に渡る前にお姉ちゃんに渡した方がいいって意」
「かしてっ」

 言葉を遮ってそれを奪った。妹は眉を顰めたが文句を言わなかった。
 手に取った瞬間、それがただの紙切れではないことがわかった。思い出した、思い出してしまった。ーーそれは、私が誠二に宛てた最初で最後のラブレターだった。

 おかしい。捨てたはずだった。確かあの時にちゃんと、ゴミ箱に入れたはずだ。
 きっとシンは部屋の片付けに来たお母さんと一緒に私の部屋に入って、これを取ったのかもしれない。

【誠二へ
武蔵森は楽しい? 私は中学で部活に入ったよ。先輩がカッコイイの。
誠二はどうかな? 私は誠二がいたらもっと楽しいのにって思う。
シンのお散歩、一緒にしたいな。あのね、ずっと言えなかったんだけど好きだよ。】

 開いた紙に書かれた文は、シンのよだれで滲んでて、なのに破れていなかった。
 これを家族やおばさんたちに見られたのか――理解した途端羞恥にかあっと顔が熱くなった。妹や家族たちの配慮に感謝してそれを再び閉じる。

「ありがとう」
「いいよ」
 妹が首を振る。それに思わずほっとする。
「なにが?」

 背後から聞こえた声にぎょっとすると、振り向いた先に誠二が立っていた。傍にいた妹が息を呑んだのか、それともこんな面白い場面に遭遇して笑いをこらえているのか、どちらともつかない声を漏らした。

「ソレ、なに?」
「え、なにが?」
「これ」

 伸びてきた手から避けるように手紙を後ろに回す。怪訝そうな誠二の顔に苦笑いを漏らすと、私はそれをズボンの後ろポケットの中にしまいこんだ。

「あー!」
「ここ触ったら、誠二ワイセツ罪で警察呼ぶから」
「なんだよ、見せたらいいじゃん」
「いやよ」

 後ろで妹が面白そうに笑っている。目敏い誠二はそんな妹の様子に気が付いた。彼女に近づくと不満そうな顔をさらけ出した。

ナマエが隠したのなにか教えてよ」
「えー、言えないよー」
「サッカー選手と合コンセッティングする!」
「さっきのはラブレターだよ」
「なにさらっと言ってんの!」

 誠二の甘い言葉に妹はすぐ乗ってさっさと白状してしまった。責めるように妹を睨むと反省の色も見せずぺろりと舌を出している。
「ラブレター?」
 誠二は言葉が飲み込めていないのか怪訝そうに私の顔を見た。不思議そうに首をかしげている。

「ラブレターって、ナマエが?」
「うん」
「誰に?」
「……」

 それには妹も黙ってしまった。じとっと睨むと妹は我関せず、と肩を上下に動かすとそのまま小屋の方へと歩いてしまった。
 行かないでよお願い!

「……」
「……」

 少し離れた場所で、私たちは気まずい空気を漂わせて立ち竦んでいた。誠二は私が質問に答えるまで動かないつもりでいるのか、まっすぐ私を見つめている。
 目を合わせられないでいると、一歩誠二が近づいてきた。もう一歩。手を伸ばせば触れれる距離まで近づいてきた誠二はそのまま手を伸ばしてきた。

