穏やかな魔法

五条さんと夫婦で、一人息子がしゃべります 第三者視点ののち、三人称で進みます ストーリー上「ぎゅーっはかせ」、という曲がでてきます 空っぽにして読んで下さい 以上を踏まえてお読み下さい。 穏やかな魔法 主婦の朝は時間との戦いだ。時間に勝つか負けるか、その勝敗の杯がどちらへ傾くかは私ではなく我が家の次男の一挙手に全てがかかっている。 「ほら急いで、靴反対じゃない」 夫も長男もとっくの昔に通勤通学していった玄関で、園帽の紐ばかり弄って足元を見ない息子をせっつく。いい加減右と左を覚えてほしい。そう願ってインナーソールに左右を合わせれば丸になるシールを貼るも効果はなかった。そりゃそうだ、だって見ていないんだもの。いい加減、、、、なのだ。 できることなら子どものペースに合わせたい。でも登園可能時間の終わりも差し迫っている。悠長にしている時間はない。 止むを得ず靴を脱がして出てきた靴下は片方が裏を向いていた。なんで今。大仰なため息と同時に脳裏で自分で履かせたらこうだ、と愚痴る己を片隅に押しやり、なんとか靴下をひっくり返し左右逆の靴を履かせ直す。玄関の施錠を素早く終わらせると、チャイルドシート付きのママチャリに荷物と息子を乗せてペダルを踏み出した。今日は予定より既に五分押している。 交通ルールを守りながら必死にペダルを漕いだおかげで、なんとか間に合った。園専用の駐車場兼駐輪場に自転車を停めて子どもを門の前で送り出す。子どもは振り返ることなくさっさと中へ入っていった。なんともアッサリしている。 園の先生にお願いしますと頭を下げて駐輪場へ戻ると、ツヤツヤした白いSUVの真正面に鎮座する、有名な馬のエンブレムに目を剥く。 この園は別にごくごく普通のありきたりな幼稚園で、お受験専門という訳でもない。 こんな高級車に乗っている家の子がいるのね。お金持ちのお子さんがいる、という事にどこか緊張感を抱く。 「あ、ポルチェだー」 同じように駐輪場に自転車を停め、登園へ向かおうとしている園児が舌ったらずに母親に話しかけながら、握られていない方の手で高級車を指差す。「そうだね、すごいね」と母親も高級車をちらちら見つつ、足を止めそうになる子どもを誘導していく。子どもは普段手のひらサイズでしか見た事のない車に興奮しているけれど、母親の気持ちは痛いくらいわかる。時間ないものね。 ここで大人の私が足を止めてジロジロ見るなんて、不躾よね。私も気もそぞろにママチャリの鍵を差し込む。一体どんな人が乗っているのか気になるわ。 すると私の念が伝わったのか、運転席が開いた。思わず開いた扉に固唾を飲んでいると、白い髪が見えた。見えたと思った次の時には伸びた。SUVだというのに、頭の位置がそれはもう、ぐいんと一気に高い位置へ上がり、ついでパリッとしたシャツを着た巨躯が現れたのだ。 サングラス、長身白髪、イケメン。 その三拍子にぞわっと心が浮き立つ。やだめちゃくちゃ足長い。顔ちっちゃ。細いけど筋肉質じゃないの。「ひゅっ」青春時代を思い出して黄色い声を上げそうになって、咄嗟に胸を押さえた。この人は同じ園の保護者よ、保護者。失礼なことしちゃダメダメ。 イケメンパパは周囲を気にする素振りもなく後部座席のドアを開いた。途端「やだー‼︎」と叫ぶ甲高い子の声がラッパよろしく周囲に響き渡る。 「はいはーい、行くよー」 「やだ、おがあざんがいい」 「残念だけどはここにいないから、僕とだよ、ほら」 イケメンパパは後部座席から暴れる我が子を難なく担ぐと、園帽と鞄と水筒を片手に園の門へとスタスタ歩いて行ってしまった。ちらりと見えた園児の可愛らしい容姿に、今年天使のような子が入園してきた、とママたちの間でしきりと噂になった子どものことを思い出した。 ああ、遺伝って素晴らしい。 子どもを送り終えて戻ってきた先ほどのママと目が合った。何も言わず頷く。どの組の方かもわからないけれど、お互いが今何を思っているのか、なんとなく察することができた。 ● ◯ ● 「もう！ だから幼稚園にはアレで行かないでって言ったのに」 ぷりぷりと可愛らしく怒りながら夫の夕食をよそう妻の姿を、彼はテーブルに肘をつきながら見ていた。 「しょうがないでしょ、オマエがいつも乗ってるの修理中だし」 「代車があったでしょ」 「ムリー。あれだと僕狭すぎて潰れるもん」 カウンターキッチンから妻が差し出してきた丼を彼は受け取った。「悟、熱いよ」と彼女が一声かけてくる。受け取った丼を覗く、どうやら今夜は親子丼だったらしい。鶏肉と玉ねぎが半熟卵にとじられていて、とろとろしていて湯気が立っていた。色味と香りだけで食欲を掻き立てられる。 味噌汁と蓮華を手にキッチンから夫の前に現れた彼女は「はい」と大きな手とそばにそれらを置くと、向かいの椅子を引き腰を下ろした。手を組み顔を覆っている。 「もうやだなぁ」 「なにが」 男は蓮華を持つと熱々の丼のご飯と卵を掬った。ほろほろ、と米粒がこぼれ落ち半熟の卵はふるふると蓮華の中で揺れる。頬張れば、甘めに作ってくれたのだろう、噛み締めた玉ねぎから染み込んだ甘い出汁の味がじゅわっと溢れ出す。 