日を暮らす

日を暮らす

ひ 筆跡のせいでなんとなく、ただの紙切れが捨てられない …(笛/笠井)
を おいしくもないコーヒーを、なぜかおかわりした日のこと …(笛/藤代)
く くたびれてるのを見破って無理やり労うっていう嫌がらせ …(笛/藤代)
ら 来客用カップはいつの間にか使われなくなって …(笛/渋沢)
す すべてのおわかれより、ひとつのであいのために …(笛/藤代)

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筆跡のせいでなんとなく、ただの紙切れが捨てられない (笠井)

※すべては序章〜の主人公です。

わたしは今、部屋の机の上のゴミ屑と睨めっこしている。
原因はとても簡単。今日、放課後部活の終わりに藤代くんに手渡されたこれが原因。

「ミョウジさん、それ見終わったら捨てちゃっていいって」

渡されたのは、英語の小テストの小さい紙で。わら半紙だから灰色と茶色の間みたいな色したそれは四つ折りにされてて、開いたら裏に遠征先で使った救急用具の内容が綺麗に箇条書きされていた。――その遠征試合は平日に行われていて、わたしはマネージャと言ってもまず学生という身分で、そこに赴くことはできなかったのだ。
マネージャーをつとめているけど、滅多と話さない藤代くんから渡されたことにわたしは少し緊張して何度も頷いてしまった。あれも恥ずかしかったなあ。

—それ見終わったら捨てちゃってね

藤代くんにはああ言われたけれど。

そうっと机の真ん中にある紙に手を伸ばして、中途半端に開いている四つ折りの紙を摘まむ。摘まんで、箇条書きされたその文面にもう一度目を通した。
少し右上がりに細長い文字。ハネの部分が弱くて、でも一つ一つが丁寧に書かれてる――竹巳くんの筆跡だ。

「あー」

紙を開いた瞬間、すぐにわかった。わかってしまったのだ。あ、これ藤代くんじゃない、竹巳くんの字だって。
だって部誌で他の誰が書いたものよりも、竹巳くんのページはこっそり何度も読み直したんだから。間違えるはずがなかった。
だから“そのこと”に気づいた時、体が急にカッて熱くなって、紙に触れてる指がじわって震えた。嬉しさに胸が弾んだけど、笑いそうになる顔を必死に堪えて、藤代くんが傍から離れるのを必死に待った。

シャープペンで書かれてるから、わたしがなぞったせいで文字が右に擦れてしまってる。

ファイルか何かに入れたら、文字、消えないかな。

浮かんだ考えに思わず全力で首を振った。なに考えてるのわたし! なんかストーカーみたいじゃない!

そう思って掴んでる紙をそのまま椅子の隣りに置いてる小さなゴミ箱に捨てようと試みるのだけど、ゴミ箱の上に手を動かしてはみたものの、指がそれを離してくれない。

「むりむりむりー」

無理で、やっぱり机の上に紙を戻してしまう。
だって竹巳くんの筆跡だよ、もったいないよ、て思う自分がいてそれに意見する気持ちが正直とても少ない。
今日何十回繰り返したかわからない繰り返しに飽きて、机に突っ伏してみた。宙ぶらりんの足を前後に揺らして目を閉じてみる。

遠征試合で、竹巳くんはどんなサッカーをしてたんだろう。スコアを見たら、後半交代になっていた。試合自体は勝っていたけど、渋沢先輩たちの様子じゃ、あまりいい勝ち方をしていないのかもしれない。――竹巳くんに、聞きたかったなあ。

今日、藤代くんじゃなくて竹巳くんが持ってきてくれたら良かったのに。

浮かんだ考えにもう一度思いっきり首を振る。これじゃあマネージャ失格だ。
公私混同しちゃだめ、だめ。これじゃファンクラブの人たちと変わらない。

でも。

机に顔を置いたまま、もう一度紙を引き寄せる。
ミョウジへ――一番上に書かれた宛名を見て、やっぱり嬉しくて目をきゅっと閉じる。
机から顔を離して壁にかけておいた制服の胸ポケットから生徒手帳を取り出して、わたしは四つ折りの紙をさらに小さく折りたたんでそこに挟んだ。

これくらい、許されるよね?

