振り向かないひとの一度きり

振り向かないひとの一度きり

 

「ずっと子どものままでいれたら良かった」

 グラスを揺らしながら、嫌味ったらしく呟く。グラスに注がれているのはイタリア生まれのカクテル「スプモーニ」。緋色のそれを喉に流すとカンパリ特有の苦味にグレープフルーツの酸味が混ざり爽快な喉越しになる。水のようにコクリコクリと喉を鳴らしながら飲む。グラスから口を離すとき、年甲斐にもなくぷはっと空気を吐いてしまった。隣りの席に座った泣きぼくろがチャームポイントの有名人は、そんな私の姿を飽きることなく鑑賞していた。

「すご。清々しい飲みっぷり」
「なに、ダメかしら?」

 唇を引き伸ばし弧を描くように微笑む。目も少し潤んでいるからきっと妖艶に見えるはずだ。――思ったとおり、隣りの一つしたの彼はドキリと目を泳がせて視線を彷徨わせている。彼が動揺したのにはもう一つ理由がある。先ほど覗き込むように彼を見た――恐らくボタンを開けたシャツからキャミソールのその奥が見えてしまったのだろう。いけない、そうおもい私は身を引くとシャツのボタンを一つ留めた。そうして空になったグラスをバーテンダーの前にそっと差し出す。ここは私の行きつけ。彼も私の好みをすでに熟知している。

「何にしますか」

 ほの暗いカウンターの向こう側から、私の仕草に反応したバーテンが会話を崩さないように話しかけてくる。隣りの彼とは違う、低音で落ち着きのある声に私は自然と微笑むと唇を開いた。

「ブルームーンで、お願い」

 バーテンは返事をする間も惜しむように氷の入ったカクテルグラスをカウンターに置くと、シェイカーにジン、リキュール、レモンジュース、氷を入れる。蓋をしてシェイクする姿を見ていると、隣りの彼はうずうずしながら何かを聞きたそうに私をじっと見つめていた。
 彼は正に私のなりたかった人間――子どものままにいれた人間だ。

「ナマエさん、今日こそ決めよう?」
「いいえ、私はまだあきらめない」

 バーテンのシェイカーを振る音が消えた。いつの間にかグラスの中の氷が消え、ひんやりと冷えたグラスに淡い紫色の液体が注がれる。それがカウンターの上をゆっくりと滑り、私の前へとやってきた。「ありがとう」礼を言うとグラスを手に持ち口を付ける。ロマンチックな香りとほんのり感じる甘さが通り過ぎる頃にはさらっと消えていく。隣りの彼は手元のグラスを掴むのを止め、不満そうにこちらを見ている。指のそばのグラスにはサイドカー――ブランデーのコクとホワイトキュラソーの爽やかさが調和したカクテルが、早く飲んでくれと言わんばかりに揺れている。

「ねえ、そろそろ身を固めないとさ、椎名だって心配してる」
「そんなことない。翼が心配って、誰から聞いたの」
「え?」
「そんなことを思ったのは、あなたじゃないでしょう?」

 こくっとすみれの香りを楽しむように口の中でブルームーンを味わう。 「柾輝が言ったけど」隣りの彼は相変わらず指先でカクテルを弄んでいる。黒川柾輝、彼の名前を久しぶりに聞いて、懐かしさに笑みがこぼれてしまった。私のそんな表情を彼は見逃すことなくじっと食い入るように見つめてくる。強い視線に一瞬怯みそうになった。が、気持ちのいい酔いが私の感覚を麻痺させているのか、私の笑みはますます深くなる。

「柾輝のそれは当たってるかしら。私が独身でも…むしろそれを願ってるかも」
「でも、柾輝は本気で心配してた」
「あら嬉しい」

 そっとグラスを置いて手を重ねると、彼は面白くなさそうに手を離した。グラスを掴むとサイドカーを口に運んでいる。口を離したとき、彼が小さく呟いた。「嬉しくないくせに」拗ねた子どものような口調に、思わず羨ましいとすら感じられる。確かに、彼の言うとおりだ。心配が嬉しいはずはない。それも婚約破棄された私への心配など――嬉しくないに決まっている。

「破棄されたの、これで何回目?」
「えっ4回目でしょ? なんで俺に聞いたの?」
「うん? 誠二は答えられるかなって」
「俺ナマエさんのことならわかっちゃうんだよなー」