「だって、高級車で送迎なんてだけでも目立つのに、あなたがそこから出てきたらもっと目立つじゃない」 「そう？ 人あんまいなかったけど」 「登園時間ギリギリだったから……でも、誰かのママさんに見られたってことでしょ？」 広まるわ、あっという間に。彼女は愚痴るように溢すと、テレビ前のソファに腰掛けて液晶画面を見ている息子に目を遣る。珍しく早い父親の帰宅に喜んでいたのも束の間「これからたんていがはじまるの、ぼく、いそがしいから」とテレビに齧り付いている。 「出発前にトイレに籠ってバスに乗り遅れ、生憎は用事で送れない。そんな窮地の中、たまたま居た僕が送れた。それだけでよかったじゃない」 「そうなんだけど……極力目立たないで欲しかったの」 「目立たないって、そりゃムリじゃない？」 「どうして」 「だってどれだけ大人しくしてても、五条家嫡男なんだよ？ オマエが望む世界で目立たなくても、|呪術界《こっち》じゃ御三家の跡取りで有名だもん」 「それは……そうだけど」 妻の表情に険しさが浮かびあがっていくのを夫はお椀を片手に見ていた。彼女の心がやり場のない思いでいっぱいになっていく。それもこれも、愛する愛息子の為だ。そこまで分かっていてもなお、夫は妻に言い放つ。 「僕らの子として生まれてきたからには、ムリな話だと思うよ」 俄に正面の妻の表情に苦悶の色が滲んだ。何に対しての感情なのだろう、夫は味噌汁を飲み切るとテーブルに置く。 と。 先ほどまでソファに座っていた筈の息子が、父親の座る椅子の傍までやってきた。何だ、と相手を見下ろしていると、息子はその柔らかくてもみじのような両手を使い父親の足にしがみついた。 「きもちを、ぎゅー」 「……」 何をされたのか。 一体全体訳がわからず、息子の挙動不審に何も言えずにいると、父親からの反応がないことに戸惑いの色を見せた息子はすぐ離れた。かと思えば、今度は母親の元へと駆け寄る。様子を見ていると、先ほどと同じように「おかあさん、きもちを、ぎゅーっだよ」と母親の腹にしがみ付いた。 さっきと違ったのは妻の態度だった。険しそうな顔から険呑さが剥がれ落ち、困ったような、けれど嬉しそうな顔で息子を愛おしそうに抱きしめ返した。 「うん、大丈夫だよ、お母さん、にこにこになったよ」 「にこにこになったおかお、みたい」 「ほら」 「んふふ、やったー、ぼく、ぎゅーはかせだもん」 息子と妻のいちゃつく様子を、夫は丼片手に疑問符を浮かべながら暫く見ていた。 ● ◯ ● 夕飯時の子どもの行動が某教育番組で流れていた音楽の影響だと、彼は寝かしつけから戻ってきた妻に説明された。「あの子がぎゅってしたら、私たちの機嫌が直ったり元気が出るの、そう言う歌なのよ」そういってソファに座る夫の隣りに腰掛けるとスマホで動画を再生させた。テレビの前でじっと例の曲を見続けている息子の後ろ姿。終えるなり画面いっぱい、アップに映った息子が「ふむふむ、ぎゅーっ」と高い声を上げ笑っている。それで、彼も先ほどの妻と息子の行動に合点いった。 「なるほどね、僕らが喧嘩でもしてると思ったんだろうね」 「うん、口論っぽかったもの」 呟くなり、妻ははぁ、と深いため息を吐いた。「あの子にそう思わせてしまうような話し方だったのよね、不安にさせちゃった」どうやら自身の行動に落ち込んでいるらしい。 「反省してるの？」 「うん……悟のいう通り、あの子は御三家の跡取り息子だから、目立つ目立たないの問題じゃないと思う。だけど、まだ小さいんだもの。お友達に距離を取られるのは寂しいじゃない？ だから、平等に見てくれるお友達がいてほしい、って思わずムキになって。ごめんなさい」 頭を垂れる妻の髪を、夫は掬うようにやさしく撫でた。「顔上げて」反省した面持ちで妻が顔を持ち上げる。夫は笑むと妻の方へ身体を向けて腕を広げた。 「そこはほら、気持ちをぎゅーっ、じゃない？」 夫の提案に、目を丸くした妻はふふ、と相好を崩し「そうだね」頷くと広くて逞しい胸に腕を伸ばし飛び込んだ。彼女が分厚い胸板の向こうへ腕を回すよりも強く、彼はぎゅうっと抱きしめる。 これは一種の嫉妬なのかもしれない。 彼は柔らかく甘い香りのする彼女の頭に鼻頭を押し付けながら、自身の胸に微かに燃える炎を観察する。これは幼い頃の己が息子へヤキモチを妬いているのだ。自身が与えられる事のなかった〝甘え〟を、伴侶である妻が息子へ注いでいることへの。 息子が羨ましいなんて、僕も大人気ないな。 あまりに息子ばかり思いやるから、つい、彼も妻に言い過ぎてしまったのだ。 「僕こそごめん」 砂塵のような声だった。あまりに微かな呟きに、すぐ傍の妻の耳も拾えなかったらしい。 「ん？ なぁに」 「このままする？」 「しません」 「僕も甘やかして」 「……」 「ね」 ぎゅうっともう一際強く抱きしめれば、腕の中の妻が「う」と呻いた。彼にはこの後彼女がどのような行動を取ってくれるのかわかっている。だって愛する妻だから。彼はほのかに口元に笑みを浮かべた。 2022.7.16投稿 →2022.7.27掲載