2014.01.03

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おいしくもないコーヒーを、なぜかおかわりした日のこと (藤代)

連載「ふたたび」にて掲載中です。

2014.01.06

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くたびれてるのを見破って無理やり労うっていう嫌がらせ (藤代)

 

 

※(三上の従兄/教師)が主人公です

 

「あれ? ナマエちゃん疲れてる?」

確かに私は疲れていた。先日休日に行われた体育祭のあとということもあり、全身が筋肉痛だったのだ。日頃から切磋琢磨に身体を動かしている彼らと、教壇に立ち今まで蓄えてきた体力でやり切ろうとする自分たちとでは、その後の生活への影響は雲泥の差が出てしまうのは当たり前だと思う。私だけじゃないはず。
年をとったな、と思ってはいたがこの学園の教師陣の中だと若い方から数えた方が早い立場である。こんなことでへばったなどと軽々しく口にあげるなんてことは恐れ多い話なのである。
なのに、なのに、なのに!

今、この子――藤代誠二は言ったのだ。私に向かって!
――しかもここは職員室!

「そんなことないわよ、気のせいじゃないかしら」

普段なら冷たい態度で相手を流すところだが、ここは丁寧かつ優しく応えてみる。他の先生方の視線が360度至るところから突き刺さっている気がしてならない。
「いーや、絶対気疲れてる! だって化粧のノリ悪いし」

どこまで見てんだ! 男のくせに女々しいな!

胸中悪態をつく己の感情が勢いあまって口から飛び出しそうになるのをぐっと堪える。我慢だ、こんな年下の言うことを真に受ける必要があろうか――ひくつきそうな口角を上げて笑ってみせる。
「女の人にそんなこと言っちゃダメよ。藤代くんと同じくらいの子に言ったら傷つくからね」
「大丈夫、みんな若いからナマエちゃんみたいな濃い化粧してないもん」

こんのクソガキ…!

心の中に燻っている修羅が暴れ出しそうになる。やっちまえ、と怒り狂う阿修羅が私を応援している。本当に、本当に目障りだ――これは本気でやってしまっていいのかしら。
いつの間にか作ってしまっていた握り拳を慌てて膝の上に隠す。こめかみあたりに出来た青筋を痙攣させ、年下相手に釣り上げた眼で睨みそうになったけれど、ここで第三者の噴き出す音で慌てて我に返った。
「藤代、三上先生に失礼だろうが」
「そう言う立花先生こそ笑ってませんか?」
「ああ失礼」
謝っておきながら手で隠した口元は綺麗な弧を描いている。かなり失礼な人だ。

隣りの席で笑っているこの人は私よりも数年先に武蔵森学園へ異動してきた日本史の先生。なんでも校長がよその学校から引き抜くほどの有能な人らしい。容姿端麗、顔立ちの良さは、女生徒の間でひっそりと回っている隠し取り写真が物語っている。そして学年副主任を任されるほどの実力である。

口元から手を下ろした立花先生は流すように私を見、それから私の奥――藤代くんを見ると涼やかな笑みを向けてきた。
「三上先生だって疲れるだろう、お前たちの体育祭を援護していたのだぞ」
先程の笑いとは打って変わり、私を擁護してくれているような発言。
「立花先生…」
さすがは学年主任を任されるだけあって、しっかり周りが見えている。体育祭で若いからという理由だけで周りの先生方にこき使われさんざんな思いをしたが――苦労した甲斐があったのかもしれない。嬉しさに顔を綻ばせ名前を呼ぶと、相手は上げていた視線を私にずらした。労うような目とぶつかり、ほの苦い顔で応対する。

「こんなんでクタクタになっていいの?」

先ほどの楽しそうな声とは一変して不機嫌そうな声音に、立花先生に向けていた視線をずらし反対側を振り向くと、膨れっ面の藤代くんが恨めしそうに私を見ていた。我に返り周囲に気配を配ると、ところどころでトゲのある視線が私に向けられていた。しまった、ついうっかり優しさに乗じて疲れていると公言してしまった。
顔から血の気が引いていくのがわかり、冷や汗が浮かぶ――新米教師が言っていいことといけないことくらいある。とりあえず藤代くんの言葉を否定しようとした時、隣りの立花先生がふっと鼻で笑った。軽く首を戻す。

「三上先生」
「は、はい」
「アゴで使われていたのは事実、皆に談じ込めばいい」
「はっ…」

な、ん、て、こ、と、を!