 半分面白くなさそうに言い放つ彼は、中学の時代からの知り合いだ。かれこれ10年以上経過している。
「ねえ、椎名と別れて5年経つんだよ?」
「そうね、そんなに経ったのね」
「この5年のあいだに、ナマエさん3回婚約破棄されてるんだよ? 同じ理由で」
「そうね、“親が離婚している”ってことで、向こうの親から反対されて終わってるわね」
 まさか片親であることでこんなにも大きなリスクになるとは、こどもの頃には思ってもみなかった。父親がいないことが当たり前で育ってきた私には、父という者がどういったものなのかすら分かっていなかった。だからか、親の意見に左右されている相手を見て正直ドン引きした。
「付き合う相手が悪いんだよ」
 胡乱な目で私を見てきた彼は、飲み干したサイドカーをカウンターに静かにおいた。別の客の相手をしていたバーテンが気がついて近づいてくる。「ホワイトレディーね」彼が注文する内容もほとんど覚えてしまった。バーテンも私同様彼の好みを既に熟知している。消えていくグラスを見つめていると、バーテンから私を振り向いた彼の目は意地悪そうに笑っていた。

「しょうがないじゃない、私を求めてくれるのが、そういう人達なんだもの」

 そういう人たち――翼と別れた後に付き合った3人は弁護士、医者、官僚だった。みんな求愛してくれて、結婚に至る最中にすべて終わってしまう。
 最初の弁護士は片親だと告白して、それでも構わないと本人が承諾したあとだった。親が自分たちの結婚を認めてくれないので別れよう――そう言われた。何故認めてくれないのか、彼は口に出さなかったが一度目の婚約破棄で大体分かっていた。二人目も同様。
 三人目――今回は凄かった。向こうの親ではない代理人が私の元にやってきた。「あなたの素性、及び近辺の付き合いを調べさせて貰っている」向こうの第一声に、頭がおかしくなったのではないかと疑った。家系など、私が知らないところまで調べ上げた結果、結婚はなかったことにしてほしいと言われたのだ。

「あのまま武蔵森に上がってればよかったんじゃん」
「そうね、お嬢様の大学に行って、都庁で働くようになったばかりに」
「ねえ、俺に決めてよ。絶対に俺は大丈夫だからさ」

 バーテンがタイミングを見計らったかのようにホワイトレディーを差し出す。「さんきゅ」受け取って透明な液体が彼の口に溶けていく。ホワイトレディーとサイドカー――ベースのドライジンをブランデーに変えただけであと入れるものは同じ――ただし、ここのバーテンは彼の好みを既に熟知しているから、サイドカーよりもホワイトレディーはベースのジンを多めに入れているはずだ。

「イヤよ、まだあきらめない」
「そういうの、オウジョウギワが悪いって言うんだって」
「誰に教えてもらったんでしゅかー? 誠二ちゃん」
「バカにしすぎでしょ」

 からかうように幼い子供に話しかけるような言葉を使うと、彼の指が伸びてきてちょん、と鼻先をつつかれた。

「俺なら、絶対にナマエさんを振らない」

 ブルームーンに伸ばそうとした手が、捕まる。絡めるように指先をとらえられて、私は少しその指先に神経を尖らせた。ゴツゴツとした指が、人差し指の腹を優しく撫で回す。

「俺は椎名と違う。あの人の家はああだっただけで、サッカー選手が全員そうとは限らない」
「…わかってるわよ」
「わかってないよ」

 指の腹を撫でていた手が、上がってくる。指又を優しくつままれる。小指と薬指を絡め取ると、彼は私の手を自分の手元に引いた。彼の顔が屈むように手に近づいてくる。

 翼は、ただ家族を取ったのだ。それだけだ。中学から大学までの“子どものような付き合い”であれば、きっと彼ら――西園寺家も椎名家も――あの頃のままの付き合いができただろう。5年前、大人としての付き合いは違ったのだと、あの時痛感した。家に嫁ぐ、そこに重きを置くような家も――いまは離婚していても再婚できる時代だし、後ろ指を刺されることもなくなった、という場所もあるかもしれいないが――あるのだと、それが私の身近はそうだったのだと、知ることとなった。

 薬指の第二関節にやわらかな感触が触れる。ちゅ、とリップ音が鳴ったかと思えば水に触れたような感触――思わず手を引いた。顔を上げた彼はぺろりと唇を舐めていた。

「何するの」
「なんか、おいしそうだなーって」
「ばか」

 そう言っていたが、心の中ではどこも嫌がっていない。何度も私の恋が終わるたびに彼は私のそばにやってきた。最初の椎名から5年――いや、学生の頃からずっとだ。
「おいしそうだよ、ナマエさん食べたらおいしそう」
「人を食べ物みたいに言わないの」
「食べたいなー」
 ホワイトレディーをごくごくと飲むその喉を静かに見つめた。彼の唇が、私の体を食べていく様を想像した――それを、嫌がっていない自分がいるのを、随分と前から気がついている。
 淡い紫色のブルームーンが喉を通る。ブルームーンにはこんな意味がある――幸せな瞬間。そうしてもう一つ、できない相談、つまり断り。いつも隣りの彼と飲む時に、ブルームーンを注文していた。彼からの言葉を、いつも断っていた。
「ビトウィーン・ザ・シーツで」
 空になったグラスを受け取りに来たバーテンに静かに囁いた。子どもの彼にはこの意味がわからないはずだ。いつもブルームーンで終わらせていた私に驚いたような目を向けている。