「ねえ、それって誰に? 俺じゃないやつ?」

 当たる――と思ったとき、ふいに小屋の方からおお、と声が出た。
 思わず顔を上げると、誠二の向こうに立っている妹が手を振った。

「どうしたの」
「シン、なんか缶を埋めてたの」
「ええ」
「お宝かもよ」

 誠二と顔を合わせると、誠二も気になるようでうずうずしていた。私は一度頷くと一緒に小屋の方へ向かった。

「あ」
「え?」
「なによ誠二」

 缶を見た誠二の第一声に親たちから不思議そうな声がかかった。私もおじさんの手にある缶を見るけれど、見覚えが全くない。
 誠二は中身がわかるのか、あは、と笑った。

「それ、俺のカード入れ」
「カード入れ?」
「そ。サッカー選手のカードと、メンコ?」

 言われて錆びた缶の蓋を開くと、そこには誠二の言った通りのものが缶いっぱいに入っていた。周りから残念そうな声が上がる。

「シンがお宝でも持ってたと思ったんだがなぁ」
「残念でした~」
「なんだぁ」

 おじさんがその缶を、今まで出てきたのだろうシンのお宝の一部に並べた。その中にあったぬいぐるみが見えたとたん、私は足の裏に根っこでも生えてしまったかのように動けなくなった。
ナマエ?」
 誠二の不思議そうな声に、顔を上げた。誠二は、あのぬいぐるみを覚えているのだろうか。私の眼差しに気づいて、誠二は缶の置かれたぬいぐるみの方へ視線をやった。
 誠二の目が、徐々に驚きで顔を強ばらせた。誠二も気づいたのだと知った。

「シン、持ってたんだ」
「私、知らなかった」

 そのぬいぐるみは、高校の時、私たちが初めてのデートで行ったゲームセンターでゲットしたキャラクターの人形だった。帰省した日に、二人でシンにあげた。
『これ、シンにプレゼント』
 シンはそれを咥えると嬉しそうにブンブンと尻尾を振っていた。

「大事にしてくれていたんだ」

 誠二の言葉に、私は悲しくなった。私たちは、シンを本当に大切にできなかったのだと、それでもシンは私たちを大事に思ってくれていたのだと。

「あれ、こんなところに」

 お父さんがそう言って毛布の下から何かを引っ張ってきた。それを見たお父さんがまっすぐ私たちを見た。おじさんが、同じように振り向いて私たちを見る。

ナマエ、誠二」
「はい」

 お父さんに呼ばれて、誠二が私より先に前に出た。進んでそれを受け取る。受け取った誠二は手の中のそれを色んな角度から見て、それから静かに息を呑んだ。一体何が出てきたのだろう。

「誠二?」

 不思議に思いながら近づく。お母さんもおばさんもそれがなにかわからないようで、私と同じように誠二の様子を窺う。
 隣りに並ぶと、誠二の瞳の奥が心なしか揺れていた。その手には写真があった。
 覗き込んだそこには、幼い男の子と女の子が小さな柴犬をあいだに挟んでしゃがんでいた。柴犬の後ろには、出来たての小屋が写っていて、そこに下手な字で“シン”と書かれている。写真には私が書いたのか、誠二が書いたのか、油性ペンで左から順に誠二、シン、ナマエ、と書いてあった。
 これを、シンはずっと持っていたの――?
 滲んできた視界をごまかすように誠二を見ると、誠二が静かに頷いた。私はもう一度その写真を見た。誠二が、ゆっくりと、写真をひっくり返す。
 後ろに、私と誠二の文字が書かれていた。

 
 
シンを大じにそだてる
一しょにさんぽして 遊ぼう
シンだいすき
二人でちゃんとそだてるよ
誠二、ナマエ
 
 
 
 
「ごめんなさい」
 
ナマエ?」
「お姉ちゃん?」

 お母さんやおばさん、妹が心配そうに声を掛けてくる。けれども泣き止めなかった。私はただひたすら謝った。シン、ごめんなさい。本当に、私はなにもあなたに返すことができなかった。
 滲んだ視界の向こう側で家族たちが困っている気配を感じ取った。泣き止め、いい大人が何を号泣しているんだ。――ふいに、肩にぬくもりを感じた。

「ちょっとナマエと散歩してくる」
「ええ? こんな時間に散歩なんて」
「だいじょーぶ、俺らいくつなんだよ」

 誠二に押されるまま、私は自分の家の柵をくぐり抜けた。

 
 