立花先生からの言葉にピシリとと表情が固まる。ついでに私の頭の中も真っ白だ。
「いえいえ、そんな、私本当、本当に疲れてませんよ」
咄嗟にこんな言葉が出ただけでも褒めて欲しい。口角がヒクヒクと痙攣を起こし、声が掠れてしまった。手で口元を押さえながら喉を鳴らし、俯きながらちらっと周囲を見やる。

ほらー! あなたなんてことを!

学生だけではなく、職場の女性職員からも支持のある彼の言葉に、少なくとも今職員室に居て且つこの会話が聞こえていたであろう方々の鋭い視線が私に注がれていた。眉目秀麗で仕事の手際の良い彼が私の肩を持つなど、まるでどこかの少女漫画の恋愛パターン真っしぐらではないか。このままでは私は周囲の羨望という名の嫉妬で職場イジメにあってしまいそうだ――そうはさせるもんか。

「初めてで慣れなくて、でも本当に他の先生方からはありがたい指導を――」
「ねぇナマエちゃん」

私の言葉を遮って藤代くんが名前を呼んできた。立花先生に向けていた顔を再び彼に戻すと、突然真面目な顔をしてこちらを見ていた。
「嫌に必死じゃん。なんで?」
「それは、や、そんなことないわよ」
言い訳をしそうになり、慌てて否定した。――必死になるのも当たり前だ。こちらはキャリアも立場も上で更に先輩方の憧れの的である先輩と親しいだなどと勘違いされれば今後の学園生活に多大なる影響が出てしまうのだから。言葉に感情が入り思わず身振りまで付けて否定していると、真面目な顔をしていた藤代くんの顔がこれでもか、と言うくらいにっこりと笑った。

「うっそー保身に関わるもんね、ナマエちゃんもたいへんじゃーん」
「ほぅ」

こいつは一体なにがしたいんだ…!

片頬に手を伸ばして思いっきり抓りあげたくなったのをぐっとこらえる。周りの視線、周りの視線、意識を無理にそちらに飛ばして怒りを沈める。隣りで立花先生が感心したような声音を漏らしたが、藤代くんの先程の発言の一体どこに感心したのだろうか。

「でもナマエちゃん安心して。立花先生のアレはナマエちゃんを特別視してる訳じゃないから」
「藤代くん」

まるで周りに聞いてくださいと言わんばかりの彼の声量に思わず名前を呼んで嗜める。それでも彼は言葉を止めようとしなかった。それどころか私の言葉など歯牙にもかけず言葉をつらつらと言ったのだ。
「だって立花先生は、こんなのでクタクタになるナマエちゃんに興味なんてないもん」
一体何の話をしているというのだろうか。
「藤代くん、あなた言ってることの意味が」
わからないわよ、と言おうとした私の言葉を覆うように隣りから笑い声が聞こえてきた。驚いて怪訝そうにしていた顔が間抜けな顔になる。振り向けば普段は声を立てて笑わなさそうな立花先生が可笑しそうに笑っていた。