「おもしろい名前」
「あら、誠二知ってるの?」
「さぁ、見たらわかるかも」

 そう言いながら彼はホワイトレディーを口に運んだ。私はカウンターの椅子から降りるとトイレに向かった。そんな私をバーテンは作業の手を止めて静かに見ていた。彼はこのカクテルの意味を知っている。だって大人なのだから。

 手を洗い、口紅を塗りながらカウンターの席に座る彼のことを考えた。
 きっと彼は、言葉にしたとおり私を裏切らないだろう。わかっている。長い間彼を見てきた私には彼の言葉の真実が見えている。――本当に、愛してくれている。
 それでも、私には彼の言葉を素直に受け入れられなかった。――子どものままでいれたら、きっと受け入れていた。
 大人になってから、彼の取り巻く環境がどれだけ自分とかけ離れているか知ってしまった。子どものままであれば――彼の背中に重くのしかかっている責任を知ることもなかった。気づくこともなく、それをなんとかさせれるのではないか、そんな安易な気持ちで乗り越えられていた。
 全てを理解してしまったいま、彼の相手となることに怯えを感じる。
 好きという感情だけではやっていけなくなった、大人になったために。

 カウンターに戻ると、タイミングを測ったかのようにビトウィーン・ザ・シーツがそっと差し出された。「ありがとう」それを受け取ろうとした私の手よりも早く、隣りの彼が受け取った。
「え?」
 琥珀色のそれをそっと口に含むと、彼は整った顔を綺麗に歪めた。
「うま」
 ブランデーとリキュールの芳醇な香りに彼は頬を少し赤くさせている。カウンターに置こうとしたそれを、受け取ろうと手を伸ばすとぐっと後ろにそれを引かれた。「ちょっと待ってよ」身を乗り出そうとしたとき、店のBGMが耳に入ってきた。――Let Me Love You。恐ろしいタイミングで流れてきた、そんな気がしたのだ。

「俺、ナマエさんのために注文しといたからさ」

 まるで彼のために、この曲が流れているかのようだ。バーテンが差し出してきたそれを、彼が受け取ると、それを私の前に差し出す。ワイングラスの中で揺れているのは、まさに「ポートワイン、ね、ナマエさん飲むでしょ?」唇を引いて笑っている。
 彼を援護するかのように、BGMのヴォーカルが甘く囁くように唄っている。

—You should let me love you

「ナマエさんもみんなも、俺のこと、いくつになっても子どもだって言うけど」

—Make me your selection

 ヴォーカルが、私に甘く囁く。私は差し出されたそれに、手が伸びて、手前でとめた。彼はわかっている。彼はこのポートワインの意味を知っている。そして、先ほど私が頼んだ――カクテルの意味も。
 体を近づけていた彼の分厚さに、改めて驚いた。毎日のスポーツで鍛えられた腕は子どものような華奢さはまったくない。耳元に近づいてきた彼の唇から漏れた空気はブランデーの香りがした。

—Show you the way love’s supposed to be

「俺、大人だから」

 彼の甘い言葉が何故か胸に染みた。私の膝に乗った彼の手を拒めないのは、すでにグラスを掴む前から答えを出してしまっているのかもしれない。

—Baby you should let me love you, love you, love you

「ねえ、今日こそ俺に決めて」

 するすると伸びた指先に、ポートワインの入ったグラスが当たった。グラスを絡めるように掴むと、そっと唇にそれを運んだ。グラスの向こう側で彼が妖しく笑っていた。
 彼の笑みの意味すら、すべてわかってしまう。やっぱり子どものままでいたかったと、膝下の彼の手に指を絡めながら思った。

 

和訳
You should let me love you(僕にキミを愛させて)
Make me your selection(キミの選ばれしものにしてよ)
Show you the way love’s supposed to be(キミに愛がどうあるべきかを見せてあげるよ)
Baby you should let me love you, love you, love you(僕にキミを愛させて)
【Mario(マリオ);Let Me Love Youより抜粋】

title by afaik
[2013年8月 6日]