 
 泣きながら歩いた。よろけた私を支えるように、誠二が手を強く握ってくれた。
 夜空に星が浮かんでいる。私はシンへの罪悪感で胸がいっぱいだった。なんで、本当にシンを大切にしてあげられなかったのか――わかっている。シンの顔を見るたびに誠二の顔がちらついていた。喧嘩別れした相手の顔を思い出す。嫌いになれない相手を、連絡を取らなくなったことを後悔している。その事実が、辛くて。だから高校を卒業してもシンと向き合う機会を減らして、そうしてずっと逃げていた。ずるい。私は本当に最低だ。
 涙は徐々に落ち着き、私はしゃくりあげながら静かに歩いた。

「なんとなく、シンが死ぬかもってわかってた」

 ぽつりと、誠二が言った。そこに落とすように、その言葉が聞こえた時、私は胸がとくんと揺れた。

「なんで?」
「俺、最近ずっと同じ夢見てた」

 尋ねると、誠二はそう言った。掴んでくれている右手に、誠二の手の力が加わったのがわかった。

「シンが、ずっと立ってる。小屋の前で、じって俺を見てて、どうしたんだろって近づいたらナマエがその向こうに立ってる。ずっと、ここ一週間毎日」

 驚いて誠二を見ると、彼はじいっと前を食い入るように見ていた。ゆっくりと歩いていた歩幅が徐々に狭くなる。

「それで、なんとなく、わかってた。だから、シンがあの写真を持ってて確信した」

 なにを、誠二は確信したのだろう。

「シンは俺たちに仲直りしてほしかったんだ」

 誠二が、私の視線に答えるように見返してくる。その黒い瞳のなかに、何かが見えた気がした。きっと気のせいなのかもしれない。
 シンが、願っていたこと。それが本当なのかどうか、わからない。けれど、誠二の言うことが正しいのなら、きっとそうなのかもしれない。そうであってほしい。

「じゃあ、シンの願いは叶ったよ」
「…仲直り?」
「そう。私は誠二と仲直りしたい。あのとき自分のことばかり考えててごめん」
「なに言ってんの。俺だって」
「でもそのせいで、誠二はシンに会いづらくなっちゃった」
「それでナマエが思い詰める必要なんかない。俺の問題だから」
「けど、きっとシンは誠二に会いたかったよ、撫でて欲しかったと思う」

 涙を拭ってそう言うと、誠二はふと一瞬目を大きく見開いて、それから静かに笑った。

「幸せだったから、もう泣かないでだって」
「え?」

 誠二の言葉に、私は驚いた。掠れたような誠二の声に、心臓が飛び跳ねた。誠二の言葉だけど、誠二の言葉じゃないーーもしかして今、シンがいたの?
 言葉にできないでいると、誠二が少し顔を赤くした。

「わかってるよ!」
「え、なに誠二」

 怒った声に訳が分からず私は誠二に近づく。風が吹いたのか、髪が揺れて耳元を砂が落ちるような音が聞こえた。――その中に微かに感じたコエに、胸が込み上げた。

「ッシン!」

 咄嗟に振り向く。けれど、そこにはなにもいなかった。
 でも、確かに今ーー私にも聞こえた。

「星になるからって」
「聞こえた」
「誠二にも?!」

 見上げた誠二はとても不貞腐れた顔をしていた。

「その前に、何かシン言ってたよね? なんて言ってたの?」
「それより大事なことがあんの」
「シンより大事なことなんてもう」
「あんの」

 なんかなー、と言って誠二は不満そうな顔をしていた。それから私の顔を急に真面目な顔で見てくると、もう片方の手も掴まれた。驚いて、思わずびくりと体が揺れた。

ナマエ
「は、はぃ」

 誠二の声が酷く真面目で、返事をした声は酷く掠れていて、そのまま消えた。
 こんな場面を昔見たきがする。ああそうだ、高校の時にあった。

「シンが、折角作ってくれた機会じゃん」

 思い出していた思考が端に追いやられる。誠二の目をじっと見つめる。自分の胸の中に残っていた炎が思い出したかのように轟々と燃え始めた。
 涙は止まっていた。誠二がゆっくりと口を開いた。

 その向こう側で、ポツリと微かな光が生まれたような気がした。

 
 
 

[2013年8月 24日/ 2020年5月22日改訂]