「立花先生…?」

意味が分からず眉を顰める。が、そんな私へ彼も一度も目もくれず藤代くんを見やった。眉根を下げ可笑しそうに笑いながら、彼はたった一言。

「あぁ、そうだな」

先生の言葉に表情には出さないが腹の中で鼻で笑ってやる。こっちだってこんな優秀な人は願い下げだ、一緒にいたらコンプレックスだらけになって人間不信なってしまう。
「……」
眉根を顰めたまま二人の様子を見守っていると机についていた肘に顔を乗せていた立花先生が悪戯そうな視線を藤代くんに投げた。
「それで、藤代の用事はなんだったんだ?」
「っ、そうよ、あなたここへ何しに来てたの?」
「俺? 俺はー…あ、タクー!」
どこか慌てふためいた挙動で別の場所にいたであろう友人に手を振った彼はそのまま席を離れようとして、ふと思い出したようにこちらを見た。
「ナマエちゃん、お大事に! ちゃんとマッサージして老け防止しなよ」
「老けっ…!」
思わず鬼の形相になり彼を睨むと悪戯が成功したような楽しそうな笑みを見せて、それから彼は奥の別の生徒の元へと向かっていった。嵐のように去っていった後ろ姿を荒い鼻息で見送っていると立花先生は興味深そうにこちらを見ていた。その視線の意味が分からず首を傾げる。

「立花先生?」
「いや、彼は面白い」
「素直なのか何でも直球でものを投げてきますからね。先生も彼に関わったら大変な目にあいますよ」
今までの散々な目にあった内容を思い出してそう言えば、彼は目を細め笑った。
「三上先生もまだまだですね」
「え?」
「鑑識眼をもっと鍛える必要がある」
「ええ?!」

出された問題を間違えた生徒の気持ちだ。十分だと思っていたところをもっとしっかり鍛えろと言われた気分になり自然顔が不満顔になっていたのかもしれない。ぐっと喉元まででかかった言葉を溜飲した。
「…日々善処します」
「いい心がけだよ」
「そうですか。そういえば立花先生は、何故藤代くんがここに来たかわかりますか」
そう尋ねれば、彼はおどけたように数回瞬きを繰り返すと女性よりも綺麗ではないかと思う唇を伸ばして笑む。あまりの綺麗な笑みにそう言った目で先生を見ていなかったが、思わずドキリとしてしまった。周りの女子職員のほぅ、と漏らすため息が聞こえたような気がした。

「――いや、君へ嫌がらせがしたかったんじゃないかな」

***おまけ****

「タクー」
「誠二、お前なにしに行ってたんだよ」
ブツブツと文句の一つや二つを言われるのをへらへらと笑いながら彼は全て流すと笠井の隣りに並んだ。
「ちょっと色んな噂聞いたから確かめに行ってた」
「へぇ、そう」
「え、そこは何のって聞くとこじゃない?」
いかにも聞いてよ、と言いたげな相手の態度に笠井は辟易しながら棒読みで相手の言葉を繰り返した。
「“なんの”?」
「付き合ってるって噂たってたから、確認してきた」
「で?」
「付き合ってなかった」
「ふうん……三上先生と立花先生だろ」
「え?!」

驚いた声音を漏らした相手が数歩後ろで立ち止まった。顔色を変えずに笠井は彼をじっと見た。驚いた表情だった彼はそれをゆっくりと笑顔に戻した。

「誠二それワザとらしすぎ、全然自然じゃないよ」
「ちぇっ。でもナマエちゃんは騙せたよ」

唇の先を尖らせてそう言った彼は、表情を大げさに笑みを作ると己の指で顔を指した。そんな彼の態度に笠井は嘆息すると呆れた目で相手を見た。――こっちだってお前のその演技に気付くのに一年以上掛かった。況して同じ学年、クラス、部活、寮でもなければ週に一度会えばいいほどの相手が藤代誠二という人間を知ることができるわけがないだろう。
その笑顔の裏では常にさまざまな事へ思考を張り巡らせているだなど、共に生活をしさらに相手への観察力がある程度あった笠井だから気がついたのだ。後は、気づきたくなくとも気づいてしまった方々――所謂観察力の鋭い一部の人間だけが知っている。殆どの人間が表面上の“彼”しか知らない。知ろうとは思っていないのかもしれない。

「騙せたかはどうでもいいけど」
「どうでもいいって、ちょ、」
「他にもなにかしてきたわけ?」
「何その言い方ー!」

廊下を歩きながら眉を顰めて抗議してくる藤代誠二に笠井は無言で一目見た。すると相手は顰めていた顔を崩すと薄笑いを浮かべた。笠井はいまこの廊下に自分たち二人しかいないことに気づいた。こんな表情を普段彼は誰の前にも見せないのだ。

「確認ついでに立花がうざかったから牽制しといた」
「……ふぅん」
「ああいうの邪魔だよなー、何か気づいたっぽいし」

声音は普段と変わらずハリのある声である。違うのは犬のような人懐っこい普段の表情とは打って変わりどこか嘲弄の含んだ冷たい表情でそれを口にしているという事である。

「三上先生」
「え?」
「誠二がデカイ声であんな事言うから怒ってたじゃん」
「タクんとこまで見えた?」
「誠二の声が届いた。大丈夫なの? 三上先生あんな怒らせて」

嫌われるんじゃないか、と。一応相手の気持ちを案じて笠井は尋ねた。すると彼は冷たい表情に少し悪戯そうな顔を混ぜて笑った。

「いーのいーの。アレで」

意図が掴めず笠井は自然と顔を顰めた。何故? と口に出さずに目で聞けば、相手は含みある笑みを零した。

「ああいうのはギャップに弱いの」

だから? と思った笠井はそれ以上疑問は口に出さなかった。その前に彼は藤代の腹づもりを見抜いてしまったのだ。それは、つまり――すべて計算のうち、ということだろうか。中らずと雖も遠からず。呆れた顔で相手を見れば、意地の悪そうな笑顔を笠井に向けた。

「俺の愛情、凄くない?」

笠井はそう言われながら、頭の中にに今週学んだ四字熟語の一つを思い出していた。そうだ、あれは――陰謀詭計。浮かんだ漢字が脳裏に焼きついて消えないでいる。そんな彼のことなど知ったことではない藤代は泣きぼくろのある目元を細めて笑う。

そんな二人の頭上から休み時間の終了を知らせるチャイムが鳴った。

2014.01.29

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来客用カップはいつの間にか使われなくなって(渋沢)

※やさしい背中の主人公です。

「ふふっ」

急に含み笑いを零した彼女に渋沢克朗は目を丸くした。口元にあげたマグカップを両手で持ちか細い指の先をゆらゆらと遊ばせながら、彼女は緩んだ目で彼を見た。

「ナマエ?」
「ちょっとね、思い出しちゃった」

何を、と尋ねようと克朗の口が開く前に、ナマエは目だけでなく頬も緩ませると爪を立ててコツコツ、と陶器をつついた。そして唇の先をマグカップにつけると中の紅茶を一口含む。白い喉が上下に動き嚥下したのを克朗は静かに見て、それから彼女の意図がわかり苦く笑った。

「ティーカップの事か」
「ごめんね克朗、このコップ見てたら急に」
「別に構わないが」

言いながら克朗はナマエから視線をずらすと席を立った。いらないことを言ってしまったのではないか、と思わず笑っていた顔を解いて彼の背中を目で追う。ナマエの不安などお見通しのように彼は背を向けたまま顔だけ振り向くとそっと笑って「お湯を沸かしにいくだけだ」とそっとナマエの方へ手を伸ばし頭を優しく撫で、そっとそれが離れると克朗はそのままキッチンへ潜り込むように消えた。
不安な気持ちが解けたナマエは、ほっと息を吐いて安堵の表情を浮かべると、脳裏で思い出したことを思い浮かべていた。

あれはそう、ナマエが克朗と不思議な関係でいた時だった。ナマエの事情で一時ではあるが二人は同じ屋根の下で共に生活を営んだ。そしてその後、また互いに別々の家で暮らす生活に戻った。戻りはしたが、そのほんの僅かの間に二人は急速にいつの間にか親交を深めていたらしい。気付けばナマエは忙しい生活を送っている渋沢の家に日が合えば訪れ、お茶をして帰っていく日が続いた。こんな日が続くといい――そう思っていた渋沢にある日、彼女がティーカップを持ってきたのだ。
理由は簡単である。いつもお茶をして帰るだけのナマエのために渋沢は来客用のとても綺麗な装飾のされた淵の薄いティーカップを出してくれていた。それは一つ一つが相当な値であると有名な海外メーカーの物だったため、ナマエはいつも恐縮していたのである。
そして自分のために毎度出されるそのカップをナマエはいつも懸念していたのだ――空のコップを放置したままいつも長居していた――もしかしたら茶しぶの跡が付いてしまっているのではないか、と。申し訳なさに出したそれを見た渋沢はそうとは知らず、非常に狼狽した。

彼女に出されたそれを見たとき、渋沢は理由もなく焦った。受けとりたくないと思ったのは、彼なりにそれがもしかしたら彼女からの最後の挨拶のように思えたからかもしれない。何度も自分の元を訪れてくる彼女を気にしていなかったとは言えなかった。どこか頼もしく、そしてどこか支えてやりたいと思わせる彼女に惹かれている事に気付いてはいたが、その気持ちはずっと口に出さなかった。なんとなく、渋沢自身それだけの関係に満足していたのかもしれない。そして渋沢はじゃあ、と部屋を後にしようとする彼女を引き止めて咄嗟に思いを告げたのだ。ただ、それは彼の早とちりであったのだが。

「ナマエ、差し湯するか?」
「あ、うん」

電気ポットを持ってやってきた相手にナマエはティーポットの蓋を開けて差し出す。克朗は丁寧に湯を注ぐと再び蓋を閉め、ナマエが持ってきたポットカバーを被せた。こうすれば、暫く熱は逃げないだろう。
テーブルに置いたマグに再び手を伸ばしていると、向かいに渋沢が座り直した。

「覚えていたんだな」

言われ、ナマエは掴んだマグを手元に寄せた。中の茶色い液体はゆらゆらと揺れ、水面にナマエの指は波状に映っていた。

「当たり前よ、大事な思い出だもの」

『待ってくれ』

あの時の渋沢の切羽詰った形相、焦りを隠せないしぐさに、真剣な眼差し。――対するナマエのきょとんと呆けた態度。なんとも対照的な二人の様子は傍目から見ればとても滑稽だったのだろう。

『渋沢くん?』

「言っておくが」

回想していたナマエを現実に引き戻したのは、渋沢の笑いを含んだ声音だった。ぼんやりとしていた意識を現実に向ければ、向かいの彼は彼女を見て笑んだ。そこにほんの僅か意地悪なものが含まれている。

「ナマエが俺に話しかけてきた第一声の方が凄かっただろう?」
「あ、あれはっ…」

『あなた渋沢克朗くんだよね?! お願い、泊めてください!』

初対面の相手に素性も名前も告げず畳み掛けるように頼みごとを告げた失態を思い出したのか、ナマエは顔を紅潮させた。思わず羞恥心に目元を潤ませつつ、相手を睨みつける。
無意識にだろう、唇がツンと上を向いている。その唇を見て渋沢が目元を緩ませていることに、彼女は気がついていない。

「酷いわね、人の恥ずかしい過去を掘り出すなんて」
「お互いさまじゃないか」
「ううん、いいえ、そんなことないわ」

子供のように意地を張りながら首を振る。納得しようとしない彼女に渋沢は目尻に皺を作って笑った。テーブルの上にあった手を伸ばしナマエの頭に乗せると、大きな手が彼女の頭部を優しく撫でた。

「わかった、悪かったよ」
「……腑に落ちない」

これじゃあまるで私が駄々をこねていたみたいじゃない、と彼女は小さく呟いた。穏やかな彼女の不貞腐れた様子が可愛らしく、渋沢はゴツゴツとした掌で二回、撫でていた頭を優しく叩くと、引いた。

「そろそろ飲めるが」
「……」
「ナマエ?」
「…いただきたいです、克朗どの」

飲み干した空のマグをテーブルの中央に押したナマエに克朗は破顔した。

「俺が殿でいいのか」
「じゃあ私はお姫さまがいいな」
「はは、ナマエ姫か」
「笑うとは失礼なきゃつめ」

二人で笑い合いながら、顔を合わせる。ポットカバーを外し、渋沢は急須を持つとマグに湯を注いだ。そんな様子をナマエは優しく見つめていた。

渋沢が一緒に暮らさないかとナマエに告げるのは、これから数時間後の事である。

2014.4.23

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すべてのおわかれより、ひとつのであいのために (藤代)

申し訳ありません。現在リンクを切っています。

2014.1.21

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